第二稿(第一稿、研究室4人による建設的批判を経て書き直した版)
山田謙一郎。五十二歳。進学塾アスター所長。創業から数えて二十年目。神奈川の郊外、生徒数二百人前後の中小規模の塾。
妻と、高校二年の娘、中学一年の息子。家は塾から、自転車で十五分。スタッフは、男性十八人と、女性、二人。最近、二人になった。
去年の秋、女性応募者の、辞退の電話を受けた。書類選考と面接を通って、内定の段階で、辞退。
電話を切ったあと、PCの画面を、しばらく、じっと見ていた。
面接の終わりに、「うちの会社、女性スタッフは、今、佐藤さん一人なんですよ」と、私は、言った。
「あれ、なんか、まずいこと、言っちゃったかな」と、独り言で、つぶやいた。
佐藤さんが、聞こえないふりをしてくれた。私は、「まあ、縁がなかったね」と、いつもの声に戻した。
戻して、それで、その日は、終わった。
その夜、夕食。高校二年の娘が、ふっと、言った。
「お父さん、こないだ、新しい人、決まったって言ってたよね」
「あ、辞退、になった」
「そうなんだ」
娘は、テレビを見ていた。
私は、ご飯を、口に運んだ。
春の教材会議。新人の高橋さんが「これ、性別で分けなくても、いいですよね」と言った。
私が口を開く前に、中堅の田中が、「あー、女性陣の意見ね」と笑った。
私は、止まった。
止まっているうちに、田中は、次の議題に話を振っていた。
「あ……まあ、考えとくよ」と、私は、いつもの相づちを返した。
家に帰る車のなかで、ハンドルを握りながら、田中の笑い方が、ちょっと、頭に残った。残ったけれど、家に着いたら、夕食があり、息子のテストがあり、それで、消えた。
ある日の昼休み、事務スペースに、中三の女子生徒が来ていた。たしか、ユイちゃん。佐藤さんが担当している子。
「先生……お腹、痛くて」
佐藤さんは、その時間、授業中だった。
「あ、佐藤先生、四十分後に、戻ります」
「……はい」
ユイちゃんは、ちょっと困った顔をして、トイレに、消えた。
私は、知っていた。佐藤先生のデスクの引き出しに、ナプキンが入っていることを。前に、書類を借りるとき、引き出しが少し開いていて、見えた。
知っていたけれど、開けなかった。
来週、月例の運営会議がある。議題リストを、印刷した。
議題は、五つ。少子化対策、ライバル塾の動向、講師の労働時間、教材の更新スケジュール、それから、来年度の採用方針。
採用方針は、四番目に、書いてある。
「来年度、女性スタッフをもう一人、採用する」という提案を、私は、メモにしている。メモは、議題リストとは別の紙にある。
会議では、たぶん、最初の三つで時間が、ほぼ、使われる。四番目に着くころには、皆の集中力が、下がっている。
私が、議題の順序を、変えられる。けれど、議題リストは、印刷した。
印刷した順序のまま、会議に、持っていく。
明日、私は、佐藤先生と、高橋さんに、おはよう、と言う。
中堅の田中にも、おはよう、と言う。
議題リストは、印刷したまま、机の上に、置いてある。
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本作は『「縁がなかった」の、あと』の第二稿。研究室メンバー4人の建設的批判を受けて書き直し。具体的な変更点:(1)セクションを8→6に圧縮、「縁、ということ」セクション全体を削除(解説欲を抑える)、(2)所長の自意識のメタを全削除(「優先順位を、もう、決めている。見たくない」「変えるかは、まだ、わからない」「変えないでおく、を、自分に、確認する」「楽な選択だった」)、(3)娘のセリフを「お父さん、こないだ、新しい人、決まったって言ってたよね」「辞退、になった」「そうなんだ」に変更(「気づきの装置」感を抑える、応募者辞退の事実だけを示す)、(4)田中の笑いのあとの「止めるべきだった、わかっていた」「考えても、止められるとは思えなかった」のメタ自省を削除、「家に着いたら、夕食があり、息子のテストがあり、それで、消えた」の忘却の事実描写に、(5)ナプキンの引き出しの「物理的にはできる、けれど、できる、と感じなかった」を完全削除、「知っていたけれど、開けなかった」の事実だけ、(6)結語「楽な選択だった」を削除、「議題リストは、印刷したまま、机の上に、置いてある」の事実描写に、(7)来週の議題セクションで「議題リストを、印刷した」「採用方針は、四番目に、書いてある」「印刷した順序のまま、会議に、持っていく」の動作で示す、所長が「変えられる」と自覚していることを読者に告げない。所長の自意識を抑え、彼の動作と事実だけを並べる。「気づきかけて、変えない」を所長自身が言語化するのではなく、読者が外から構造として読み取る形に。