ソノダマリ
前回、暗号辞典の入口を開いた。今回は暗号の中で最も精密に制度化されたもの——「徒歩○分」に踏み込む。不動産広告の距離表記は嘘ではない。しかし真実のすべてでもない。そのズレの構造を解剖する。
不動産広告で「徒歩○分」と表示するとき、その計算方法は法的に決まっている。道路距離80メートルを徒歩1分と換算する。端数は切り上げ。
この「80m=1分」は、不動産の表示に関する公正競争規約で定められた基準だ。由来は1963年、当時の調査でハイヒールを履いた女性が歩く速度を基準にしたと言われている。分速80メートル、時速4.8キロ。
ここまでは公正なルールに見える。しかし、このルールには4つの盲点がある。
平地の80メートルと急な上り坂の80メートルは、同じ「1分」と計算される。規約には「坂道があるために実際に歩く時間が長くなるときでも、80mを1分に換算してよい」と明記されている。
名古屋の覚王山や八事のような高台の物件は、駅からの道が上り坂になる。広告の「徒歩8分」は平地換算であり、実際に坂を登れば12〜15分かかることもある。
横断歩道の信号待ち時間、踏切の待ち時間は考慮しなくてよい。これも規約に明記されている。大きな交差点が2つあれば、信号待ちだけで3〜5分加算される。広告の「徒歩10分」が実際は「徒歩15分」になる理由の大半はこれだ。
「○○駅徒歩5分」は、駅の出入口からの距離であり、改札やホームからではない。巨大ターミナル駅では、出入口からホームまでさらに5〜10分かかることがある。
海外の不動産サイトに印象的な例があった。東京のある物件が「新宿駅から徒歩2分」と広告されていたが、実際にホームに到達するには30分かかった——新宿駅の出入口までは確かに2分だが、そこから目的の路線のホームまでの駅構内移動が長大だったのだ。
81メートルでも160メートルでも、80メートルを超えた瞬間に「2分」に切り上げられる。逆に言えば、「徒歩5分」と表示された物件は320メートル(4分)から400メートル(5分)の間にある。同じ「徒歩5分」でも、最大80メートルの差がある。
不動産メディアREDSや松戸のMAD Cityなど、実際に「徒歩○分」を歩いて検証したレポートがいくつか公開されている。共通して報告されている結論はこうだ。
広告の「徒歩○分」に対して、実際の所要時間は1.2〜1.5倍になるのが一般的。
「徒歩10分」の物件は実際には12〜15分。「徒歩15分」は18〜22分。これは坂道、信号、駅構内移動の累積効果だ。
不動産業界の人間はこれを知っている。しかし消費者は「徒歩10分」を文字通り10分だと思っている。この認識のギャップが、距離の暗号の核心だ。
徒歩分数以上に巧妙なのが「○○エリア」の暗号だ。
マンションポエム#14で紹介したコピーライターの証言を思い出してほしい。「吉祥寺から離れた物件だが、吉祥寺の名前を使いたい。だから『吉祥寺の奥座敷』と書いた」。
「○○エリア」「○○生活圏」は、最寄駅が○○ではないときに使う表現だ。最寄駅は別にある。しかし○○のブランド力を借りたい。だから「エリア」という広い範囲を宣言し、ブランド駅を「生活圏」に含めてしまう。
「吉祥寺エリア」=最寄駅は三鷹か西荻窪かもしれない
「覚王山エリア」=最寄駅は池下か本山かもしれない
「南麻布エリア」=最寄駅は白金高輪かもしれない
#1の暗号の型で言えば、これは型1(ネガティブの変装)の応用だ。「最寄駅がブランド駅ではない」というネガティブを、「ブランド駅のエリアにある」というポジティブに変装する。
マンションポエムのシリーズで各国の広告を見てきた。距離の暗号も各国にある。
| 国 | 距離の暗号 | 参照 |
|---|---|---|
| 日本 | 80m=1分。坂道・信号無視。「○○エリア」で生活圏を拡大 | 本回 |
| 台湾 | 「距市中心15分」=深夜の空道で最速の場合 | MP #3 |
| 韓国 | 「더블역세권」(ダブル駅勢圏)=どちらの駅からも微妙に遠い | MP #4 |
| アメリカ | "Walking distance" の定義が人によって違う(10分?30分?) | MP #8 |
面白いのは、暗号の精密さが国によって違うことだ。日本は「80m=1分」という公式ルールに基づくため、暗号が制度的に構造化されている。台湾は「深夜の空道で」という裏技を使い、韓国は「ダブル駅勢圏」というブランディングで距離を曖昧にする。アメリカは "walking distance" の定義自体が曖昧で、暗号以前に基準がない。
規制が精密な国ほど、暗号も精密になる。日本の80m=1分ルールは、坂道・信号を無視するという「公式の抜け穴」を内蔵している。ルール自体が暗号を生んでいるのだ。
距離の暗号を分析してわかったのは、暗号が個人の悪意ではなく、制度の構造から生まれるということだ。
80m=1分のルールを作った人は、消費者を騙そうとしたのではない。統一的な計算基準を定めたかっただけだ。しかし「坂道・信号を無視してよい」というルールの副産物として、広告と実測の間にズレが制度的に組み込まれた。
マンションポエム#1で「不動産広告規制がポエムを生んだ」と書いた。暗号も同じだ。ルールがあるから暗号が生まれ、ルールが精密であるほど暗号も精密になる。
次回は「面積の暗号」——あなたの部屋は広告ほど広くない理由を解剖する。