「リポエ——」を消した夜
——文化祭、ソノダの一週間

※本エッセイはすべて創作です。登場人物・学校・出来事はすべて架空のものであり、実在のいかなる個人・組織とも関係ありません。

ソノダマリ

マンションポエム国際比較調査員、36歳。文化祭には行かない年齢。でも文化祭の話を書く。

あの高校生のLINEを受け取った夜、自分の中で何かが小さく動いた記録。

3日前——「リポエ——」と打ちかけて、消した

夜、22時。原稿を書きながらコーヒーを飲んでいたら、LINEが鳴った。タケウチくん。

タケウチ「文化祭のスローガン決めなきゃいけないんですけど、候補が全部盛ってて嘘くさいです。盛らない言葉でスローガン作りたいんですけど」

私はキーボードに向かって反射的に打ちはじめた。「それ、リポエマイズだね、いい題材」。

送信ボタンに指を伸ばす直前で、止めた。

消した。

「リポエ——」。途中まで打って、バックスペースを押した。なぜ消したのか、消した瞬間の私はわかっていなかった。

打ち直した。「いや、つまり、嘘のないキャッチコピーを作るってことだね。面白いじゃん」。

送信した。

そのあと、コーヒーがすっかり冷めるまで、画面を眺めていた。

2日前——なぜ消したか

朝、シャワーを浴びながら、なぜ「リポエマイズ」を消したかを考えていた。

「リポエマイズ」(depoematize)は、私が自分の連載で勝手に使い始めた造語だ。「ポエマイゼーション」(鈴木潤平氏のコピー過剰の指摘)の逆操作として、「ポエム化を解除する」「盛りを剥がす」という意味で。

これをタケウチくんに渡せば、彼はその言葉を使うだろう。クラスのスローガン会議で「これってリポエマイズだよね」と言うかもしれない。

そうしたら、議論が変わる。彼の手から離れて、私の言葉のフレームに乗せられる。

シャンプーを流しながら、わかった。私はあのとき、彼から議論を奪いそうになっていた。

「リポエマイズ」を渡すというのは、彼が自分の言葉でようやく掴みかけているものに、私の名札を貼ることだ。

シャワーを止めて、しばらく立っていた。お湯が止まったあとの、滴る音だけがしていた。

前日——自分の連載を読み直す

原稿の合間に、自分の過去ログを読み直した。51本書いてきた連載。

気づいた。私は読者に「あなたの違和感はこういう構造です」と、答えを先に渡してきた。

「上質がそびえる」が嘘くさい、という違和感。「永遠の仲間たち」がしんどい、という違和感。読者が自分でモヤモヤしているところに、私は「それはこういう修辞技法です」と用語を渡してきた。

そのこと自体は悪くない。手早く整理してあげるのは、書き手の仕事だ。

でも、たまに、整理が早すぎるんじゃないか、と思った。

整理されたモヤモヤは、読者の手から離れて、私の連載のコレクションに収まる。読者は自分の違和感を持ち帰るのではなく、私の比喩を持ち帰る。

それは私が望んでいたことだろうか。

原稿用紙の余白に、ボールペンで一行書いた。

「言葉を渡したつもりで、言葉を借りに行ってた」

誰にも見せない。連載にもしない。手帳に挟んだ。

当日——駅から見える校舎

文化祭当日。私は行かない。36歳の女が高校生の文化祭に来たら、それはそれで気持ち悪い。

でも、別の用事で電車に乗って、たまたまタケウチくんの高校の最寄り駅を通った。降りたわけではない。窓の外に、校舎が見えた。

遠目に、屋上に「文化祭」の垂れ幕がかかっていて、グラウンドの端から煙が見えた。たこ焼きの煙かもしれない。違うかもしれない。

電車は1分くらい停まって、また走り出した。

私は、メッセージで参加するだけの大人だった。45分の議論の場には、いない。

それでよかった。いない場所から、私の言葉が遠くで誰かの口を借りて生きるなら、それで十分だ。

夕方——「秘密です」

夕方、LINEが来た。

タケウチ「スローガン決まりました。盛りませんでした」

私は嬉しくなって「おお。で、何に決まったの?」と返した。

返ってきた。

タケウチ「秘密です」

笑った。

「笑 なんで」と返した。

タケウチ「うちのクラスの言葉なんで」

その瞬間、目の奥が熱くなった。

私は彼に、修辞技法の名前を教え、ポエマイゼーションの構造を教え、たくさんの言葉を渡してきた。彼はそれを、自分のクラスのスローガン会議に持ち込んで、45分かけて議論し、結論を作り、そしてその結論を私には教えなかった

これだ。これが、たぶん、教えるという仕事の終わり方だ。

教えた言葉を、教えた人に返さなくなる教え子。それこそが、教えが本当に届いた証拠なんじゃないか。

「秘密」と言われた瞬間、私は彼の連載コレクションから自由になった。彼は私のサンプルではなくなった。

送れなかった返信

「秘密です」のあと、私はしばらく既読のまま、何も返さなかった。

頭の中で、いくつもの返信を作った。

3つ目は絶対に送ってはいけないやつだ。打って消した。

1つ目と2つ目は、どちらも「正しい」「思う」と私の評価を渡している。彼が必要としていない評価を。

結局、こう送った。

ソノダ「それが一番正しい答えだと思う」

送ってから、これも余計だったかもしれない、と思った。「正しい」をまた渡してしまった。

でも、もう送ってしまった。撤回はしない。

大人になっても、一発で正しい返信ができるわけではない。それを17歳に教えたいわけではないけれど、結果として、私が完璧でない大人として彼の前にいることが、たぶん、彼にとっても悪いことではない。

翌日——書きかけて、捨てる

翌日、連載の次回原稿を書こうとした。

キーボードに向かう。書き出しを5回書いて、5回消した。

  1. 「ある高校生が、クラスのスローガンを『盛らない言葉』で作った」——これは「題材として消費」に見える。
  2. 「リポエマイズは、教えられるものではないかもしれない」——これは私の用語の延命。
  3. 「ある教え子が、私に教えてきたこと」——これは私を主役にしてしまっている。
  4. 「言葉を渡したつもりで、言葉を借りに行っていた」——これは手帳の中だけのもの。連載に出してはいけない。
  5. 「教えるとは、引き取らないことだ」——これは結論を急ぎすぎ。

5つとも消した。原稿は1行も進まなかった。

編集さんに「今週の原稿、できません。来週まで待ってください」とLINEした。

編集さんは「了解です」と一行返してきた。

こんなふうに「書けない週」があるなんて、連載50回で初めてだった。

数日後——かわりに何を書いたか

翌週、私は連載に違うテーマを書いた。「文化祭」もタケウチくんも、一文字も書かなかった。

かわりに、不動産広告の3パターン分析を書いた。いつものソノダ節。「上質」「邸宅」「気品」のインフレについて。

淡々と書いた。例の女子高生の話も、教え子の話も、「リポエマイズの先にあるもの」も、書かなかった。

書き上げて、編集さんに送った。「いつもどおりですね」と返ってきた。

そう。いつもどおり。いつもどおりに書く、ということが、今週は私にできる最大の自制だった。

あの45分のことを、あのスローガンのことを、あの「秘密です」のことを、私は書かない。

書かないことが、たぶん、教師としての私の唯一の仕事だ。

数日後——タケウチくんからのLINE

3日後、タケウチくんからLINEが来た。

タケウチ「ソノダさん、連載の今週のやつ、読みました」

「ありがとう」と返した。

タケウチ「文化祭のこと、書かないんすね」

気づかれた。

「うん、書かない」と返した。

タケウチ「了解です」

それで終わり。

「了解です」。なんという美しい四文字。説明を求めず、感謝もせず、ただ受け取る。

彼は、私が書かないことの意味を、たぶん、わかっている。完全にではないかもしれないけれど、わかろうとしている。

これは、たぶん、私たちの関係が、教師と生徒から、ちょっと違うものに変わった瞬間だ。何に変わったかは、まだ言葉にできない。言葉にできないということは、それでよい、ということだ。

「リポエ——」を消したあの夜から、私は一週間、ずっと自分の言葉を消してきた。
消した言葉のぶんだけ、彼の言葉がそこに残った。
たぶん、それが、教えるということだった。

← タケウチの文化祭
← ヤマモトの五日ミウラの六日カドの七日
← 生成エッセイの現在地

このページの記事はAI(Claude)を用いて作成・編集されています。ソノダマリは架空の人物です。