ワタナベ(65歳・元会社員)
前回、私は「転職」という語を骨格にして昭和の労働観を掘った。書き終わった時、もう一つの動詞が裏側で待っていることに気づいた。転職は会社を移る動詞、出世は会社の中で上がる動詞。横の移動と縦の移動。昭和の働く男たちは、この二つの動詞のどちらかを使って自分の職業人生を語っていた。「俺は三回転職した」「俺は五十で部長になった」。動詞の選び方が、その男の職業観をほぼ全部表していた。
そして両方とも、現在ほぼ語彙として死んだ。転職は前回書いたとおり、語の意味が変質して別物になった。出世はそれより一段深く、語そのものが面接の場から消えつつある。私が新入社員だった昭和五十年代、入社時の意気込みを語る席で「出世したい」と言うのはまだ普通の語彙だった。今は違う。新入社員研修の場で、新人の口から出世という語が出ることは、ほぼ無いと聞く。
私は会社員を三十八年やった。三十八年のあいだ、出世という言葉は私の身体のあちこちに刻まれていた。朝の通勤電車の窓に映る自分の顔、会議室で名刺を出すときの手の角度、同期と廊下ですれ違うときの会釈の長さ。すべてに出世観が入り込んでいた。退職して四年目、私の身体は梯子の上にもう無い。無くなってから、自分の身体の中に梯子の形がどれほど深く彫り込まれていたかが見える。
今回は、出世という語そのものを骨格として、その隣接にある語彙の地層を掘る。降霊録で田島・森川・田口の三人の老人を呼び出して書いたときと同じやり方で、自分の身体の中の昭和を、まだ語が消えきらないうちに記録する。
出世。出ると世の二字。元は仏教語で、「出世間」の略だった。世間を出る、つまり世俗を超越する、という意味。釈迦が王子の身分を捨てて出家したことを「出世」と呼んだ。仏教経典のなかで「出世」は、悟りの方向を示す方位語だった。世俗を出る方向、つまり上ではなく外。
これが日本に入って、平安・鎌倉までは仏教語として使われていた。中世末から近世にかけて、語の意味が反転していく。世俗を出る、ではなく、世俗の中で頭を出す、という意味へ。江戸期の文献では「出世する」がほぼ現代と同じ用法、つまり身分・地位の上昇を指す語として定着している。「立身出世」という熟語が成立するのも近世。明治の福澤諭吉が『学問のすゝめ』で青年たちに説いたのも、この意味での出世だった。
世俗を出る、から、世俗で上がる、へ。この語義反転は日本語史のなかでも珍しい。意味の方向がほぼ百八十度変わっている。仏教語が世俗化するときに意味が薄まるのはよくあるが、これほど方向が裏返る例は多くない。元の語の重力が、意味反転後にも微かに残っていて、「出世」という語にはどこか宗教的な響きがある。たんなる昇進ではない、何かを超越したような響き。昭和の私たちが「あの人は出世した」と言うとき、その響きを微かに使っていた。
退職して、私は仏教書を少し読むようになった。原始仏典のなかで「出世間」の語に出会ったとき、私の身体が小さく揺れた。私が三十八年走り続けた方向と、釈迦が捨てた方向が、同じ漢字で書かれている。語が同じで、向きが逆。私はずっと、世俗で上がる方の出世を追いかけて、世俗を出る方の出世を一度も考えなかった。考えなかったまま、定年が来た。
語の歴史的反転を、現代の用法の手前に置いておく。私の身体に刻まれた出世という語は、実は二つの方向を内包している。私が走った方向と、私が走らなかった方向。両方を同じ漢字が背負っている。
「出世街道に乗る」「エリートコースに入る」「順調に階段を上る」「課長コース」「役員候補」「次期社長候補」。昭和の会社では、この種の表現が日常的に使われていた。誰がどのコースを歩いているか、社内の空気として共有されていた。明示的な辞令はないが、配属先と上司の組み合わせと、昇進のタイミングを並べると、その人がどのコースに乗っているかがほぼ分かった。
入社時点で街道の入口は決まっている、というのが昭和大企業の暗黙のルールだった。学閥がまずある。創業者の出身大学、歴代社長の出身学部。その学閥に属しているかどうかが、最初の選別だった。次に初任配属先。本社企画部、社長室、経理本部、海外事業部。これらは街道の中央に直結する配属先で、入社一年目の四月の発表で誰が選ばれたかが、その年の同期の出世観を決定づけた。
最初の上司との関係も大きかった。最初の上司が部長になり本部長になる人なら、そのラインで一緒に上がっていく可能性が高い。最初の上司が万年課長で終わるなら、そのラインから抜けるのに余計な労力が要る。海外赴任のタイミング——三十代前半で短期赴任、三十代後半で長期赴任、四十代で支店長として赴任——のパターンも、街道の標識として機能していた。
私の場合は、街道の中央ではなかった。本社の中枢部門ではなく、二本横の脇道のような部門に配属された。決して傍流というほど外れてはいないが、中央でもない。中堅管理部門と言えばいいか。配属の発表を聞いた瞬間、私は自分が街道の中央を歩く人生ではないことを直感した。直感は二十二歳の身体にしては、ずいぶん早熟だった。
その後三十八年、私は脇道を歩き続けた。脇道からは、街道の中央が常に見えていた。中央の同期がどう昇進していくか、どの配属を経由してどの役職に上がるか、すべて視界に入っていた。見えていることと、自分が歩けないことは、別の問題だった。脇道から街道を眺めることが、私の職業人生の風景の半分を占めていた。
脇道を歩いた人間にも出世はある。ただし、街道の出世とは速度も最終地点も違う。脇道の出世は、街道の出世から五年から十年遅れて、同じ役職名にたどり着く。たどり着いた頃には、街道の同期はもう次の段に上がっている。常に一段か二段、後ろを歩く。これが脇道の構造だった。
脇道を歩いた長い年月のあいだ、私はそれを不満に思ったり、納得したり、忘れたりを繰り返した。退職した今、脇道だったことに対する感情の総量は、思っていたより小さい。歩いた事実だけが残っていて、感情の方は時間が薄めた。
同期。昭和の出世観の中核語。同じ年に入社した数十人の集団が、定年まで暗黙の比較対象として生き続ける。新卒一括採用と年功序列が組み合わさった日本企業特有の構造で、欧米には対応する概念がない。私の同期は約四十名。四月一日の入社式で初めて顔を合わせ、研修を共にし、その後それぞれの部門に散ったあと、三十八年間、暗黙の比較対象として並走した。
同期会というものが定期的に開かれる。最初は入社十年目あたりから始まり、二十年目、三十年目、と節目ごとに集まる。集まると、誰がどの役職か、誰がどこへ転勤になったか、誰が出向に出されたか、即座に共有される。表向きの会話は近況報告だが、底では出世の進度を確認し合っている。私の同期会も、そうだった。
私の同期で、四十代前半で部長になった男がいた。本社中枢の街道組で、初任配属が社長室、三十代で海外赴任、戻ってすぐ企画部長。同期のなかで一番速かった。同期会では彼が中心になり、彼の話す近況に皆が耳を傾けた。彼の出世が、私たちの同期の出世曲線の最高速度線を引いていた。
同じ同期で、五十代前半に関連会社へ出向になった男がいた。本社で課長まで行ったあと、伸び悩み、関連会社の総務部長として出された。出向は本社の役職と切り離される人事で、本人の出世曲線はそこで実質終わった。同期会で彼の出向が話題になった夜、私は帰り道に彼と二人で駅まで歩いた。彼は、出向辞令を受けた日の話を、淡々と話した。淡々と話す彼の声の底にあったものを、私は今でも思い出せる。
同じ同期で、定年まで課長で居続けた男もいた。万年課長、と陰で呼ばれていた。本人は意に介さない素振りだったが、同期会の二次会で酔ったとき、一度だけ「俺は課長で十分だ」と言った。十分だと言う言い方に、十分ではなかった年月の重みが滲んでいた。
四十代部長、五十代出向、定年まで課長。三者三様の出世曲線が、一つの同期内に共存していた。三人とも入社時点では同じスタートラインに立っていた。同じ研修を受け、同じ社歌を歌った。三十八年後、三人は別の場所にいた。別の場所にいることを、お互いに知っていた。知っていながら、同期という関係性は最後まで切れなかった。
同期という概念は、昭和の会社の最も独特な発明の一つだったと、退職してから感じる。三十八年並走する集団がいる、という構造は、人生の伴走者というほど親密でもなく、ただの知り合いというほど遠くもない、独特の距離感を生み出した。私の人生に、同期がいなかったら、出世という観念はもっと薄かった。
係長、課長代理、課長、次長、部長、本部長、執行役員、取締役、常務取締役、専務取締役、副社長、社長。私のいた会社の役職階梯は、おおむねこの十二段だった。会社によって名称や段数は違うが、昭和の大企業はおおむね十段前後の細分化された階梯を持っていた。
段差が小さい。これが昭和の階梯の最大の特徴だった。係長から課長代理へ、課長代理から課長へ、半段ずつ上がる構造。半段の差に、給与差が数万円、肩書きの一字違い、部下数の数名差、机の位置が窓側へ一歩近づく差、社用車を使えるかどうかの差、出張のホテルランクの差、正月の挨拶回りの順番の差、健康診断のオプションの差。
段差が小さいから、上の段が常に見える。手を伸ばせば届きそうな距離に、次の役職がある。常に見えていることが、昇進競争を細密に駆動した。年に一度の人事異動の発表前後、社内の空気が緊張する。誰が上がり、誰が留まったか、すべてが半段単位で観察された。半段の差が、その後の数年間の社内での扱いを変える。
役職それぞれに、微細な差が割り当てられていた。課長になると、部下を直接持てる。次長になると、部長会議に陪席できる。部長になると、社用車の利用申請が課長を経由しなくてよくなる。本部長になると、専用の秘書がつく。執行役員になると、役員フロアに机が移る。取締役になると、株主総会に出席する。常務になると、社長室への入室が自由になる。
これらの差は、外部からは些細に見える。給与差で言えば、係長と部長で年収三百万円程度、部長と取締役で年収五百万円程度。会社全体の利益から見れば、わずかな配分の違い。しかし、この微細な配分の違いが、昭和の働く男の人生の大きな部分を駆動した。
駐車場の位置差、というものがあった。私の会社の本社ビルの地下駐車場は、役員フロアに近い順に番号が振られていて、役員クラスは入口に近い番号、部長クラスは中ほど、課長以下は奥の番号、という暗黙の配置だった。番号の違いは、地下を歩く距離の違いに過ぎないが、毎朝毎晩その距離を歩く身体には、確実に染みた。
段差を細かく作ることで、組織は労働者を細密に統御した。昇進を餌にして、長時間労働、転勤受諾、家庭犠牲、上司への忠誠を引き出した。十二段の階梯は、その意味で精巧な統御装置だった。私はこの装置の中で三十八年を過ごし、装置の構造を身体で覚えた。覚えた身体が、退職してからも消えない。
退職した今、私は段差のない世界にいる。家にいて、近所を歩いて、図書館に行く。誰も私の役職を知らないし、知る必要もない。段差のない世界は、楽だが、薄い。三十八年、段差で世界を測っていた身体が、段差のない平面で測り方を失っている。
係長止まり。課長止まり。万年係長。万年課長。昭和の会社には、出世を諦めた男たちが、確かな数で存在していた。組織のピラミッド構造上、上に行ける人数は決まっている。同期四十人のうち、部長になれるのは数人、役員になれるのは一人か二人。残りの大多数は、どこかの段で上がることをやめる。
「あいつは出世コースから外れたな」。陰でそう囁かれる視線が、社内の空気にあった。本人の耳にも、その囁きは届く。届いていることを、本人も同僚も、知っている。知っていながら、表面では何事もないように振る舞う。これが昭和の職場の独特の作法だった。
諦めの段階というものがあった。私が観察した限り、おおむね三段階で進む。第一段階は四十歳前後。同期のなかで一番速い人間が課長から次長に上がる頃、自分の昇進速度との差が客観的に見えてくる。気づきの段階。第二段階は四十五歳前後。気づきが事実として確定する。同期の街道組が部長になり、自分は課長のままか、課長代理から課長に上がったばかりか、という差が固定する。受け入れの段階。第三段階は五十歳前後。出世を意識から外し、別の軸で職業生活を再構築する。開き直りの段階。
三段階を経た男たちは、職場での身の処し方を独自に編み出していた。仕事を丁寧に閉じる男がいた。出世の競争から降りた代わりに、自分の担当する業務を細部まで丁寧に仕上げる。誰も褒めないが、彼の仕事は社内で「綺麗な仕事」と呼ばれていた。後輩の世話に時間を使う男もいた。自分が上に行けない代わりに、若手が育つ場所を作ることに時間を使う。彼の周りに自然と若手が集まり、非公式の指導者として機能していた。
社外の趣味を本格化させる男もいた。出世から降りた分の精神エネルギーを、囲碁、登山、釣り、写真、地域活動、地元の祭りの世話役、自治会の役職、息子のスポーツ少年団のコーチ、こうした社外の活動に振り向ける。会社内の役職とは別の階梯を、社外で築く。社外の階梯のほうで彼らは満たされていた。
諦めた身体の処し方の作法。昭和の職場には、これが何種類か存在していた。作法は明文化されていなかったが、観察すれば見えた。観察し、自分なりの作法を選び取ることが、出世競争から降りた男たちの第二の職業課題だった。
私自身は、出世の中央にも端にもいなかった。中間地点で三十八年を通した。中間地点というのは曖昧な場所で、自分は街道組ではないと自覚していたが、完全に降りたわけでもなかった。次の昇進の可能性を、五十代まで微かに保ち続けた。完全に諦めた男の作法を選ばず、街道組でもない、中途半端な姿勢で長年を過ごした。
中間地点で見えたものは、両側の風景だった。街道の中央を歩く同期の姿と、完全に降りた同期の姿、その両方が中間地点からは均等に見えた。両方を見ながら、自分はどちらでもない歩き方をしていた。中間地点の歩き方には、街道の作法も降りた男の作法も使えない。自分で歩き方を編むしかない。三十八年かけて、私は中間地点の歩き方を、自分の身体に少しずつ覚えさせた。覚えた歩き方は、退職した今も身体に残っている。残っているが、もう使う場所がない。
同期で先に部長になった男、執行役員になった男、取締役になった男、社長になった男。私の同期からは、社長まで上り詰めた者が一人いた。最後に社長になったのは、入社時点で街道組と目されていた男ではなく、街道組の三番手か四番手と見られていた男だった。最終局面で、本命候補が健康問題で脱落し、思いがけずこの男が社長候補に浮上した。出世の最終局面は、こうした偶然が決定的な役割を果たすことが、しばしばある。
出世した側の苦しさを、私は彼らを観察して知った。第一に、責任の累積。役職が上がるたびに背負う責任が指数的に増える。課長は数億円、部長は数十億円、本部長は百億円単位、取締役は数百億円から千億円単位の事業判断を背負う。判断を誤れば、自分のキャリアだけでなく、部下数百人の人生が変わる。眠れない夜が増える、という話を、執行役員になった同期から聞いた。
第二に、家庭との分離。出世する男は、おおむね家庭との時間を仕事に振り替える。残業、出張、転勤、接待、ゴルフ、二次会。これらの時間が出世の燃料になる。家庭の側で、子供の成長を見られない期間が長くなる。妻との会話が減り、家族の年中行事への参加が散発的になる。役員になる頃には、家のなかで自分が異物のように感じる、と話した同期もいた。
第三に、同期の友人を失う。役員になると、同期は部下になる。同期会に出席しても、以前のように対等の口調で話せなくなる。役員側も、部下になった同期の側も、距離の取り方を再設計しなければならない。再設計はうまくいかないことが多く、結果として疎遠になる。出世の頂点に行く男は、同期の輪から徐々に外れていく。
第四に、健康の悪化。これが最も顕著だった。役員になった同期で、五十代後半に大病をした者が複数いた。心筋梗塞、脳梗塞、癌。長年の長時間労働、過剰な接待、運動不足、ストレスが、五十代の身体に一斉に出現する。出世の最終段階に入った時期と、健康が崩れる時期が、ほぼ重なっていた。
そして、出世した男の退職後。これが特に印象的だった。社長まで上り詰めた私の同期は、退職して三年後、ゴルフ場で偶然一緒になった。プレー中、彼は社長時代と同じ表情で歩いていたが、声の張りが明らかに抜けていた。会話の内容も、現役時代の鋭さがなく、家庭のこと、孫のこと、最近見た映画のこと、当たり障りのない話題が多かった。
会社という枠組みが消えた瞬間に、自分の身体の輪郭が分からなくなる、という感覚を、彼は遠回しに語った。役員時代、社長時代の自分は、会社という外殻に支えられて立っていた。外殻が外れた退職後、自分の中身だけで立とうとすると、形が崩れる。彼はその崩れを、体重の急激な減少、白髪の増加、姿勢の前傾という形で見せていた。
出世の頂点まで行った男の、退職後の声の張りの抜け方を、私は忘れない。出世しなかった男にも、出世した男にも、退職後はそれぞれの崩れ方がある。崩れ方は違うが、崩れることは同じ。三十八年走った身体が、止まったあとにどう崩れるか、形は違っても、崩れること自体は誰にも避けられない。
昭和の出世する男は、家庭との時間を仕事に振り替えた。これが基本的な交換レートだった。明示的な計算ではないが、結果的にそうなっていた。週六日の労働、平日の連日残業、月数回の休日出勤、年に数回の海外出張、二、三年ごとの転勤、夜の接待、土日のゴルフ、お盆と正月以外の家族旅行の不在。これらの累積が、出世の燃料として機能した。
家庭側の犠牲は、当時は表立って語られなかった。専業主婦のワンオペ育児、子供の成長を見られない父親、家族行事の欠席、妻との会話の減少、夫婦関係の冷却。これらは昭和の家庭で広範に発生していたが、社会的には「働く男の宿命」として処理され、犠牲として明確に意識されることは少なかった。
交換レートの存在を、当時の男たちは半ば自覚し、半ば自覚しないままに走った。完全に無自覚だったわけではない。子供の運動会に三年連続で行けなかった夜、出張先のホテルで一瞬の罪悪感が走る。妻の誕生日を忘れて、翌週謝る。これらの瞬間に、レートの存在は薄く意識された。
しかし、意識しても、走ることは止められなかった。組織が要求する労働時間は決まっていて、競争は続いていて、レートを下げると出世曲線が下がる。下がることを選択する男もいたが、選択しない男のほうが多かった。私を含めて、昭和の働く男の大多数は、レートに従って走り続けた。
私の場合、息子の小学校時代の参観日にほぼ行けなかった。中学校の入学式は出張で欠席した。高校受験の前後、私は転勤で単身赴任中だった。これらの不在を、息子は表面では何も言わなかった。妻も何も言わなかった。何も言わないことが、当時の家族の作法だった。
退職して、息子と話す時間が増えた。息子はもう四十歳近く、自分の家庭を持っている。彼が小学生だった頃のことを、彼の側からの記憶として聞くことが、ときどきある。父親が家にいない日々を、彼は彼なりの形で受け止めていた。受け止め方の細部が、私の記憶とずれている。私は出張中だったが、息子は私が家にいないことを別の文脈で覚えていた。
レートで失ったものが、退職後に見える。家族との会話の、本来あったはずの時間。子供の成長の、見られなかった季節。妻と若い頃に交わすはずだった、もっと多くの言葉。これらが具体的に見える。見えても、戻せない。時間は戻らないし、当時の息子も妻も、もういない。今の息子は四十歳の息子で、今の妻は六十二歳の妻。私が会いたかった八歳の息子と三十歳の妻には、もう会えない。
レートの精算は、退職後にやってくる。精算は静かで、激しい場面はない。ただ、見える、というだけ。見えて、しばらく黙る、というだけ。私は今も、この精算の途中にいる。精算がいつ終わるのか、終わるものなのか、自分でも分からない。
平成中期、九十年代後半から二〇〇〇年代にかけて、日本企業の役職階梯は実質的に解体された。バブル崩壊後の経営合理化、成果主義の導入、組織のフラット化、ジョブ型雇用の試験的導入。これらの動きが重なって、昭和の細分化された梯子が薄くなっていった。
私の会社でも、二〇〇〇年代前半に役職階梯の整理があった。係長、課長代理、課長、次長、というように四段階だったところが、リーダー、マネージャー、シニアマネージャー、の三段階に統合された。次長と課長代理という中間役職が消え、段差が大きくなった。段差を大きくすることで、昇進の節目を減らし、評価を成果ベースに切り替える、という意図だった。
「フラット組織」という言葉が流行した時期があった。階層を減らし、現場と経営の距離を縮める、という建前。実態は、中間管理職のポストを減らし、人件費を圧縮する施策だったが、語り口としては「自由度の高い働き方」「自律的な人材育成」という方向で説明された。
「ジョブ型雇用」「専門職コース」も導入された。総合職一本で出世の頂点を目指す、というコースに加えて、専門領域でキャリアを築く専門職コース、現場リーダーとしてのコース、複数のコースが並列で設定された。コースが複数になると、出世という単一の縦軸では人材を測れなくなる。
梯子が薄くなり、コースが複数になった組織で、若い世代は何を目指すか。明確な街道が消えると、「何を目指すか」を自分で設計する必要が出てくる。昭和の働き方は、街道に乗ることが目標で、街道は組織が用意してくれていた。平成後期から令和の働き方は、街道を自分で作る、あるいは街道に乗らない働き方を選ぶ、という選択肢が増えた。
選択肢が増えることは、自由でもあり、不安でもあった。自分のキャリアを自分で設計する自由と、自分で設計しなければならない不安が、同時に若い世代の身体に刻まれている。私の息子の世代、現在三十代後半から四十代前半の世代は、この自由と不安の両方を抱えた最初の世代だった。
昭和の梯子は、抑圧でもあったが、地図でもあった。地図があれば、迷わない。迷わない代わりに、地図の通りに歩かなければならない、という縛りがあった。地図が消えた時代の働き方は、迷う自由と、迷う負担の両方を持っている。
私は退職した側の視線で、この変化を観察している。観察するだけで、判断はしない。昭和の梯子が良かったとも、令和のフラット組織が良いとも、断言できない。両方に良い面と困った面がある。両方の中にいた人間の身体感覚としては、地図のあった時代のほうが楽だったとは言える。楽だった理由は、自分で設計しなくていい楽さで、これは自由を放棄する楽さでもあった。
降霊録で田島が語った「伝統の発明」と同じで、昭和の梯子も戦後三十年で発明された制度だった。発明されたものは、いずれ解体される。解体は徐々に進み、ある時点でほぼ完了する。私が退職した二〇二二年時点で、昭和の梯子は実質的にもう存在していない。残響だけが、私のような六十代の身体に残っている。
二〇二〇年代に入って、新入社員の志望動機から「出世したい」という語が、ほぼ消えた。私の元の会社の人事部で働いている後輩から、聞いた話。新入社員研修の自己紹介で、昭和の頃なら「将来は社長を目指します」「出世して家族を養いたいです」と言う新人が一定数いた。今は皆無に近い、と。
代わりに何を言うか。「成長したい」「専門性を高めたい」「社会に貢献したい」「自分らしく働きたい」「ワークライフバランスを大切にしたい」。これらが並ぶ。出世という競争性と階梯性を含む語の代わりに、より個人的、より柔らかい、より価値中立的な語彙が使われている。
面接の場、配属の会話、人事評価の文書、社内研修の資料。あらゆる場面で、出世という語の頻度が下がった。代替語は複数ある。「キャリア形成」「キャリアアップ」「キャリアパス」「昇進」「昇格」「役職位置の変化」「ステップアップ」。これらの語が、かつて出世が背負っていた領域を分担して受け持っている。
分担した結果、語の重みは分散して薄くなった。出世という一語が背負っていた、競争性、階梯性、男性性、世俗性、組織への忠誠、家庭の犠牲、長時間労働の正当化、これらの含意が、複数の代替語に分割され、それぞれの語からはやや控えめに表現されるようになった。
「キャリアアップ」は、上昇の意味は持つが、出世のような露骨な競争性は薄い。「昇進」は事実としての役職変更を指す事務的な語で、出世のような野心の響きが少ない。「専門性を高める」は、上昇よりも深さの方向を指す。これらの語彙群は、出世が持っていた競争の温度を、ほぼ全方向から薄めた表現になっている。
語が変わると、現象が変わる。語が薄くなると、現象も薄くなる。社員研修の場で「出世」と言わなくなった会社では、社員の行動パターンも徐々に変わる。出世という語が動員していた感情エネルギー——競争心、嫉妬、屈辱、達成感——が、薄まった代替語ではあまり動員されない。動員されないと、長時間労働の燃料が減る。家庭犠牲の正当化が弱くなる。同期との比較が緩む。
これは良い変化なのか、悪い変化なのか。私は判断する立場にない。判断する立場にないが、語の死を観察する立場にはいる。出世という語が私の身体に刻んだ重みと、その語が消えていく現在の風景の薄さを、両方見比べている。重みも薄さも、それぞれ価値がある。価値の質が違う。
私の世代が「出世」と言うとき、聞き手の若い世代はやや違和感を覚える、という現象がある。違和感の正体は、語の古さと、語に含まれる前提群——競争・階梯・男性・組織忠誠——への違和感の混ざったもの。違和感を持たれることに、私は慣れた。慣れたが、自分の中の出世という語を、若い世代用に翻訳することは、なかなか難しい。翻訳しきれない部分が、私の身体に残り続ける。
ここまで観察的に書いてきたが、私自身の出世のことを、書いておく。私は部長まで行った。執行役員には届かなかった。五十七歳の人事で、執行役員候補のリストに入ったが、最終選考で外れた。私の代わりに、二歳下の街道組が執行役員に上がった。
外れた、と人事部から内々に伝えられた日のことを、覚えている。退社後、いつもの帰路を歩きながら、自分の身体の中で何が動いているかを観察した。動いていたのは、後悔と安堵の二つだった。
後悔は、街道の中央を歩けなかったことへの後悔。三十八年の職業人生を、もう少し中央寄りに歩けば、執行役員に届いたかもしれない、という具体的な分岐点が、いくつか思い出された。三十代後半で海外赴任を断った時、四十代前半で本社中枢への異動を辞退した時、五十歳前後で社長派の派閥に近づく機会を見送った時。これらの分岐点で、別の選択をしていれば、執行役員までは届いた可能性がある。
安堵は、執行役員の責任を背負わずに済んだことへの安堵。執行役員になった同期たちが、その後どれほど消耗するかを、私は近くで見ていた。判断の責任、長時間の会議、株主総会の対応、社内政治の最終局面、健康の悪化。執行役員という地位は、見える地位の上昇と引き換えに、見えない負荷を膨大に背負う。私は部長で止まったことで、その負荷を背負わずに、五十代後半から六十代前半を生きた。
後悔と安堵の二つが同時にある状態を、どう処理するか。当時の私は処理しなかった。処理しないまま、定年まで部長として働いた。退職後の今も、二つは並んだまま、私の身体の中にある。
退職して四年目、二つの感情のうち、どちらが大きいか、自分でも整理がついていない。日によって変わる。元気な日は、安堵のほうが大きく感じる。執行役員にならなくて良かった、健康を保てた、家族との時間を少し取り戻せた、と思える。疲れた日は、後悔のほうが大きく感じる。もし執行役員になっていたら、退職後の年金額が違っただろう、社会的な肩書きが違っただろう、孫に話す自分の経歴が違っただろう、と。
整理がつかないまま、こうして書いている。書く、という行為が、整理の代わりに機能している。書くと、後悔と安堵が文字になって外に出る。出たものは、もう私の身体の中で発酵を続けない。発酵が止まると、感情は薄まる。薄まることは、整理ではないが、整理に近い何かではある。
降霊録で田島・森川・田口の三人を書いたとき、私は他人の身体を借りて自分の感情を整理していた。今回は、自分の身体で直接書いている。直接書くと、整理の精度は上がるが、書きながら身体が疲れる。疲れる代わりに、文字が私の身体から確実に出ていく。
部長で止まった私の出世曲線は、入社時点の街道組の予測線と、定年時点の実績線がほぼ一致した、という意味では予測通りの人生だった。予測通りであることに、満足も不満もない。予測通りに生きた、という事実があるだけ。事実だけで構成された人生は、退職後にどう振り返ってよいか、自分でもまだ分からない。
昭和の出世観を身体に持つ最後の世代として、私が記録する責任は何か。降霊録で田島・森川・田口の三人を書いたとき、私は「伝統の発明と消失」という構造を見た。短期間に発明され、短期間に最盛期を迎え、解体されていく制度。昭和の出世観も、同じ構造を持っている。
戦後の経済復興とともに、年功序列・終身雇用・新卒一括採用が制度として整備された。これに合わせて、十段階前後の役職階梯が大企業で定着した。昭和三十年代から五十年代にかけて、この制度群が最盛期を迎えた。同期会、転勤、単身赴任、出向、定年退職、これらの慣行も同時期に定着した。バブル崩壊後の九十年代から徐々に解体が始まり、二〇〇〇年代から二〇一〇年代にかけて、実質的にほぼ解体された。
発明から最盛期を経て解体まで、約四十年から五十年。これは「伝統」と呼ぶには時間が足りない。しかし、四十年は人間の職業人生に重なる長さで、その期間を働いた人間の身体には、確実な重みとして刻まれた。私の身体は、まさにその四十年の終盤に入社し、解体を見届けて退職した世代の身体だ。
身体に刻まれた重みは、文字にして外に出さなければ、私の身体とともに消える。私が消えれば、私の身体に刻まれた昭和の出世観は、別の場所に移されない限り、その細部が継承されない。
細部が継承されないことの何が問題か、と問われると、即答は難しい。継承されなくても、社会は動く。むしろ昭和の出世観は、解体されたほうが社会全体としては良かった面が多い、という議論もある。長時間労働、家庭犠牲、男性中心、競争至上、これらの問題群は、出世観の解体とともに改善された。
しかし、解体される前にどんな身体感覚が存在していたかは、記録しないと分からなくなる。記録しなくなった瞬間、その時代の人間がどう感じていたかは、別の語彙で再構成される。再構成された語彙は、当時の身体感覚から離れる。離れた語彙で過去を語ると、過去は過去ではなくなる。
私が記録する責任、というのは、こういうことだ。当時の身体感覚を、当時の語彙で、退職後の今のうちに、まだ覚えている細部とともに、文字に変えておく。降霊録で田島の身体を借りて書いた古墳発掘の記憶、森川の身体を借りて書いた村歌舞伎の記憶、田口の身体を借りて書いた農地解放の記憶、すべて同じ目的だった。記録しないと消える、という時間切迫感が、私を書かせている。
私の身体の中の梯子の段差は、もう私の世代以降には継承されない。継承されないが、文字に変えれば、誰かが読んで、当時の身体感覚を知識として把握できる。把握された知識は、身体感覚そのものではないが、身体感覚の影のようなものとして、後世に残る。影でも残れば、無いよりは良い。
退職して四年目、私の身体は、もう梯子の上にない。梯子の段差で世界を測ることをやめてから、四年が経った。最初の一年は、段差を測る癖が抜けず、街で見かけるサラリーマンの背広の質や歩き方で、その人の役職を推測していた。二年目あたりから、推測が減った。三年目、推測がほぼ無くなった。四年目の今、サラリーマンの姿を見ても、ただの人として見える。
梯子のない身体で書ける言葉が、どれだけあるかは、まだ分からない。書いてみて、書ける言葉と書けない言葉に分けていく。書けない言葉は、梯子の上にいた身体だけが書ける言葉で、梯子を降りた身体ではもう取り出せない。書ける言葉は、梯子を降りたあとの身体から見た風景の言葉で、これは退職してから少しずつ増えている。
次に書きたいのは、昭和の「定年」という概念の歴史。出世の終点であった定年が、現代では別の概念に置き換わりつつある。再雇用制度、雇用延長、生涯現役、定年年齢の引き上げ、定年廃止の議論。これらの動きが昭和的な「定年」を別物に変えていく過程を、退職した側の身体感覚で書いてみたい。出世観の延長線として、次稿で扱う。
出世という語が消えたあと、定年という語も消えていく。語の連鎖的な消失を、私は退職後に近距離で観察している。観察するだけで、止めることはできない。止める必要もないかもしれない。ただ、消える前に文字にしておくことは、私のような最後の世代の役目として、残っている。
役目を終えるまで、書く。役目を終えても、書く形は変わるが、書くことは続く。梯子が消えた身体でも、文字を書くことはできる。書ける範囲で、書ける言葉を、まだしばらく書き続ける。