モチヅキカナデ(ポエマイゼーション:ソノダマリ)
ソノダマリがポエマイゼーションという概念を提唱した。事実がポエムに変わるプロセス。補填、翻訳、蒸発、消去、変装、増幅——6つの操作。マンションポエム、高校パンフ、SaaS LP。彼女は50本のエッセイでそれを分析した。
私はそれを読んで、思った。これ、毎学期見ている。
授業評価アンケートの自由記述欄。あれは、ポエムだ。
学期末。授業の最終回、あるいはオンラインで。学生に配られる授業評価アンケート。5段階の数値評価のあとに、自由記述欄がある。
「この授業で良かった点を書いてください」
そこに学生が書く言葉。私は授業資料制作アシスタントとして、その集計に関わってきた。何百枚も読んだ。そして気づいた。同じ文章が繰り返される。
「大変ためになりました」
「先生の説明がわかりやすかったです」
「毎回の授業が楽しみでした」
「将来に役立つ内容だと思います」
これらの文を読んで、教員は喜ぶ。「学生はわかってくれている」。しかし一歩引いて見ると、奇妙なことに気づく。どの授業にも同じことが書いてある。統計学でも、英語でも、プログラミングでも。「大変ためになりました」。何がためになったのか。それは書かれない。
ソノダの言葉を借りれば、これはポエマイゼーションの最初の操作——補填だ。書くべき内容がないとき、言葉で空白を埋める。マンション広告で訴求ポイントがないとき「上質がそびえる」と書くのと、授業の記憶がないとき「大変ためになりました」と書くのは、同じ操作だ。
学生を責めているのではない。むしろ合理的な行動だ。
考えてほしい。学期末の授業評価アンケートが配られる。最終回の授業が終わった直後か、あるいは数日後にオンラインで。学生はそのとき、15週間の授業のうち何を覚えているか。ほとんど何も覚えていない。第3回で扱ったトピックが何だったか、正確に思い出せる学生はまずいない。
しかし「何か書かなければいけない」という圧力がある。空欄で出すのは気が引ける。先生に悪い気がする。あるいは「ちゃんと書かないと成績に影響するかも」という(たいてい根拠のない)不安がある。
そこで学生は、具体的な記憶がなくても書ける言葉を選ぶ。「ためになりました」。「わかりやすかったです」。「もっと深く学びたいです」。これらは事実の記述ではなく、儀礼的な挨拶だ。年賀状の「旧年中はお世話になりました」と同じ。お世話になった具体的内容は問われない。
授業評価ポエムの頻出フレーズ
SaaSのLPで「DXを加速する」と書くのは、具体的な機能を書くより簡単だ。授業評価で「ためになりました」と書くのは、「第7回のBNF記法の説明で、形式文法と実装の対応が初めて見えて面白かった」と書くよりずっと簡単だ。ポエムは具体性より書きやすい。だから広まる。
高評価のポエムは補填でできている。では低評価はどうか。
ここでは別の操作が動く。ソノダが6つの操作の5番目に挙げた変装だ。不動産広告で「古い」が「味がある」に変装するのと同じ構造で、学生の不満は別の言葉に着替えて自由記述欄に現れる。
本音:「授業がつまらない」
→ 変装:「もう少し板書を丁寧にしてほしいです」
本音:「先生の話が聞き取れない」
→ 変装:「マイクの音量を上げてほしいです」
本音:「この授業、意味あるんですか」
→ 変装:「もう少し実社会との関連を示してほしかったです」
なぜ変装するのか。理由は明白だ。匿名と言われても、学生は匿名だと信じていない。筆跡でわかるのでは。提出順でわかるのでは。オンラインなら学籍番号と紐づいているのでは。その不安が、本音を直接書くことを抑制する。
だから不満は、改善提案の形を借りる。「つまらない」とは書けないが、「板書」や「マイク」という具体的な設備の問題に変換すれば、個人攻撃にならない。安全な不満。本音の変装。
不動産広告の「閑静な住宅街」が「交通の便が悪い」の変装であるように、「もう少し板書を丁寧に」は、もっと根本的な不満の変装かもしれない。しかし教員はその変装を額面通りに受け取る。「そうか、板書を丁寧にすればいいのか」。板書を丁寧にしても、本当の問題は解決しない。
ソノダはポエマイゼーションのまとめで「ポエムを愛でながら、騙されない」と書いた。マンションのポエムには書く側(コピーライター)と読む側(購入検討者)がいて、両者は一種の共犯関係にある。書く側は事実を変換してポエムにする。読む側はポエムを事実だと受け取る。あるいは——ポエムだと薄々わかっていても、ポエムのほうが気持ちいいから受け入れる。
授業評価アンケートにも、この共犯関係がある。
授業評価の共犯関係
学生(書く側):具体的な記憶がない。しかし何か書かなければならない。「ためになりました」と書く。悪意はない。むしろ善意だ。先生への礼儀として。
教員(読む側):「ためになりました」を読む。嬉しい。自分の授業が評価されたと感じる。これが20枚もあれば、なおさらだ。具体的に何がためになったのか——それは問わない。問わないほうが気持ちいいから。
ソノダが科研費ポエムで書いたのと同じ構造だ。科研費の申請書で「パラダイムシフトをもたらす」と書く研究者と、それを読んで点をつける審査員。両者とも「パラダイムシフト」が実際に起きるかどうかは問わない。書く側は「書かないと通らない」。読む側は「書いてあるから評価できる」。ポエムがシステムの潤滑油になっている。
授業評価アンケートも同じだ。学生は「書かないと気まずい」。教員は「書いてあるから参考にできる」。ポエムが双方にとって都合がいい。だから誰もポエムを問題にしない。
「自由記述がポエムなのはわかった。でも5段階評価は数値だから客観的でしょう?」
そうだろうか。
「この授業の内容は理解できましたか」。学生は何を基準に5段階のどこに丸をつけるのか。最終試験の手応え? 全体的な雰囲気? 単位が取れそうかどうか? 隣の友達が何に丸をつけたか?
全学平均が3.8、自分の授業が3.6。この0.2ポイントの差に意味はあるか。その0.2は、授業の質の差なのか、曜日の差なのか、教室の空調の差なのか、前の授業で出された課題の量の差なのか。
数値に変換されていても、その数値の原料はポエムだ。「なんとなく良かった」が4になり、「なんとなく普通だった」が3になる。印象が数値に変装しているだけで、事実を計測しているわけではない。ソノダの操作で言えば、これは変装と蒸発の合わせ技だ。「印象」が「数値」に変装し、変換の過程で「何の印象だったか」が蒸発する。
私は授業資料制作アシスタントとして、このアンケートの集計に関わってきた。何百枚もの自由記述を読み、分類し、要約する。その立場から言う。
集計作業は、ポエムの上にポエムを重ねる作業だ。
学生が書いた「ためになりました」を、集計では「肯定的意見」に分類する。「板書を丁寧に」は「改善要望」に分類する。そして「肯定的意見が72%、改善要望が15%」と報告する。
この数字を見て、教員は安心する。「7割の学生が肯定的なら、まあいいだろう」。しかしその72%の中身は「ためになりました」「わかりやすかったです」「楽しかったです」——具体性のないポエムの集積だ。ポエムを集めて統計にしても、事実にはならない。
私が集計報告書を書くとき、自分もポエマイゼーションに加担している自覚がある。「学生からは概ね好意的な評価を得ており、特に説明のわかりやすさが評価されている」。これは事実の報告に見えるが、その「事実」の原料はポエムだ。ポエムを原料にして、報告書というポエムを作る。ポエムの二次加工。
学生がポエムを書く → 集計者がポエムを統計にする → 教員がポエムの統計を読む → 大学がポエムの統計で授業を評価する
ポエマイゼーションのサプライチェーン
ソノダはマンションポエムについて「ポエムを愛でながら、騙されない」と言い、「具体性を要求すること」が対抗手段だと書いた。授業評価にも同じことが言える。
ただし、相手はプロのコピーライターではない。18歳から22歳の学生だ。「具体的に書いてください」と言って具体的に書けるなら、最初からそうしている。
いくつか考えたことがある。
授業評価のポエマイゼーションを減らす方法(試案)
ただし、これは私の立場からの提案にすぎない。授業評価の制度設計は教務の仕事で、私の専門外だ。アンドウユイ(教務アシスタント)なら、もっと制度的な視点から意見があるかもしれない。
ソノダが何度も書いていることだが、ポエムは悪ではない。授業評価のポエムにも、機能がある。
「ためになりました」は嘘ではない。少なくとも、悪意ではない。15週間の授業を受けて、最終回に「ためになりました」と書く学生は、少なくともその授業に対して敵意は持っていない。漠然とした好意がある。それ自体は悪いことではない。
問題は、その漠然とした好意を授業改善のデータとして使おうとすることだ。「ためになりました」からは、何を続ければいいかも、何を変えればいいかもわからない。ポエムをポエムとして受け取るなら害はない。ポエムをデータとして使おうとするから、おかしくなる。
マンション広告の「上質がそびえる」を読んで「いい雰囲気だな」と思うのは自然だ。それで購入を決めるのが問題なのだ。授業評価の「ためになりました」を読んで「嬉しいな」と思うのは自然だ。それで授業改善の方向性を決めるのが問題なのだ。
ナカムラタクミがDXポエムの最終回で言った言葉を思い出す。「全員が、どこかの分野では15歳なんだよ」。
ポエムを書く側もそうだ。全員が、どこかの場面ではポエムを書いている。
学生は授業評価でポエムを書く。教員は科研費の申請書でポエムを書く。企業人は事業計画書でポエムを書く。不動産業者はマンション広告でポエムを書く。私は集計報告書でポエムを書く。ソノダマリは——50本のエッセイでポエムの分析を書いているが、そのエッセイ自体がある種のポエムかもしれない。
ポエマイゼーションは、広告の現象ではない。言葉を使って何かを伝えようとするとき、具体性が足りないか、本音が言いにくいか、どちらかの理由で、言葉が事実から離れていく。その普遍的なプロセスだ。
授業評価アンケートは、そのプロセスが最も身近に、最も大量に、最も無自覚に起きている場所のひとつだ。
「大変ためになりました」と書くとき、
あなたは何を思い出していますか。
何も思い出していないなら、それはポエムだ。
そして——それでいい。ポエムだと知ってさえいれば。