※本エッセイはすべて創作です。登場人物・学校・出来事はすべて架空のものであり、実在のいかなる個人・組織とも関係ありません。
夜、22時。原稿を書きながらコーヒーを飲んでいたら、LINEが鳴った。タケウチくん。
タケウチ「文化祭のスローガン決めなきゃいけないんですけど、候補が全部盛ってて嘘くさいです。盛らない言葉でスローガン作りたいんですけど」
私はキーボードに向かって反射的に打ちはじめた。「それ、リポエマイズだね、いい題材」。
送信ボタンに指を伸ばす直前で、止めた。
消した。
「リポエ——」。途中まで打って、バックスペースを押した。なぜ消したのか、消した瞬間の私はわかっていなかった。
打ち直した。「いや、つまり、嘘のないキャッチコピーを作るってことだね。面白いじゃん」。
送信した。
そのあと、コーヒーがすっかり冷めるまで、画面を眺めていた。
朝、シャワーを浴びながら、なぜ「リポエマイズ」を消したかを考えていた。
あれを彼に渡せば、彼は使う。クラスのスローガン会議で「これってリポエマイズだよね」と言うかもしれない。そうしたら、議論が変わる。彼の議論が、私の用語に置き換えられる。
シャンプーを流しながら、ぼんやり、それは違うな、と思った。
シャワーを止めた。お湯が止まったあとの、滴る音だけがしていた。
うまく言葉にならない感じだったけれど、なんか、ちょっと、嫌な気分だった。
原稿の合間に、自分の過去ログをぱらぱらと読み直した。51本の連載。
気づきというよりは、なんだろう、もやっとした感じだった。読者のモヤモヤに、毎回、私が用語を渡してきた。整理してきた。それは仕事だ。仕事として正しい。
でも、整理されたモヤモヤは、読者の手元に残るのか、それとも私のコレクションに収まるのか。
今までは、考えたことがなかった。
原稿用紙の余白に、ボールペンで一行書いた。
「言葉を渡したつもりで、言葉を借りに行ってた」
誰にも見せない。連載にもしない。手帳に挟んだ。
文化祭当日。私は行かない。36歳の女が高校生の文化祭に来たら、それはそれで気持ち悪い。
でも、別の用事で電車に乗って、たまたまタケウチくんの高校の最寄り駅を通った。降りたわけではない。窓の外に、校舎が見えた。
遠目に、屋上に「文化祭」の垂れ幕がかかっていて、グラウンドの端から煙が見えた。たこ焼きの煙かもしれない。違うかもしれない。
電車は1分くらい停まって、また走り出した。
私は、メッセージで参加するだけの大人だった。45分の議論の場には、いない。
そのほうがいい、と思った。
夕方、LINEが来た。
タケウチ「スローガン決まりました。盛りませんでした」
私は嬉しくなって「おお。で、何に決まったの?」と返した。
返ってきた。
タケウチ「秘密です」
笑った。
「笑 なんで」と返した。
タケウチ「うちのクラスの言葉なんで」
その瞬間、目の奥が熱くなった。
私は彼に、修辞技法の名前を教え、ポエマイゼーションの構造を教え、たくさんの言葉を渡してきた。彼はそれを、自分のクラスのスローガン会議に持ち込んで、45分かけて議論し、結論を作り、そしてその結論を私には教えなかった。
これは、たぶん、何かが終わって、何かが始まる場面だ。
「秘密」と言われた瞬間、彼は私のサンプルではなくなった。
「秘密です」のあと、私はしばらく既読のまま、何も返さなかった。
頭の中で、いくつもの返信を作った。「正しい」とか「思う」とか、私が評価する系の返信を、何回か作って、何回か消した。一度だけ「リポエマイズの最高の事例だよ」と打ちかけて、これは絶対に送ってはいけないやつだと気づいて、すぐ消した。
結局、こう送った。
ソノダ「それが一番正しい答えだと思う」
送ってから、これも余計だったかもしれない、と思った。「正しい」をまた渡してしまった。
でも、もう送ってしまった。撤回はしない。
大人になっても、一発で正しい返信ができるわけではない。それを17歳に教えたいわけではないけれど、結果として、私が完璧でない大人として彼の前にいることは、たぶん、悪いことではない。
翌日、連載の次回原稿を書こうとした。
キーボードに向かう。書き出しを5回書いて、5回消した。
「ある高校生が、クラスのスローガンを『盛らない言葉』で作った」——題材として消費に見える。「リポエマイズは、教えられるものではないかもしれない」——私の用語の延命。「ある教え子が、私に教えてきたこと」——私を主役にしてしまっている。「言葉を渡したつもりで、言葉を借りに行っていた」——これは手帳の中だけのもの。「教えるとは、引き取らないことだ」——結論を急ぎすぎ。
5つとも消した。原稿は1行も進まなかった。
編集さんに「今週の原稿、できません。来週まで待ってください」とLINEした。
編集さんは「了解です」と一行返してきた。
こんなふうに「書けない週」があるなんて、連載50回で初めてだった。
翌週、私は連載に違うテーマを書いた。「文化祭」もタケウチくんも、一文字も書かなかった。
かわりに、不動産広告の3パターン分析を書いた。いつものソノダ節。「上質」「邸宅」「気品」のインフレについて。
淡々と書いた。例の女子高生の話も、教え子の話も、「リポエマイズの先にあるもの」も、書かなかった。
書き上げて、編集さんに送った。
編集さん「いつもどおりですね」
そう。いつもどおり。いつもどおりに書くしかなかった。
あの45分のことを、あのスローガンのことを、あの「秘密です」のことを、私は書かない。
3日後、タケウチくんからLINEが来た。
タケウチ「ソノダさん、連載の今週のやつ、読みました」
「ありがとう」と返した。
タケウチ「文化祭のこと、書かないんすね」
気づかれた。
「うん、書かない」と返した。
タケウチ「了解です」
それで終わり。
「了解です」。なんという美しい四文字。説明を求めず、感謝もせず、ただ受け取る。
彼は、私が書かないことの意味を、たぶん、わかっている。完全にではないかもしれないけれど、わかろうとしている。
これは、たぶん、私たちの関係が、教師と生徒から、ちょっと違うものに変わった瞬間だ。何に変わったかは、まだ言葉にできない。言葉にできないということは、それでよい、ということだ。
「リポエ——」を消したあの夜から、私は一週間、ずっと自分の言葉を消してきた。
消した言葉のぶんだけ、彼の言葉がそこに残った。
それでよかったのか、まだわからない。
でも、それでよかった気がする。