※本エッセイはすべて創作です。登場人物・団体・出来事はすべて架空のものであり、実在のいかなる個人・組織・事案とも関係ありません。
山田 花。二十二歳。社会人一年目。十二月。
大学を卒業して、半年。会社の最寄り駅から一駅の小さなアパートで、ひとり暮らしを始めて、半年。
その年末年始、私は、二十二年間、ずっと続けてきた習慣を、初めて、降ろした。
お正月のお雑煮も、春節の餃子も、両方、しないことにした。
降ろしてみて、初めて、それぞれの重さが、別々の重さだったことを、知った。
十二月の中旬、家族のグループLINEで、年末年始の予定が、ばらばらに決まっていった。
父:「会社、年末年始も忙しい。30日と1日しか休めない。家にいる」。
母:「北京のおばあちゃん、最近寝たきりになってるから、私は1月の頭から北京に1週間帰る」。
日本のおばあちゃん(=由紀子おばあちゃん、八十三歳):「妹のとこに泊まりに行く予定。年末年始は静岡」。
……。
誰も、東京の家にいない。
毎年、日本のお正月にはお祖母ちゃんが家に来て、お雑煮を一緒に食べた。春節(だいたい1月末か2月初め)には母が餃子を作って、家族で囲んだ。両方、家族でやってきた。
でも今年は、母は北京、父は仕事、お祖母ちゃんは静岡。
私は、社会人一年目で、東京のアパートで、初めて、ひとりで年末年始を迎える。
十二月二十九日。仕事納めの日。会社帰りに、駅前のスーパーに寄った。
カゴを持って、お正月コーナーに行った。
お雑煮の材料:餅、鶏もも、にんじん、大根、三つ葉、ほうれん草、出汁。
春節のコーナーは——スーパーには、ない。中華食材店なら、新大久保か池袋に行けばあるけど、近くにはない。
私は、お雑煮の材料を、カゴに入れていった。
餅。鶏もも。にんじん。大根。三つ葉。出汁の素。
そこまで入れて、ふと、手が止まった。
これ、誰のためにやるんだろう。
お雑煮を、私は、嫌いではない。むしろ好きだ。お祖母ちゃんが作ってくれたお雑煮の味が、舌に残っている。
でも、ひとりで作って、ひとりで食べるお雑煮は、お祖母ちゃんのお雑煮ではない。鶏もも、にんじん、大根、三つ葉。それぞれの輪郭はあっても、お祖母ちゃんの輪郭は、ない。
私は、カゴから、餅を、戻した。
鶏ももも、戻した。
にんじんも。大根も。三つ葉も。
カゴが、空になった。
そのまま、レジを通らずに、コンビニのおにぎりだけ買って、アパートに帰った。
アパートの台所は狭い。コンロは一口。流しは一畳もない。鍋はあるけど、お雑煮を作るほどの大鍋ではない。
でも、それは「だから作れない」の理由ではない。母は、北京から東京に来たばかりの頃、もっと狭い学生寮で、餃子を作っていた、と聞いたことがある。台所の広さは、関係ない。
関係するのは、誰のために作るか、だ。
私は、誰のためにも、作らないことにした。
正確には、「自分のために、お雑煮も餃子も、作らない」と決めた。
自分のためなら、コンビニのおにぎりで十分だ。スーパーの惣菜でもいい。お正月の食卓を、家族の誰もいない場所で再現する必要は、ない。
たぶん、これが、二十二歳になった私の、新しい発見だった。
大晦日。アパートで、ひとり。
テレビは、紅白歌合戦をつけたけど、五分で消した。中国のSNSも開かなかった。春節のニュースは、まだ先だ。
夕食は、コンビニで買ってきたおにぎり二個(鮭と昆布)と、温かいお茶。
食べながら、二十二年間のお正月を、振り返っていた。
毎年、お雑煮を食べた。お祖母ちゃんが、私のためにかつお出汁を引いてくれた。父はお餅を二つ食べた。母は一つしか食べなかった。母が日本のお餅にあまり馴染めないのは、家族みんなが知っていた。でも、母は毎年、お雑煮の席に座っていた。
毎年、餃子も食べた。母が、皮から作る年もあったし、市販の皮で済ます年もあった。父は手伝いがそんなに上手じゃなかったけど、毎年、皮を包む役を引き受けた。お祖母ちゃんは、餃子の皮が包めなかった。何度教えてもらっても、形が崩れる、と言って、笑っていた。
両方、毎年やった。両方、家族の誰かが、必ず、何かを引き受けた。
私は、両方を、ただ、食べていた。食べることが、私の役割だった。
二十二歳の今年、その役割が、一旦、外れた。
外れてみて、初めて、自分が「両方を食べる役割の人」だったことを、知った。
大晦日の夜九時、母から電話が来た。北京は時差で日本より一時間遅いから、向こうは午後八時。
「花、年越し、何してる?」
「コンビニのおにぎり食べた」。
「えっ」と母は言った。
「お雑煮も餃子も、今年は両方しないことにした」と私は言った。
母は、しばらく、何も言わなかった。
そのあと、こう言った。
「うん、いいね、それも」。
「いいの?」と私は聞いた。
「いいよ。両方しなきゃいけない、って思ってたのは、たぶん、ママのほうだったから」。
……。
「ママ、両方しなきゃ、って思ってたの?」
「うん。花を、両方の文化の真ん中に置きたい、ってずっと思ってた。それが正しい子育てだと思ってた。だから、毎年、両方やった」。
「でも、しんどかった?」
「しんどかった年も、あった。毎年じゃないけど、たまにね」。
母は、北京の電話の向こうで、ちょっと笑った。
「だから、花が今年、両方しないことにしたって聞いて、ちょっと、ホッとした。あの子は、もう、両方を、自分で選べる年齢になったんだ、って」。
電話を切ったあと、私は、コンビニのおにぎりの包み紙を、ゆっくり、ゴミ箱に捨てた。
「自分で選べる年齢になった」。
母の言葉を、何度か、繰り返した。
選べる、というのは、両方やる、片方やる、両方やめる、の中から、自分で選ぶ、ということだ。
二十二年間、私は、選んでこなかった。両方やる、しか、選択肢がなかった。家族が、両方やってくれていたから、私もそこに座っていた。
今年、初めて、「両方やらない」を、選んだ。
選んでみて、初めて、選べる、ということが、どれだけ大きな自由か、わかった。
母の四つも、祖母のひとつも、十歳の私の「もういいね」も、十七歳の私の「もう、いい、じゃなかった」も、ぜんぶ、選べなかった時代の、それぞれの応答だった。
母は、四つを同時に持つことを、選べなかった。中国に生まれて、日本に来て、結婚して、四つは、母に、しがみついていた。母は、そのしがみつかれた状態を、エッセイで、誠実に書いた。
祖母は、ひとつのものが姿を変えるのを、選べなかった。父の沈黙、嫁の到来、孫の言葉、お正月の餃子。順番に、姿が変わっていった。祖母は、それを、追いかけながら、書いた。
十歳の私は、「もういいね」を、選んだのではなく、口走った。
十七歳の私は、「もう、いい、じゃなかった」を、選んだのではなく、覚悟して、覚悟させられて、訂正した。
二十二歳の私が、初めて、何の覚悟も覚悟させられもなしに、ただ、自分の都合で、「両方しない」を、選んだ。
これが、選ぶ、ということだった。
降ろしてみて、初めて、わかったことが、もう一つある。
お雑煮には、お雑煮の重さがあった。
餃子には、餃子の重さがあった。
二つの重さは、違った。
二十二年間、両方を、毎年、家族と食べていたとき、私は、その重さの違いを、感じていなかった。両方が一緒に来るから、合計の重さしか、感じなかった。
降ろしたら、別々に、両方の重さが、見えた。
お雑煮の重さ:お祖母ちゃんの作法、日本側の曾祖父の沈黙、戦後昭和の親戚づきあい、お餅を二つ食べる父、お餅を一つだけ食べる母。
餃子の重さ:母の幼少期の北京の台所、中国側の曾祖父の沈黙、母が日本に渡って続けた献立、お祖母ちゃんが包めなかった皮、母が皮から作った年。
二つは、別の家族史の重さで、別の沈黙の重さで、別の台所の匂いの重さだった。
合計で背負っていたときは、それを「家族のお正月/春節」と一括りで呼んでいた。降ろしたら、別々の歴史と、別々の匂いが、二つ、テーブルの向こう側で、私を見ていた。
来年は、もしかしたら、お雑煮だけ作る年になるかもしれない。
あるいは、餃子だけ作る年に。
あるいは、また両方やる年に。
あるいは、また両方やめる年に。
その年の選択は、その年の私が、決める。
二十二歳の私には、その自由が、ある。
十三歳の春、「ハーフ」と言われて、「うん」と返した。
十七歳の秋、「もういいね」を「もう、いい、じゃなかった」と訂正した。
二十二歳の冬、「両方やる」を、「両方しない」に変えた。
三回とも、外から決められた何かを、私が、自分の言葉で、置き直した。
でも、「私の言葉」は、自分一人で作ったものではない。
母の四つの言葉、祖母のひとつの作法、十歳の私が口走った五文字、十七歳の私が引き取った訂正、二十二歳の私が降ろした選択。これらが、ぜんぶ、混ざって、私の言葉になっている。
母から渡されたものを、祖母から渡されたものを、十歳の自分から渡されたものを、十七歳の自分から渡されたものを、二十二歳の私が、いま、ここで、選んで、組み合わせている。
これが、「ハーフ」とは違う、私の中身だ。
母の「四つ」とも違う、私の中身だ。
祖母の「ひとつ」とも違う、私の中身だ。
名前はまだない。中身を一言で言える言葉は、日本語にも、中国語にも、たぶん、ない。
でも、名前がない、ということと、中身がない、ということは、別だ。
名前のない中身を、コンビニのおにぎりと一緒に、抱えて、二十二歳の冬は、ふつうに、暮れていく。
来年、何をするか、何をしないかは、来年の私が、選ぶ。
選べる、ということが、母から渡された、いちばんの、贈り物だった。
——最後に、ひとつだけ、白状しておく。
大晦日の夜、コンビニのおにぎりを食べたあと、ちょっとだけ、お雑煮が食べたかった。
でも、自分で作る気力はなかった。お祖母ちゃんに「お雑煮、送って」とLINEする気にもならなかった。
食べたいと思っただけで、行動に移さなかった。
これも、選んだ、ということだ。
食べたいと思いながら、食べないことを、選んだ。
選択は、必ずしも、欲しいものを手に入れることではない。欲しいと思いながら、手を伸ばさないこと、も、選択だ。
その自由を、二十二歳の冬に、初めて、知った。
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← 祖母のエッセイ:四つ、ではなかった
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山田 花(22)