いつもの席。いつもの新聞。いつもの朝。
この前、高校生と並んで座った日から、何ヶ月か経った。あの日のあと、二度ほど同じ時間に行ったが、会わなかった。会わなくていい。会ったら、それは偶然だ。
今日、偶然が来た。
ドアが開いた。いつもの鐘の音。目を上げずに新聞を読んでいた。
「あ」
声の方を向いた。バスケ部のジャージではない。制服だ。紺のブレザー。背中にリュック。
「どうも」。高校生が小さく一礼した。
「おはよう」
「隣、いいですか」
「いつも隣にいるじゃないか」。私は言わなかった。言う代わりに、新聞を少し畳んで、席を空けた。
ミックスサンドを頼んだ。私はモーニングを終えていたので、コーヒーのおかわりだけ。
「あのさ」と彼が切り出した。「この前、修学旅行で、台湾行ったんですよ」
「そうか」
「おじさん、行ったことあります?」
一瞬、答えを考えた。「一度だけ、昔」と答えた。昔のいつ、とは言わなかった。彼も聞かなかった。
「いやー、マジでよかった」
マジで。この語尾が、彼の年齢を教える。
彼はまず夜市の話をした。
士林夜市。マンゴーのかき氷。胡椒餅。小籠包。臭豆腐。
「臭豆腐、臭いけど、食べられるんですよ」と彼は言った。そこで笑った。
私は笑わなかった。笑おうとして、笑いそこねた。昔、臭豆腐の匂いを嗅いだ通りの空気が、一瞬だけ鼻の奥に戻った。戻って、すぐ消えた。
「いいね」と私は言った。
「いいですよね」
彼が続けた。「西門町ってとこ行って。ドンキとかユニクロとかあって。俺たち、丸一日、そこで買い物してたんです」
「台湾で、ドンキ」
「そう。なんか、変ですよね。でも、めっちゃ楽しくて」
「楽しけりゃいい」
私は自分で驚いた。「楽しけりゃいい」という言葉が、口から出た。普段、あまり使わない。使ったことがあるかもしれないが、思い出せない。出た言葉が、まだ自分の中で位置を決めていない、という感触があった。
「あとさ、おじさん、びっくりしたんですけど」と彼が言った。
「何だい」
「夜市とかで、店員さんが日本語で話しかけてくるんですよ。結構、若い人でも。スラスラで」
「ほう」
「で、聞いてみたら、みんな『日本のアニメで覚えました』とか『YouTubeで勉強しました』って。俺の友達と、呪術廻戦で盛り上がっちゃって」
「呪術廻戦、というのは」
「アニメです。今、流行ってるやつ」
「そうか」
私は頷いた。頷きながら、別の場面を思い出しかけていた。場面の名前は、ここに書かない。書かないまま、頷いた。
彼がシロノワールを頼んだ。ミックスサンドを食べ終えた後で、まだ食べるのか、と私は驚いた。
若い。
シロノワールが運ばれてきて、彼はバターとソースを器用にかけた。
「おじさんも食べます?」
「いや、今日は」
「ですよね。朝ですもんね」
私は新聞の経済面を畳んだ。畳みながら、彼の話の続きを、待っているのか、待っていないのか、自分でも分からなくなった。
シロノワールを半分ほど食べたところで、彼がまた話し始めた。
「あとね、故宮博物院ってとこ行ったんですけど」
「行ったかね」
「眠かった」
「眠かったか」
「すごいのは分かるんすよ。中国四千年の、翠玉白菜とかあって。でも、高2の俺らには、無理でした」
「無理なときもある」
「そっすよね。おじさんの時代もそうでしたか」
「そうだった」。私は答えた。正確には、私は故宮に行っていない。行く予定だったが、取引先の訪問で時間が潰れて、結局行けなかった。行けなかった、とは言わなかった。行かなかった話は、彼に関係がない。
彼の話が、ひと段落した。スプーンがお皿を擦る音。外の車の音。
私は、自分が話そうとしていたことを、言わないで済ませた。
新竹の茶屋で、お茶を飲んでいた老人。「内地の方ですか」と聞いてきた声。歌い始めた「故郷」。歌い終わった後の、短い問い。
話せば、話せた。順を追って、五分くらいで収まる話だ。
話さなかった。話すと、彼のシロノワールの甘さが、一気に薄まる気がした。薄めないほうがいい、と判断した。判断の理由は、自分でもあとから考える。
彼は、ひと口ずつ、残りを食べていた。
彼が立ち上がった。リュックを背負い直した。
「おじさん、また」
「ああ」
ドアのところで、彼がこちらを振り返った。
「台湾、また行ってください。おじさんも」
私は新聞から目を上げて、少し頷いた。
「また、行くかもしれない」と答えた。
「行ったら、教えてください」
「教えることがあれば」
彼は笑って、ドアを開けた。鐘が鳴った。
家に帰って、台所のテーブルに座った。妻は朝の掃除で忙しい。邪魔にならないほうへ、椅子を半分引いた。
ノートを開いた。この頃、ときどきノートに書く。ソノダさんの真似事だ。
書いた。
「今日、コメダでタケウチ君に会った。台湾の話を聞いた。夜市、ドンキ、ドラゴンボール、呪術廻戦、日本語の若い店員。彼は楽しかったと言った。本当に楽しかったのだと思う。」
一度、ペンを置いた。
書き足した。
「私は、新竹の茶屋の話をしなかった。しなくてよかった、と今は思う。あとで、したくなるかもしれない。したくなったときに、するかどうかも、そのとき決める」
もう一度ペンを置いた。
少し考えて、最後にこう書き足した。
「若いというのは、歴史を飛ばしてもまだ世界と関われる、ということだった。私の年になって、歴史を飛ばしていた当時の自分を思い出すと、少し恥ずかしい。しかし、恥ずかしさの隣で、あのとき飛ばしていたから会えた何かもあった。彼にも、たぶん、飛ばしていたから会えた何かがある。その何かの中身は、彼が決める。私が決めることではない」
ノートを閉じた。
妻がお茶を持ってきてくれた。
「何、書いてたの」
「何でもない」
お茶を一口飲んで、私は窓の外を見た。