リンメイファ
友達を家に呼ぶ、というのは、台湾ではわりと大きなことだ。
外食の文化がある。夜市がある。食堂がある。わざわざ家で作って出す必要はない。それでも家に招くということは、「あなたのために台所に立つ」という意味になる。母がそうしていたように。
ソノダマリを招いた。マンションポエムの共同研究者。そして、いつの間にか友達になった人。
メニューを考える。ソノダは日本人だ。台湾料理を食べたことはあるけれど、どこまで口に合うかわからない。安全策で行くか。攻めるか。
まず滷肉飯。#1で作った80%の味。八角が足りなくて、母の味には届かないけれど、日本人には逆にちょうどいいかもしれない。八角が強すぎると「薬っぽい」と言われることがある。80%が、ちょうどいい。
次に鹹豆漿。#2で編み出した食パン版。油條の代わりに食パンをちぎって入れる。邪道だけれど、ちゃんとおいしい。日本の朝食と台湾の朝食が混ざった味。
そして——臭豆腐。
これは攻めだ。
臭豆腐(チョウドウフ)。名前のとおり、臭い豆腐。発酵液に漬けた豆腐を揚げるか蒸すかして食べる。台湾の夜市には必ずある。屋台から何メートルも先まで匂いが届く。初めての人は顔をしかめる。慣れた人はその匂いに引き寄せられる。
日本で言えば——納豆、だろうか。いや、納豆は穏やかすぎる。くさやのほうが近い。でもくさやとも違う。臭豆腐の匂いは、もっと複雑で、もっと主張が強い。好きな人は「たまらない」と言い、嫌いな人は「無理」と言う。中間がない。
台湾人にとって、臭豆腐は故郷の匂いだ。夜市を歩いていて、あの匂いがしたら「ああ、台湾だ」と思う。私にとっては、母と一緒に夜市に行った記憶の匂い。匂いが記憶を運んでくる。
それを、日本の友達に出す。冒険だ。
チャイムが鳴る。ソノダが来た。手にはワインとお菓子。「おじゃまします」と靴を脱ぎながら、鼻をひくひくさせている。
「いい匂い。……と、もう一個、何か匂う」
鼻がいい。滷肉飯の醤油の匂いと、臭豆腐の匂い。両方届いている。まだ言わない。
テーブルに座ってもらう。まずは滷肉飯。白いごはんに茶色い肉そぼろをかける。煮卵を半分に切って添える。
ソノダ、一口。
「おいしい! これ、なんて言うんだっけ——ルーローハン?」
「そう。滷肉飯」
「お店で食べるのより家庭的な味がする。好き」
80%の味が、ちゃんと届いた。嬉しい。
次に鹹豆漿を出す。温かい豆乳がゆるく固まって、食パンのかけらが浮いている。
「これいける! 朝ごはんに食べたい。食パンでできるの? レシピ教えて」
教える。酢を入れるタイミングと、温度が大事だということ。ソノダはスマホにメモしている。真面目だ。
さて。
台所に戻って、最後の皿を持ってくる。揚げた臭豆腐。外はカリッと、中はふわっと。台湾式の甘酢キャベツを添えて。見た目はきれいだ。問題は匂い。
テーブルに置いた瞬間、ソノダの顔が変わった。
「……これ、何?」
「臭豆腐。台湾の夜市の定番」
「匂いが……」
ソノダは皿を見つめている。揚げたてのきれいな豆腐。でも鼻に届く情報と目に届く情報が一致しない。脳が混乱している顔。
「嫌だったら無理しなくていいよ」
ソノダは箸を持った。覚悟を決めた顔。研究者の顔だ。未知のものを前にして退かない顔。一口、食べた。
表情が変わった。
「……おいしい。匂いと味が違う」
そう。そうなのだ。匂いは強烈なのに、味は深くて優しい。外側のカリッとした食感の奥に、発酵が生んだ旨味がある。甘酢キャベツのさっぱりした酸味が、豆腐のコクを引き立てる。鼻で感じるものと、舌で感じるものが、まったく違う。
見た目と中身が違う。匂いと味が違う。第一印象だけでは、本当の味はわからない。
ソノダが二口目を食べている。三口目。四口目。箸が止まらなくなっている。
「これ、ビールに合いそう」
「合う。台湾ビール(台灣啤酒)と最高」
「買ってくればよかった」
ソノダが持ってきたワインを開けた。臭豆腐とワイン。台湾にもフランスにもない組み合わせ。でも悪くない。
食べながら、話が止まらなくなった。
台湾の夜市の話をした。士林夜市の人混み。臭豆腐の屋台の煙。隣の屋台の雞排(ジーパイ、フライドチキン)の行列。歩きながら食べる。座って食べる。立って食べる。食べながら次の屋台を探す。食べることが目的なのに、食べることが手段でもある。夜市では「食べる」が動詞ではなく、空気になる。
ソノダは日本の居酒屋の話をした。仕事のあとに暖簾をくぐる感じ。とりあえずビール。枝豆。焼き鳥。誰かの愚痴を聞いて、誰かに愚痴を聞いてもらって、最後に「じゃあまた」と言って散っていく。食べ物はきっかけで、本題は会話だ。
夜市と居酒屋。場所は違うけれど、どちらも「日常のすぐ隣にあるちょっとした非日常」だ。帰り道に寄れる。特別な日じゃなくても行ける。でも行くと少しだけ気分が変わる。
「どっちの国の料理が好き?」とは聞かない。そういう質問は野暮だ。どっちの国の料理も好きだ。滷肉飯も味噌煮込みうどんも好きだ。臭豆腐も焼き鳥も好きだ。豆漿も味噌汁も好きだ。どちらかを選ぶ必要はない。
食卓には、国境がない。おいしいものはおいしい。それだけでいい。
時計を見ると、もう夜の10時を過ぎていた。話し込みすぎた。
ソノダが帰り支度をしながら言った。
「今度は私が名古屋めしを作るね」
「味噌煮込みうどん?」
「……買ってくる」
「作らないんかい」
「味噌煮込みは難しいの! 赤味噌を煮込む時間の見極めが——」
「レシピは?」
「……適量」
笑った。#3で母が言っていた「適量」と同じだ。料理のレシピは、どの国でも最後は「適量」に行き着く。
玄関で靴を履きながら、ソノダがもう一度言った。
「臭豆腐、また食べたい」
あの匂いに最初は顔をしかめていた人が、帰り際にそう言う。第一印象を超えた。舌が知ってしまった。もう戻れない。
ソノダが帰ったあと、テーブルを片付ける。滷肉飯の皿は空っぽ。鹹豆漿の椀も空。臭豆腐の皿には、甘酢キャベツだけが少し残っている。
全部食べてくれた。
台湾の料理を作って、日本の友達に出して、一緒に食べた。それだけのことだ。でも「それだけのこと」に、10年分の意味がある。
日本に来たばかりのころ、台湾料理を出すのが少し怖かった。「変な匂いがする」と思われたらどうしよう。「口に合わない」と言われたらどうしよう。台湾の味を否定されたら、自分を否定された気持ちになるかもしれない。だから出さなかった。日本の料理を覚えた。日本のスーパーで買えるもので、日本のレシピを作った。
いつからだろう。「食べてみて」と言えるようになったのは。
たぶん、相手による。ソノダなら大丈夫だと思えた。匂いで引いても、一口は食べてくれるだろうと。そして一口食べたら、匂いの向こう側にある味を見つけてくれるだろうと。
食卓は、国境を消す場所になれる。「おいしい」の一言が、出身地の違いも、言語の違いも、文化の違いも、ぜんぶ溶かしてしまう。臭くても、おいしければ、友達になれる。
洗い物をする。部屋にはまだ臭豆腐の匂いが残っている。窓を開ける。夜の風が入ってくる。匂いが少しずつ薄れていく。
でも、今日の食卓の記憶は残る。臭豆腐の匂いを嗅ぐたびに、ソノダの「おいしい」を思い出すだろう。
今度はソノダの家で、名古屋めしを食べる番だ。買ってきた味噌煮込みうどんでいい。手作りじゃなくていい。誰かの食卓に招かれること自体が、もうおいしい。