イシカワケンタロウ(健康管理アドバイザー)
半年前に禁煙外来を紹介した患者さんが、診察室に戻ってきた日のことを、まだよく覚えている。指の先に、以前と同じ、薄く黄ばんだ色が戻っていた。「すみません、また吸ってしまって」と、申し訳なさそうに目を伏せられた。
私はそのとき、何と言ったのだったか。たしか「そうですか」と、少しだけ間を置いてから、「またいらしてくださってよかったです」とだけ言ったように思う。責めるつもりはなかったし、励ますにも、その場にふさわしい言葉が見つからなかった。ただ、また来てくださったという事実が、私にはありがたかった。
私は勧める。煙を吸い続けることで体に起きることを、私は知っているし、それを伝えるのは、この職業についた者の責任だと思っている。その姿勢は、これからも変わらない。
けれど、勧めることと押し付けることは別の行為なのだ、と、この仕事を続ける中で少しずつ気づいてきたように思う。前者は差し出す手の形をしていて、後者は掴む手の形をしている。同じ言葉でも、どちらの手で渡されたかを、受け取る人の体はたぶん知っている。
やめたい人には寄り添う。やめない人を否定しない。この二つは、一見矛盾して見えて、じつは同じ姿勢のはずだ、と私は考えている。
説得というものは、相手の体で起きていることを、少しは想像できる距離にいる者にしか、本当には届かないのではないか。遠くから大きな声で叫んでも、相手の耳には届くかもしれないが、体には届かない。吸い続ける理由の多くは、頭ではなく、時間と手の中にあるからだ。
近づけば届くのか、と問われると、それも確信が持てない。ただ、遠いままでは、少なくとも届かない、ということだけは、この連載を書きながら、だんだんはっきりしてきたように感じている。
連載の冒頭で、私は「吸う人の肩のほうに、視線の角度を下げる」と書いた。五回を書き終えていま振り返ってみると、それはつまり、横に座る、ということだったのだと思う。
隣に立って、一緒に前を向く、ではない。前を向かせる、でもない。同じ高さの椅子に、少しの沈黙をたたんで、ただ座る。話したくなったら、話してくださっていい。話したくない日は、黙っていてくださっていい。そういう座り方が、たぶんある。
私の仕事は、やめさせることではなかったのかもしれない。連載を書き終えて、いま、そう思っている。
横に、座ることだったのだろう。
——補記:この第一稿は公開後に辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。
辛口レビュー(この第一稿へのもの)→
第二稿(改稿版)→
← 前:#4 体が覚えている五分間
← 連載冒頭に戻る:#1 雨の日、喫煙所の屋根の下
← シリーズ目次に戻る