第一稿の論旨は素直で読みやすいが、論旨が素直すぎてエッセイとしての固有性が弱い。出典動画のYouTube語りをそのまま日本語にして、語り手だけ台湾出身に差し替えた翻案、という構造が透けて見える。原典を超える固有のディテールがほとんど無く、リンメイファでなくても書ける文章になっている。改稿の方向は明確で、抽象を削り、台湾と東京の具体を厚くし、教訓を結末で並べることを止める。以下、八観点で指摘する。
このひとりの時間を、私はまだ完全には楽しめない。けれど、グラフの先にある未来の自分のために、少しずつ、楽しめるようになりたい。
「ひとりの時間を楽しめるようになりたい」で閉じるのは、本文の四つ目以降の流れから完全に予想がつく。読者は発見ではなく、確認作業を読まされる。落とすなら、別の場所で落とすべきだ。
母を残してきたことに、最初は罪悪感がありました。電話で「ごめんね」と言ったら、母は笑って「私もそうしたじゃない」と答えました。
母娘の和解シーンが、テンプレに近い。「笑って」「私もそうしたじゃない」は、感動を引き出すための装置として整い過ぎている。リアルな母娘の電話なら、もっと噛み合わない、余計な近況報告が混ざる。台湾の母なら、たぶん中国語で電話していて、その語彙の手触りが書かれて初めて固有のシーンになる。
……と最近思います。……ような気がします。……かもしれない。……だろうと思います。
第一稿全体で、断言を避けて留保で終える文末が多い。十分以上の数を数えた。これらが積み重なると、書き手の覚悟が薄く見える。観察として断言できるところは断言する。本当に分からないところだけ留保する、という使い分けが必要だ。
姉の家の姪が、もう小学三年生になりました。次に会う時にはもう四年生で、私の知らないことをたくさん覚えているでしょう。
姪のディテールが、ほぼゼロである。名前も性格も、最近覚えた言葉も、書かれていない。子供は早く成長する、という抽象命題を述べているだけで、姪を実際には観察していない。固有名詞と、姪が最近言った具体的な一言を一つ入れるだけで、段落の温度が全然変わる。
このグラフから、私は五つの心がけを受け取りました。
五つを箇条書きで並べるのは、出典動画の構造をそのまま引いている。エッセイとしては平板で、五つそれぞれが平均的に薄くなる。本当に大切なのは一つか二つに絞り、その一つを深掘りする方が、エッセイの体を成す。出典の五点並列構造から脱却しないと、これは要約に近い文章になる。
母が春に送ってくれた凍頂烏龍。
凍頂烏龍は、前作「お茶を淹れて、心配を二つに分ける」と全く同じ象徴装置として使われている。これを連作の合図として使う意図ならよいが、二作続けて同じお茶で結末を閉じると、リンメイファのキャラ印が「お茶で締める人」に固定化される。象徴装置は、もう少しずらすべきだ。今度は別のもの——例えば、台所のタイマー、メイリンが置いていった洗濯物、姉から届いた荷物——で閉じる方が、人物像に幅が出る。
感謝の気持ちを伝えること、丁寧にコミュニケーションを取ること、それだけで関係はずっと違うものになります。
この文は、リンが書いても、ワタナベが書いても、サイトウが書いても、ソノダが書いても全く同じに通る。つまり、リンメイファ固有の観察ではない。同僚との関係を書くなら、料理教室の生徒さんの具体的な顔——三年通ってくれているおばあちゃん、最近台湾旅行に行った若い夫婦、料理が苦手で泣きそうになりながら来る学生——のうち、誰か一人を選んで、その人とのやり取りを書くべきだ。
母にも、今度の電話で、この話をしようと思います。
「今度電話する」で閉じるのは、行動の決意を未来に投げて、現在の不確実さから逃げる典型。本当に電話するかは分からないし、しなくても許される結びである。これは自己赦しの構造だ。エッセイの結末としては、別の動詞——既に電話した、もしくは電話しなかった、もしくは電話の途中で言葉を呑み込んだ——のいずれかで閉じる方が強い。
第一稿で残すべき核はひとつだけだ。「台湾の母が二十二歳で台南から台北に出た時の決断と、私が二十八歳で東京に出た決断が、世代を越えて同じ構造をしている」という発見である。この一本の糸を中心に据えて、Our World in Dataのグラフはその発見の補強材として一回だけ言及する。五つの心がけは全て削るか、一つだけ残す。結末は、未来への決意ではなく、母と自分の今の距離を、具体の一点で示して閉じる。改稿では、抽象語の総量を半分以下にし、台湾と東京の固有の地名・台北の店の名前・凍頂烏龍以外の何か特定の物——を増やす。