同じ夜、午後七時。栄のホテルの和食店の個室。長い座卓の端に、杉浦恒夫(六十三)が座っている。向かいに、宮地が三年間担当した四階の先生(五十代)が招かれて来ている。二人の前のグラスは、どちらもノンアルコールビール。
座卓の真ん中のほうで、乾杯のあとの笑い声が続いている。ホールのアルバイトが、二人の前に小鉢を置く。名札に「ケイ」。
ケイノンアルコールのお客様、こちらのお二人でよろしかったでしょうか
杉浦はい
先生はい。……杉浦さんも、ですか
杉浦送別会は、一本だけと決めてます
先生私は、車じゃないんですけどね。なんとなく
杉浦なんとなく
先生この前、友人と散歩しながら、ノンアルを研究室の机に置いていいか、って話になって。一時間くらい話して、結論が出なかった
杉浦一時間
先生友人は、海外が長い人で、何がいけないのか分からない、と言う。私は、いけない理由は一つも言えないのに、置けない。それを一時間
先生宮地さんには、本当に助けてもらいました。三年で、科研の精算が二百……いくつだったかな
杉浦二百六十一件です。先生の分は
先生覚えてるんですか
杉浦数えるのが仕事ですから
先生一件も差し戻されなかった
杉浦宮地さんが、先に直してたので
先生そうだったんですか
杉浦先生の領収書は、日付順に並んでるので、直しやすいと言ってました
先生助手のころからの癖なんです。並べて、輪ゴムで留めて。三重に
杉浦存じてます
先生あ。……杉浦さん、あのころの私の精算、やってくださってましたよね
杉浦はい
先生あのころ、一度、課で何か合わないことがあったでしょう。私、自分のせいかと思って、しばらく眠れなかった
杉浦先生のせいでは、ありませんでした
先生そうですか
杉浦はい
杉浦、ノンアルのグラスを持ち上げて、口をつけずに置く。
宮地が、座卓の向こうから膝で回ってくる。手に一枚の紙を持っている。
宮地杉浦さん、すみません。引継書の確認印、もらい忘れてました
杉浦今ですか
宮地今です。月曜、私もう有休で
先生送別会で判子
宮地最後の判子です
杉浦、内ポケットから印鑑ケースを出す。朱肉の小さな缶を開ける。座卓の上の小鉢をよけて、紙を置く。判を置き、まず左下に体重をかけ、それから全体を押す。
杉浦はい
宮地ありがとうございます。……左下、やっぱり濃い
杉浦そうですか
宮地三年見てて、今日初めて言いました
先生宮地さん、次はどちらに
宮地会社です。名古屋の。経理の仕組みを作るところで、全部ログで残るんです。判子、ないです
杉浦ログというのは、誰が見たかも残りますか
宮地残ります。いつ、誰が、どの行を開いたか。開いただけで残ります
杉浦開いただけで
宮地怖いですか
杉浦いいえ。……それは、いい
宮地杉浦さんが「いい」って言うの、初めて聞いたかも
杉浦言ってませんでしたか
宮地三年で、二回目くらい
宮地が別の席に呼ばれていく。先生と杉浦だけが残る。
先生杉浦さん、送別会、いつも来られますよね。若い方のも
杉浦辞める人の送別会は、休まないことにしてます
先生何か、きっかけが
杉浦一度、送別会のなかった人がいたので
先生……
杉浦急に辞めることになって。三月の終わりで、課も慌ただしくて。誰も言い出さなかった。私も
先生それは、いつごろの
杉浦先生が、まだ輪ゴムを三重にしてたころです
先生今もしてますよ
杉浦存じてます
先生、何か言いかけて、ノンアルの残りを飲む。
先生あの人、今は
杉浦元気にしてます。たぶん
先生たぶん
杉浦月に一度、顔は見ます。話はしません
課長が締めの挨拶を始める。杉浦は財布を出して、幹事の新人の前に千円札を一枚置きにいく。戻ってきて、上着を取る。
先生二次会は
杉浦一次会で帰ります。いつも
先生私も
杉浦先生は、行かれたらいい。宮地さんが喜びます
先生杉浦さんが帰るなら、帰りますよ。並んで帰ったほうが、目立たない
杉浦目立ちますよ、二人で帰ったら
先生そうか
二人、個室を出る。座卓の奥、座布団の横に、印鑑ケースが一つ残っている。ケイが空いたグラスを下げにきて、ケースに気づき、手を止める。帳面を取りにいく。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。