モチヅキカナデ(授業資料制作アシスタント)
知人の出版社から、英会話教材のウェブ版制作のレビューを頼まれた。電子教材の操作性のチェックが私の本業だが、HTMLと一緒に渡されたダイアログのテキストを、つい一言ずつ読んでしまった。最初のページに、こんな会話が載っていた。
Tom: Hi, Yuki. How are you?
Yuki: I'm fine, thank you. And you?
Tom: I'm fine, too. Thank you.
このダイアログは、典型的な中学英語の冒頭シーンだ。三行のなかに、be動詞が四回("I'm" が二回、"are" が一回、"too" の前の "I'm" が一回)出てくる。文法練習の素材として、設計が緻密だ。"How are you?" は be動詞の疑問。"I'm fine" は be動詞の肯定。"thank you" は感謝の定型。"And you?" は省略疑問。一つのやりとりに、四つの基礎項目が、ほぼ無駄なく詰め込まれている。
緻密だが、読み返してみると、人間の挨拶として、何かが多すぎる。"thank you" が一往復のなかで二回出てくる。あなたが調子はいいか聞いて、私が "fine" と答えて、私が「ありがとう」と言って、そして "And you?" であなたに聞き返して、あなたが "I'm fine, too" で受けて、もう一度「ありがとう」と言う。感謝が、二回。質問の往復が、二回。礼節の道具が、三行のなかで密に組まれている。
実際の英会話は、ここまで密ではない。"How are you?" に "Good, you?" と返して終わる、という二往復で済むことが多い。"thank you" が挨拶のなかに入ってくる場面は、知らない相手や、フォーマルな会議の冒頭ぐらいで、友達同士には、ほぼない。教科書のダイアログは、文法項目の密度を上げるために、人間関係の距離感を一段、フォーマルに引き上げている。
三行のなかに四つの be 動詞、二回の「ありがとう」。文法の密度のために、人間関係の温度が一段、上がっている。
このフォーマル過剰の選択は、教科書編集の現場では、いくつかの理由で合理的だ。文法を網羅できる、地域差や世代差で混乱しない、テストの採点基準が揺れない。"Good, you?" を正解にするかどうかは、採点者によって判断が分かれる。"I'm fine, thank you" は、どの採点者も揃って〇をつける。標準化されたテストとの整合性のために、教科書は、最も保守的な形を選ぶ。
合理的な設計の結果として、教科書英語は、英会話の「最も保守的なバージョン」を学習者に提供する。学習者が中学・高校でこの保守的バージョンを習得し、卒業後にネイティブと話す段階で、ようやく「実際の英語はもう少し違う」と気づく機会を得る。気づいたあと、現代の英会話に近づいていくプロセスが、本来の英語学習の続きにある。
問題は、その続きを踏むかどうかが、学習者個々の機会と動機に依存していることだ。卒業後にネイティブと話す機会のない人は、教科書英語のまま、自分の英語の認識を凍結させる。凍結したまま「英語は終わった」と思ったあとで、英語=形式的・機械的なもの、というイメージが、定着していく。
もう一つ、自己紹介のパートでよく見るダイアログを挙げておく。
A: Hi, I'm Tom. Nice to meet you.
B: Nice to meet you, too. I'm Yuki.
"Nice to meet you" に対して、相手が "Nice to meet you, too" と鏡像で返す。実際のネイティブの会話では、もう少しバリエーションがあって、"You too." だけで済ませるとか、"Pleasure" と返すとか、いくつかある。
教科書の鏡像構造は、ペアワーク(生徒同士で対話練習する形式)の便宜のために選ばれている。ペアの一方がAを言って、もう一方がBを返す。AとBが対称的な構造であるほど、ペアの役割を交代しやすい。教育設計の都合が、英語の自然さよりも、優先される。
これも、批判だけして済ませる話ではない。ペアワークで型を覚えることが、英語学習の初期に有効である、というエビデンスは、ある。型を覚えてから、応用していく、というのは、語学学習の標準的なプロセスでもある。問題は、型のところで学習が止まる学習者が一定数いる、という社会的な構造のほうにある。
仮に、私がこの教材のウェブ版を、現代英会話に少し寄せて書き換えるとしたら、何ができるか。教科書の保守的バージョンを残したうえで、「実際にはこういう言い方もある」という補足を、ボックスで脇に置く、ぐらいのことはできる。学習者は、保守的バージョンを最初に覚えたうえで、補足を見ることで、別のバージョンの存在を知る。テストで点を取るときは保守的バージョン、ネイティブと話すときは補足、と使い分けができる。
これは教科書編集の現場では、すでに提案されている設計だ。「教科書英語が時代遅れだ」という単純な批判ではなく、教育設計のなかで、保守的バージョンと現代バージョンを、どう並列させるか、という具体の議論が、続いている。今回のレビューで、私もそういう設計のメモを、教材ウェブ版の脇に書いた。書いて、出版社の担当者に送った。出版社の側で採用されるかどうかは、これからだ。
あの最初のダイアログに戻ると、三行のなかには、文法項目の密度と、教科書編集の合理性と、テストの採点基準と、ペアワークの便宜と、それから、保守的バージョンへの帰属の安心感が、全部詰まっている。詰まっているから、不自然になる。詰まっていなければ、教材として成立しない。不自然さは、教育設計の合理性の裏返しでもある。
本シリーズで、私は、その裏返しを、各回の場面ごとに見ていきたい。三行のなかに何が詰まっていて、何が省かれているかを、一行ずつ、ほどく作業として。