1995年、台湾で
日本語世代の眼差しと、内地の無関心について

ワタナベ(65歳・元会社員)

田島部長と森川さんが夢に出てきてからしばらく、別の記憶が、同じ水路を遡って戻ってきた。1995年の夏、私は三十四歳で、営業課長になったばかりだった。会社の取引先の訪問で、初めて台湾に行った。一週間の出張。戻ってきてから、この旅行のことは、同僚にも家族にも、うまく話せなかった。話せないまま三十年が経って、田島部長と森川さんの夢の延長で、今夜やっと書ける気がしてきた。

当時の私は、若かった。若かった、という言い方は、この場合、ほとんど「無知だった」と同義である。無知だった自分の恥ずかしい記憶として、三十年、私の中に残っていた。書くことでその恥ずかしさが軽くなるとは思っていない。軽くならなくていい。ただ、書かなければ、出会った相手たちにあまりに申し訳がない。相手たちは、たぶんもう、この世にいない。

最初の遭遇——迪化街の乾物屋

台北に着いた翌日、商談の合間の半日を、迪化街で過ごした。乾物屋の並ぶ古い通り。私は手土産を探して、鰹節に似た乾物を手に取っていた。店主が奥から出てきた。七十近い、細身の男性。眼鏡が鼻先にずり落ちていた。店主は私の手元を見て、流暢な日本語で話しかけてきた。「日本の方ですか。何を探していますか」。

私は驚いた。アクセントに違和感がなかった。「日本語、お上手ですね」と言った。月並みな返しだった。店主は少し笑って、「昔、学校で習ったんです」と答えた。それだけだった。私はその返答を、社交辞令の一種として受け取った。学校で習った、それが達者な日本語の説明になる、と疑わずに。

そのとき店主の口元にあったはずの何か——誇りだったか、さびしさだったか、あるいは両方だったか——を、私は見逃していた。見逃したことに気づいたのは、ずいぶん後のことだった。

新竹の茶屋——「内地の方ですか」

三日目、新竹の取引先を訪問した帰り、駅前の小さな茶屋で一時間ほど待ち時間を潰した。窓際の席で、日本から持ってきた新聞を広げていた。隣の席に座っていた老人が、私が紙面を繰るのを見て、話しかけてきた。七十代後半に見えた。やや前屈みで、白髪を短く刈り、開襟シャツを着ていた。

「内地の方ですか。東京からですか」。

「内地」。私はその語に、一瞬、反応できなかった。戦前日本が植民地に対して「本土」を指すのに使った語であることは、後で知った。その場では、ただ「東京から来ました」と答えた。老人は嬉しそうに頷いて、少しの沈黙のあと、低い声で歌い始めた。「うさぎおいし、かのやま」。日本の唱歌「故郷」だった。

私もその歌を知っていた。子供の頃、小学校の音楽の時間に習った。知っている歌だから、嬉しかったのではない。老人の口元で歌が動いているあいだ、私の知っている「故郷」の時間とは違う時間が、そこに流れていた。いつの時間か、なぜその時間なのか、当時の私には見えなかった。

「日本語世代」という層

あとで調べて分かった。1920年から1935年頃に生まれた台湾人は、公学校の六年間、そして中学校以降、日本語を「国語」として徹底的に教育された。1895年、下関条約で清から日本に割譲されて以来、1945年まで、台湾は五十年間日本統治下にあった。統治の後半、特に1937年の皇民化政策以降、家庭でも日本語を使うよう勧奨され、日本名への改名も進んだ。李登輝総統は1923年生まれで、青年期、岩里政男を名乗っていた。この世代にとって、日本語は第二言語というより、公的生活の事実上の第一言語だった。家で両親と台湾語や客家語を話しても、学校と役所と軍隊と新聞と、すべてが日本語だった。

1945年に日本が敗戦すると、国民党政府が大陸から進駐してきて、日本語の使用を禁じ、北京語を新しい「国語」として国民に強制した。日本語世代は、幼少期の言語を公的には奪われた。家の中で、夫婦の間で、あるいは同世代の友人との間でだけ、日本語を小声で話した。抑圧は長かった。戒厳令が解けたのは1987年、私が訪ねた1995年からほんの八年前である。

彼らは、戦後五十年間、日本語を家の奥の引き出しにしまっていた。しまっていた引き出しを、1995年の夏、観光で来た日本人の私の前で、静かに開けてくれた。開けてくれたのに、私はその引き出しの大きさが見えていなかった。

「日本人は、私たちを覚えていますか」

新竹の茶屋の老人は、「故郷」を歌い終えて、お茶を一口含んで、私の方を見ずに、小声で聞いた。

「日本人は、私たちのことを、覚えていてくれていますか」。

私は即答できなかった。「覚えています」と言うのは、当時の自分には、はっきり嘘になった。日本で台湾統治時代のことを真面目に話題にする人を、私は会社の中でも家族の中でも、まず見たことがなかった。植民地、という単語は高校の教科書で覚えたが、そこから先へ進んだことがなかった。覚えていない、と答えるのは、あまりに無礼だった。

私は黙っていた。老人は私の方を、短い時間、見た。それから、一度瞬きをして、少し笑うような表情を作って、「まあ、お忙しいでしょう」と言った。コップのお茶を飲み干して、窓の外を見た。

「まあ、お忙しいでしょう」。あの語調は、今も耳に残っている。老人は、日本人が「日本語世代」をほぼ忘れていることを、すでに知っていた。知った上で聞いて、私の沈黙で答えを受け取り、そして、日本人の無関心を、自分の側で引き受けてくれた。引き受けて、「忙しいでしょう」という軽い一言で、私を見逃してくれた。私は見逃された側だった。見逃されたことに、そのときは気づかなかった。

台南の夜——「日本時代のほうが静かでした」

五日目、台南の古い食堂で、地元の商工会の方と夕食を取った。会の八十歳くらいの顧問の男性が、食事の半ばで、ぽつりと言った。

「日本時代のほうが、静かでしたよ」。

私はその場で、なんと返していいか分からなかった。ああ、植民地を懐かしむ発言か、と単純に受け取りそうになって、それを慌てて抑えた。ただ「そうですか」と小さく応じるだけで、話は別のところへ流れていった。

帰国後、この一言がずっと引っかかっていて、何年かかけて、少しずつ調べた。調べて、ようやく意味が取れた。「日本時代のほうが静か」という発言は、1947年の二二八事件と、その後の白色テロの記憶を踏まえている。戦後、大陸から進駐した国民党政府と軍が、台湾の知識人と民衆を、短期間で大量に虐殺した。犠牲者の数は、諸説あるが数万人と見られている。知識人が家族の前で連行され、二度と戻らなかった家が、町に何軒もあった。この大規模な殺戮と比較すると、日本統治時代の後半、特に皇民化政策期は、少なくとも大規模な同胞殺戮は起きなかった。だから「静か」という語が出てくる。

単純な親日、ではなかった。日本統治期にも抵抗運動があり、弾圧があり、差別があり、犠牲があった。そのすべてを知った上で、それでも戦後の白色テロとの比較では「静か」だった、という、二重に重い比較結果としての一言だった。この比較の重みを、三十四歳の私は受け取りきれなかった。ただ「そうですか」と返して、話を逸らしてしまった。逸らしたのは、老人の方の配慮だったとも今は思う。若い日本人旅行者に、二二八事件の詳細を話しても仕方がない、と判断して、話題を別の方へ流してくれたのだった。

日本統治のディテール、あとで知ったこと

帰国してから何年かかけて、断片的に本を読んだ。読んで、1995年の旅で自分が見ていた風景の下に、どれだけの具体が埋まっていたか、少しずつ分かってきた。

台北駅の赤いレンガの古い駅舎は、1940年代まで日本時代に建てられた建物だった。総統府(旧台湾総督府)も日本統治期の建物。台湾各地の農業試験場、製糖工場、鉄道、港湾、上下水道、病院、学校、これらの近代インフラの基盤の多くは、統治期の五十年に敷かれた。敷かれたものを、戦後の国民党政府と台湾人自身が、不十分な部分は足しながら、それでもかなりの部分を使い続けた。1995年の新幹線計画(後の台湾高速鐵路)も、技術と語彙の一部を日本の新幹線に依存していた。

統治期の負の側面も、もちろんあった。霧社事件(1930年)で先住民セデック族が武装蜂起し、日本側の鎮圧で数百人が死んだ。台湾人は二等国民として、日本人内地人より低い賃金で働かされた。高砂義勇隊として南洋戦線に送られて、戦死した者も多数いた。皇民化期には、日本名への改名、神社参拝、神棚設置が強制に近い形で進められた。これらの負の歴史を、戦後の日本はまとめて書棚の奥に押し込んだ。押し込んだ記憶を、台湾の日本語世代は、当事者として、一人一人、家の中で抱え続けた。

1995年の私が、迪化街で「昔、学校で習った」と言われたとき、「昔」の中身は、この膨大な正負の具体だった。乾物屋の店主にとって、「昔」という一語は、私にとっての「昔」とは桁違いの重量を持っていた。私はその重量が見えなかったから、社交辞令として受け流した。

「内地」という語が戻ってきた場所

新竹の老人が使った「内地」という語のことを、あらためて考える。戦前日本で、内地は本土四島、外地は台湾・朝鮮・樺太・南洋・関東州を指した。行政的な語彙であり、同時に、内外の格差を明示する語でもあった。外地の民は、制度上、内地の民と対等ではなかった。

戦後、この「内地」という語は、日本語の日常から急速に消えた。外地が失われたので、内地という対概念も機能しなくなった。消えた、ということは、意味が変わったのではなく、語彙ごと廃語化した、ということだ。日本の戦後の国語は、外地の語彙を一緒に書棚から外した。

しかし、外地の側では、この語は消えなかった。1995年の台湾で、日本語世代の老人の口元に、「内地」は現役の語としてまだ生きていた。老人は私に「内地の方ですか」と聞いた。聞かれた私は、1995年の東京の日常会話にはない語を、耳で受け取って、その古さに一瞬戸惑った。戸惑ったまま、「東京から来ました」と、違う次元の言葉で答えた。私たちの会話は、最初から、二つの時代の語彙で噛み合っていなかった。噛み合わせる仕事は、本来こちらの責任だった。私は噛み合わせなかった。

内地の無関心、その構造

日本に戻って、会社の同僚数人にこの旅行の話をした。みんな丁寧に聞いてくれた。しかし、反応の形は、ほぼ一様だった。「へえ、台湾に日本語話すお年寄りがいるんだね。まだ残ってるんだ」。終わり方が、きれいすぎた。「残っている」という語彙で、話題が完結する構造になっていた。残っているもの、という扱いにすると、相手は過去の残余として処理される。現在進行で抱えている人として扱われない。処理された瞬間、同僚たちは別の話題に移っていった。

反応のきれいさの中に、戦後日本の忘却の技術が凝縮されていた。森川さんが前の夢で語った「看板書き換えの速さ」の、もう一つの帰結だった。「大東亜共栄圏」の看板を「平和と民主主義」の看板に書き換えた瞬間に、日本は台湾統治の五十年を、朝鮮統治の三十五年を、南洋統治を、一括して書棚の奥にしまい込んだ。しまい込んだ理由は、戦争責任の処理を避けるためだった、という側面もある。しかし、日常の会話のレベルで言えば、理由はもっと単純で、「忘れる方が楽」だったからだ。忘れる方が楽、という日常の選好が、五十年積み重なって、1995年の同僚たちの「まだ残ってるんだ」になった。

忘れられた側の人は、忘れた側に「覚えていますか」と問うしかない。問われた側が「忘れていた」と正直に答えれば、そこから再開できる可能性がまだある。正直に答えず、「残っている」で処理すると、再開の可能性は閉じる。1995年の同僚たちも、別に悪人ではなかった。悪意はなかった。ただ、再開の可能性を閉じる方向に、日常の語彙が彼らを流していた。流している力の大元を、私は説明できなかった。説明する言葉を、当時の私は持っていなかった。

三十年、答えられないままの問い

1995年から三十一年が経った。新竹の茶屋の老人、迪化街の乾物屋の店主、台南の食堂の顧問の男性——全員、統計的にはもうこの世にいない可能性が高い。日本語世代は年々減り、2025年の時点で、台湾における日本語ネイティブ並みの話者は、ごく少数になった。最年少の日本語世代でも、すでに九十歳に近い。

私は、彼らに何かを返す機会を、ついに持たなかった。新竹の老人の「覚えていますか」という問いに、いまの私が答えられるとすれば、答えは一つしかない。「覚えていませんでした。覚えていなかったことを、あなたが問うてくれたから、覚え始めました。覚え始めてから三十年が経ちました。覚えていなかった時間に比べれば、覚えている時間は短いです。短くても、覚え始めた、ということだけは、書き残します」。遅い答えだ。遅すぎる答えでも、書いておかなければ、記憶は完全に消える。

返すべき相手が先に消えてしまう、という時間の非対称は、戦後日本が植民地統治の記憶に対して持っていた構造そのものだった。相手が生きているうちに気づけば、対話は成立する。気づかないまま相手が死ぬと、対話は成立しない。成立しなかった対話の埋め合わせは、後からどれだけ書いても、相手には届かない。届かないと分かっていて書くのは、偽善に近いところがある。それでも書く。偽善に近くても書く、と決めないと、何も残らない。

田島部長、森川さん、そして台湾の老人たち

田島部長と森川さんが夢に出てきて、「伝統」と「歴史」の裏の具体を語った夜から、この台湾の記憶が一緒に呼び起こされたのは、偶然ではないはずだ。田島部長は戦中、内地で銃後を見た。森川さんは戦前に内地を出て北支へ行き、復員して、内地の戦後復興を先導した。私は1995年、内地の人間として台湾に行き、台湾の日本語世代と対面した。三世代三地点の記憶が、一人の記録者の夢と旅の中で、一晩だけつながった。

つながりの中身を書き出しておく。田島部長たちが語った「明治以降に作られた伝統」と、森川さんが語った「看板書き換えの速さ」と、私が台湾で見た「日本語世代の残された語彙」——これらは同じ一つの構造の、違う角度の断面である。近代日本は、自分の都合で「伝統」を何度も発明し、発明したものを廃棄するときも急だった。廃棄した記憶は、廃棄した側の国では忘れられるが、廃棄された側の人の身体には残る。残った記憶を、当事者は家の奥で抱え、何十年かかけて、静かに薄れさせる。薄れさせる作業の途中で、当の発明主が、他人事のように訪ねてきて、「お上手ですね」と言って通り過ぎる。この非対称が、戦後の内地の日常の、目立たない基底にあった。

基底にあったこの非対称を、私は三十四歳でも理解しなかったし、四十歳でもまだ理解していなかった。六十代になって、退職して、田島部長の夢を書き、森川さんの夢を書き、そして今夜、台湾の記憶を書いている。書きながら、ようやく、基底が少し見えてきた。見えたところで、相手の多くはもういない。いない相手に向かって書くことが、私の退職後の、具体の仕事になってきた。具体の仕事がある間は、まだ紙切れではない。紙切れでないうちに、次の記憶が戻ってくるのを、私は待っている。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。