モチヅキカナデ(授業資料制作アシスタント)
知人の出版社から、英会話教材のウェブ版制作のレビューを頼まれた。電子教材としての操作性のチェックが私の本業だが、HTMLと一緒に渡されたダイアログのテキストを、つい一言ずつ読んでしまった。最初のページに、こんな会話が載っていた。
Tom: Hi, Yuki. How are you?
Yuki: I'm fine, thank you. And you?
Tom: I'm fine, too. Thank you.
このダイアログは、典型的な中学英語教科書の冒頭シーンだ。架空の合成例として書いたが、構文の骨格は、誰もが見覚えのあるはずのものだ。「How are you? / I'm fine, thank you. And you?」が、教科書のなかでは、挨拶の正解として提示される。
私は中学一年生のころに、これを暗誦できるようになった。テストでも書けた。問題は、私が大学院でアメリカの教育工学者と話す機会があったときに、"How are you?" と聞かれて反射的に "I'm fine, thank you. And you?" と返したら、相手が一瞬、固まったことだった。固まったあと、彼は笑って、「教科書ですね」と日本語で言った。それは私にとって、教科書英語と現代英会話のあいだの距離を、初めて自分の体で測った瞬間だった。
"How are you?" の現代英会話での応答は、教科書のような定型ではない。アメリカ人の同僚や、英語圏のオンライン会議で観察できる範囲では、おおむね次のようなパターンが多い:
カジュアルな場面では、"I'm fine, thank you" は、ほぼ出てこない。"Fine" と一語だけは出ることもあるが、"thank you" を後ろに添えることは、たぶんない。"And you?" の代わりに "you?" だけを返すのも、よくある形だ。
つまり教科書英語の "I'm fine, thank you. And you?" は、現代の英語会話のなかでは、フォーマル過剰の方向に振れている。フォーマル過剰なまま暗記した中学生が、十年後にネイティブと話したときに、相手を一瞬固めるのは、当然の結果だ。
とはいえ、教科書英語に「ネイティブ感のなさ」を批判するだけでは、教材としての設計意図を見落とす。教育工学の現場では、このような型は、いくつかの合理的な目的のために選ばれている。
第一に、文法の網羅性。"How are you?" は、be動詞の疑問形と、主語と動詞の倒置を学ぶ題材として、ちょうどいい。"I'm fine" は be動詞の肯定文。"thank you" は感謝の定型。"And you?" は省略疑問。一つのやりとりに、四つの基礎文法項目が含まれている。教育設計として、無駄がない。
第二に、文化的中立性。"Tired, but OK" は、現代アメリカ英語のスラングを含み、地域や世代によって受け取り方が変わる。"I'm fine, thank you" は、どの地域・どの世代にも通じる、最も保守的な形だ。教科書編集者の立場としては、地域差や世代差で混乱を招かない選択をする。
第三に、評価の容易さ。テストで「Hi, ◯◯さん。元気?」を英訳させるとき、"I'm fine, thank you" を正解にすれば、採点者は揺れない。"Good, you?" を許容するかどうかは、採点者によって判断が分かれる。標準化されたテストとの整合性のために、教科書は最も保守的な形を選ぶ。
教科書英語の不自然さは、教育設計の合理性の裏返しでもある。
合理的な設計の結果として、教科書英語は、英会話の「最も保守的なバージョン」を学習者に提供する。学習者が中学校・高校でこの保守的なバージョンを習得し、卒業後にネイティブと話す段階で、ようやく「実際の英語はもう少し違う」と気づく。気づいたあとで、現代の英会話に近づいていくプロセスが、本来の英語学習の続きにある。
問題は、その「続き」を踏むかどうかが、学習者個々の機会と動機に依存していることだ。卒業後にネイティブと話す機会のない人は、教科書英語のまま英語の認識を凍結させる。凍結したまま、英語学習を「終わった」と認識する。終わった認識のもとに、英語に対する苦手意識や、英語=形式的なもの、というイメージが、定着する。
教育工学の議論のなかでは、この「保守的バージョンから現代バージョンへの橋渡し」を、誰がどの段階で担うか、という設計課題がある。教科書編集者は、保守的バージョンの整合性を優先する。塾や英会話教室は、現代バージョンを売る。学校の先生は、両者のあいだで、生徒の状況に応じて橋渡しをする。橋渡しが上手にいくケースもあれば、いかないケースもある。
もう一つ、自己紹介のパートでよく見るダイアログを挙げておく。
A: Hi, I'm Tom. Nice to meet you.
B: Nice to meet you, too. I'm Yuki.
これも、教科書では繰り返し出る型だ。"Nice to meet you" に対して、相手が必ず "Nice to meet you, too" と鏡像で返してくる。実際のネイティブの会話では、もう少しバリエーションがある:"You too." だけで済ませる、"Pleasure" と返す、"Same here" と返す、など。
教科書の鏡像構造は、ペアワーク(生徒同士で対話練習する形式)の便宜のために設計されている。ペアの一方がAを言って、もう一方がBを返す。AとBが対称的な構造であるほど、ペアの役割を交代しやすい。教育設計の都合が、英語の自然さよりも、優先される。
これも、批判だけして済ませる話ではない。ペアワークで型を覚えることが、英語学習の初期に有効である、という教育工学的なエビデンスは、ある。型を覚えてから、型を崩していく、というのが、語学学習の標準的なプロセスだ。問題は、型を覚えた段階で学習が止まる学習者が一定数いる、という社会的な構造にある。
仮に、私がこの教材のウェブ版を、現代英会話に近い形で書き換えるとしたら、どうするか。教育工学の枠の中で、いくつかの選択肢がある。
ひとつは、教科書の保守的バージョンを残したうえで、「実際にはこういう言い方もある」という補足ボックスを脇に置く。リンクをクリックすると、"Good, you?" や "Tired, but OK" の音声が流れる。学習者は、保守的バージョンを最初に覚えたうえで、補足を見ることで、現代バージョンの存在を知る。テストで点を取るには保守的バージョンを使い、ネイティブと話すときには補足の知識が役立つ。
もうひとつは、教科書のダイアログを最初から複数バージョン用意する。第一バージョンが保守的、第二バージョンがやや現代寄り、第三バージョンがカジュアル。学習者の到達度に応じて、教師がバージョンを切り替える。これは教育設計のコストが上がるが、橋渡しの段階を教材内部に組み込める。
どちらも、教科書編集の現場では、現実に提案されている設計だ。「教科書英語が時代遅れだ」という単純な批判ではなく、教育設計のなかで、保守的バージョンと現代バージョンを、どう並列させるか、という具体の議論が、続いている。
大学院で、アメリカ人の同僚が、私の "I'm fine, thank you. And you?" に対して、固まった一秒を、私はいまも覚えている。あの一秒は、彼にとっては「日本人の英語の保守性」のサインだった。私にとっては、「教科書から先の英語に、私はまだ橋を渡っていない」と気づく合図だった。
あれから十年以上、私は教育工学の現場で、英語ではなく、HTML/CSS/JSやインタラクティブ教材のウェブ化に携わってきた。今回、英会話教材のウェブ版レビューで、再びあのダイアログに出会って、教科書英語の不自然さを批判するのは簡単だが、教育設計の合理性を残しながら、橋渡しを足す道を探るのが、教材ウェブ化の本来の仕事だと思った。
本シリーズでは、英語教科書の他の場面(道案内、電話、買い物、友達との会話)を順に取り上げて、それぞれの不自然さと、その裏の教育設計の合理性と、教材として置き換え可能な範囲を、書いていきたい。
——補記:この第一稿は公開後に辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。