エッセイ「自治会の草むしり」の背後には、経済学の古典的な問題が置かれている。なぜ毎年同じ12軒だけが朝7時の草むしりに来るのか。なぜ来ない18軒も、刈られた道を歩く便益は同じように受けるのか。それを公共財のフリーライダー問題と呼ぶ。
経済学では、財・サービスを二つの性質で分類する。排除性(特定の人を利用から排除できるか)と、競合性(一人が使うと他人の利用が減るか)。両方が成り立つのが私的財(パン、衣服)、両方が成り立たないのが公共財(街路、警察、空気、国防)である。
自治会が整備する道路の植え込みは、典型的な公共財である。草が刈られた道は、誰が歩いても排除できない。誰かが歩いたからといって他の人の景観が減るわけでもない。整備のコストを負担しなかった人も、便益は完全に享受できる。
公共財の供給には、参加しなくても便益を受けられるという性質から、フリーライダー(タダ乗り)が必ず生じる。本作の30軒のうち、来ない18軒の中で「来られない」5軒(高齢)は正当な理由があるが、残り10軒は明確な理由なく来ない。彼らも草の刈られた道を歩く。缶コーヒーと菓子折りは全戸に届く。
この問題が厄介なのは、参加しない側を非難する強い根拠を持ちにくいことである。自治会は任意団体であり、参加を強制できない。そして、ワタナベが「無理しなくていいですよ」と新婚夫婦に答えるとき、彼は強制の不可能性を肌で理解している。同時に、来てくれると嬉しい、という小さな期待もある。この非対称性こそが、公共財供給の現実的な姿である。
合理的個人は皆フリーライドするはずなのに、現実には12軒が毎年来る。これを経済学では互酬性(reciprocity)、社会的選好、規範の内面化などで説明する。ワタナベが「15年前は来ていた家もある」と気付くことや、「来年も来てくれるといい」と内心思うことは、金銭的便益計算を超えた、近隣関係の維持という別の効用が働いている証である。
新興住宅地で参加率が低いのは、近隣の互酬関係がまだ蓄積されていないからである。逆に言えば、長く住み続けた人ほど「来る側」になりやすい。30代夫婦が「来年は」と声をかけたのは、その互酬の輪に入ろうとする最初の信号である。
シリーズ「裏の糸」は、専門家には当たり前の概念を、暮らしの言葉で語り直す試み。既存3作:ワタナベの妻×植木鉢(用語なし版)、マーク×芝刈り(用語あり版)、ワタナベ×実家(テセウスの船)。本作はそれらに続く五本のうちの一本である。