ジュン、高校二年、二組。テスト終わりのファミレスから、二日後の日曜の夜。弟のハルが、夕食を、半分くらいしか、食べないで、自分の部屋に、戻った。
日曜の夜、家族で、夕食を、食べていた。父はまだ会社で、母と、弟のハルと、自分の三人。テーブルには、母の作ったハンバーグと、サラダと、味噌汁が、並んでいた。
ハルは、中学二年、サッカー部。いつもなら、ハンバーグを、二個、食べる。今日は、半分も、食べていなかった。母が「ハル、おいしくない?」と聞いた。ハルは、「うまい、けど、お腹減ってない」と答えた。それから、「ごちそうさま」と言って、自分の部屋に、戻った。
母が、ため息を、ついた。
「ハル、最近、元気、ないね」
「うん」と、答えた。
「サッカー部で、何か、あったのかな」
「分からない」
「ジュン、聞いてみて、くれない?」
「うん」
食事のあと、母と、リビングで、お茶を、飲んだ。
「ハル、何が、あったか、聞いてみる」と、言った。「合理的に対処すれば、解決する」
母は、お茶を、ひとくち、飲んだ。
「ジュン、それは、たぶん、違う」
「違う?」
「ハルが必要なのは、解決策じゃ、ないかもしれない」
「じゃ、何?」
「分からないけど、解決策じゃないとは、思う」
「分からないけど、違う、というのは、論理的に、矛盾してる」
母は、笑った。少しだけ、寂しそうな笑い方だった。
「ジュン、ハルの気持ちを、考えてあげて」
「考えている」と、答えた。
母は、「うん」と、頷いて、それ以上、何も、言わなかった。
ハルの部屋の、ドアの前で、立った。ノックを、二回、した。
「ハル、入っていい?」
「いいよ」
ドアを、開けた。ハルは、ベッドに、座って、スマホを、見ていた。顔を、上げなかった。
「サッカー部、何か、あった?」
「別に」
「夕食、あんまり、食べてなかった」
「腹、減ってなかった」
「合理的に考えれば、何かが、原因だ」
ハルは、スマホから、顔を、上げた。
「ジュンは、いつもそう」
「いつも、何?」
「合理的に、合理的に、って」
「合理的に考えるのは、いいことだ」
「俺は、合理的に、なれない」
ハルの声が、少し、震えていた。震えていた、ことに、気づいた。気づいたけれど、どう、対応すれば、いいかは、分からなかった。
「ハル」
「いいから、出てって」
「分かった」
部屋を、出た。ドアを、閉めた。
ハルの部屋のドアの、すぐ外で、立ち止まっていた。
立ち止まっていることに、気づくのに、しばらく、時間がかかった。
気づいたとき、廊下の真ん中で、両手を、軽く、握って、ドアの方を、向いていた。動こうとしていたが、動けなかった。
動けない、というのは、合理的な判断の結果、ではなかった。動くべきか、動かないべきか、を、計算した結果でも、なかった。ただ、足が、動かなかった。
これは、たぶん、初めての経験だった。
動くか、動かないか、の判断は、いつもなら、瞬時に、出る。x の値が、ひとつ、出るように。今夜の自分の足は、x の値を、出していなかった。
分からないまま、立ち止まっていた。
しばらくして、リビングに、戻った。母は、ソファで、テレビを、見ていた。音は、消してあった。
「ハル、なんて」と、母が、聞いた。
「合理的に考えれば、と言ったら、出てってと言われた」
母は、頷いた。
「ジュンは、ジュンの考え方で、いいよ」
「いい?」
「うん。ただ、ハルは、いま、ジュンの考え方とは、違うリズムで、動いてる、ということ」
「違うリズム」
「ジュンは、x の値を、すぐ出すでしょ」
「うん」
「ハルは、いま、x の値が、出ないところに、いるかも、しれない」
「出ないところに、いる」
「待ってあげる、ということが、必要なときも、ある」
母の言葉を、しばらく、聞いていた。
「待つ、という選択肢を、持っていなかった」
「うん」
「持っていない選択肢は、選べない」
「これから、覚えれば、いい」
「覚える」
「うん」
自分の部屋に、戻った。机に、向かった。
ノートを、開いた。数学のノートではなく、別の、白紙のノート。父にもらった、まだ、何も書いていない、ノート。
ペンを、取った。
「同期しない、二人」と、書いた。
同期、というのは、信号処理の用語だ。二つの波が、同じタイミングで、揃って動くこと。揃わないと、足し算しても、増幅されない。打ち消し合う場合さえ、ある。
ハルの波形と、自分の波形は、同期していなかった。
同期していない、ということは、悪いこと、では、なかった。波形が、それぞれ、別の周期を持っている、というだけ、だった。
同期させようと、自分の波形を、ハルに、押しつけると、ハルの波形は、打ち消されてしまうかもしれない。打ち消されると、ハル自身が、いなくなる。
これは、合理的な見方だった。たぶん、合理的な見方だった。
ただ、合理的な見方だ、と思った時点で、ハルの波形を、自分の波形の言葉で、説明しようと、していた。
これも、また、矛盾、なのかもしれない。
矛盾を、抱えたまま、ノートを、閉じた。
夜、ベッドに入った。電気を消した。
ハルの部屋の、ドアの前で、立ち止まった、自分の足のことを、思い出していた。
足が動かなかった、というのは、x の値が出なかった、ということだった。x の値が出ないとき、これまで、計算をやり直した。やり直すと、いずれ、x の値は、出た。
今夜の足は、計算をやり直しても、x の値が、出なかった。
計算では、出ない値が、ある。
これも、最近、増え始めている、新しい感覚だった。
増え始めているもの、を、いま、抱えていた。抱える、という動詞を、最近、覚え始めていた。
覚え始めている、というのが、いまの、状態だった。
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【ジュンのトロッコ問題シリーズ予告】
本作はシリーズ第3話。ジュンは弟の部屋の前で、初めて「立ち止まる」を経験した。x の値が出ないとき、計算をやり直すと値は出る。今夜は、計算をやり直しても、x の値が、出なかった。「同期しない、二人」「待つ、という選択肢」「抱える」という新しい語彙が、ジュンの中で、増え始めている。