イシカワケンタロウ(健康管理アドバイザー)
訪問先のダイニングで、奥さんがご主人に「そろそろ、やめたほうがいいんじゃない」と言った。私がリハビリを終えて帰り支度をしている、その背中側で。ご主人のシャツには、吸う前に胸ポケットを押さえる癖の分だけ、布が薄くなった輪郭が残っている。言葉を言われたご主人は、軽く笑って「うん」と返した。
短い沈黙のあと、奥さんはもう一言足した。「テレビでも言ってたし」。
私はその場で靴紐を結びながら、たった今、奥さんの「やめたほうがいい」が二つに割れたのを聞いた気がした。
最初の一言は、この家の台所の側から出ていた。毎朝どの時間に一本目が吸われ、どの換気扇の下で吸われ、灰皿が洗われるのはいつか——そういう蓄積の側から発せられた声だった。付け足された二言目は、その声を、誰かもっと大きな声の後ろに並ばせる働きをしていた。
「テレビでも言ってたし」と付け足した瞬間に、その言葉は急に遠いものの仲間になってしまう。
奥さんがなぜ二言目を足したのか、私は知らない。最初の一言が軽く流されたのを、自分ひとりの責任にしたくなかったのかもしれない。権威を借りれば強くなると思ったのかもしれない。けれど受け取る側からすると、借りた瞬間に、話の相手が目の前の奥さんから、顔の見えない誰かに切り替わる。ご主人の「うん」は、二言目のあとで少し乾いた。
家の中から出た声には、本来、数字にならない情報がついている。台所からダイニングまでの距離、前の一本からの時間、胸ポケットに触れる指先。それらの情報は、テレビや駅のポスターからは絶対に届かない。にもかかわらず、私たちはしばしば、自分の持っている情報を脇に置いて、もう十分に言われていることをもう一度なぞってしまう。
臨床の場で振り返ってみても、効いた一言はたいてい、その家の側からしか発せられないものだった。「先生も言ってたし」「ニュースでやってたし」——この付け足しがつくと、効く率は目に見えて落ちる。落ちる、と言い切れるほどの統計を私が取ったわけではない。ただ、現場の感覚としては、かなり確かな傾きがある。
だから私は、自分の仕事のなかで、権威を持ち出す側に回らないように気をつけている。私は医学情報の代理人ではなく、週に一度、同じ椅子に座ってその家の煙の匂いを吸っている人間のほうでいたい。そちらの立場からしか言えない一言が、たぶん、いちばん長く残る。
あの日、帰りの車に戻ってから、奥さんの最初の一言のほうを、もう一度頭の中で再生した。二言目がつく前の、短い「やめたほうがいいんじゃない」。語尾は下がっていて、責めてはいなかった。あれだけで止めておけば、ご主人の「うん」はもう少し湿っていたかもしれない。
次にあの家に行くまでに、私は何も言わない。言わないでおくほうの選択肢を、今回はとっておく。