タカハシセイイチ(家計アドバイザー・CFP・1級FP技能士)
保険関連の煽り見出しは、年金回(不安喚起型)と投資回(確信型)の、両方の性質を持っている。「入ってはいけない保険」で危機を煽り、「いざという時、本当に役立つ保障」で確信を売る。一つの記事の中に、両方の構文が同時に入っているケースも多い。今回は、そのなかで一番よく目にする「いざという時」というフレーズに集中して、解いてみたい。
架空の合成例として、保険関連の煽り見出しを並べておく。
並べると、保険記事固有の構文が見えてくる。「いざという時」「本当に」「決着」「タブー」「真偽」。これらは、保険商品が「将来起こるかもしれないこと」を売る商品であることに関係している。将来は不確かで、不確かであるほど、保険は売れる。煽り見出しは、その不確かさに、独自の重みを与える。
「いざという時」というフレーズは、保険記事と保険広告の両方で、繰り返し出てくる。家計アドバイザーとして相談を受けるとき、私はこのフレーズの意味を、相談者の方に逆に聞き返すことがある。「『いざという時』というのは、どんな時を、お考えですか」。
返ってくる答えは、一様ではない。「がんになったとき」「事故に遭ったとき」「夫が亡くなったとき」「介護が必要になったとき」「会社を辞めたとき」「子どもが大学に行くとき」。「いざという時」は、相談者によって、想定しているシーンが違う。違うのに、保険記事のなかでは、同じ「いざという時」一語が、全部のシーンを兼ねるように書かれている。
これは、年金回で書いた「あなた」一語の機能に、構造が似ている。読者の頭のなかの空白を、フレーズが代弁する。代弁された空白には、各読者が、それぞれ違う「いざ」を投影する。投影された空白に対して、保険商品が、特定の保障内容を提示する。提示された保障が、本人の「いざ」に合っているかどうかは、本人にしか分からない。
「いざという時」は、読者の頭のなかで、それぞれ違うシーンを指している。記事と広告は、その違いを区別せずに、同じフレーズで全員に話しかける。
家計アドバイザーの実務では、「いざという時」を解体するために、必要保障額の計算をする。たとえば、配偶者と子どもがいる方の死亡保障について計算するときは、おおむね次の項目を並べる:
遺族年金(公的年金)の見込み額、配偶者の収入、現在の貯蓄、住宅ローンの団信の有無、子どもの教育費の残り、配偶者の今後の生活費。これらを、子どもが独立するまで、配偶者の老後まで、と時系列に並べる。並べると、その人にとっての「いざ(亡くなった場合)」に必要な保障額が、おのずと出る。
この計算は、地味だ。地味なので、見出しにならない。「あなたの必要保障額は◯◯万円かもしれない」と書いた記事は、煽り記事として失敗する。具体性が高すぎて、読者が「自分には当てはまらない」と離れていく。煽り見出しは、具体に近づきすぎず、抽象すぎず、ちょうど読者が「自分のことかも」と感じる位置に、慎重に置かれている。「いざという時」は、その絶妙な位置にいる。
もうひとつ、保険記事に特有の問題として、書いておきたいのは、記事と広告の境界が、年金記事や投資記事よりも曖昧であることだ。マネー雑誌や保険比較サイトには、「FPが解説」「専門家が暴露」と銘打った記事が並ぶが、その執筆者の所属が、保険代理店や保険販売会社の関連企業であるケースが、相当な比率である。記事の末尾の小さな「PR」「広告」「提供」の表記を見ないと、独立記事と広告の区別がつかない。
私の周りでも、独立系FPと名乗りながら、実際には特定の保険会社の代理店契約のうえで活動している方は、相当数いる。完全に独立して、商品販売の手数料を一切取らないFPは、業界の比率として少数派だ。「外資系FPが暴露」と銘打って書かれている記事の執筆者が、特定の外資系生保の代理店契約者で、結局その記事の末尾でその保険会社の商品を推奨している、というのは、よくある構図だ。
読者として、記事と広告の境界を見分ける作業は、難しい。雑誌記事の末尾の小さな「※本記事は◯◯生命の協賛により制作されました」の一行や、ウェブ記事の冒頭の「広告」「PR」「提供」のラベルを、確認する習慣を持つしかない。確認しても、記事広告の濃度は、媒体によってグラデーションがある。グラデーションの濃い側にある記事は、独立記事の体裁を借りた、長尺の保険広告だ。
「入ってはいけない保険、入るべき保険」のような対比型の見出しは、典型的に、対比のあとに「入るべき」の側を提示する設計になっている。記事を読み終えると、「入ってはいけない」のリストに自分が今入っている保険が含まれていて、「入るべき」のリストに、まだ入っていない保険が紹介される。読者は、いま入っている保険を解約して、紹介された保険に乗り換える、という行動に向かう動線を、記事のなかで歩かされる。
解約と乗り換えは、保険業界の用語で「乗り換え販売」という。乗り換えのたびに、販売員には新規契約の手数料が入る。読者にとっては、解約返戻金の損失や、新規契約の年齢上昇による保険料上昇など、必ずしも有利ではない結果が混じる。「入ってはいけない/入るべき」の二項対比型の煽り見出しは、本質的に乗り換え販売を誘導する構文として機能している。
家計アドバイザーとして、私が保険の見直しの相談を受けたときに、最初に確認するのは、現在加入中の保険の解約返戻金(特にいま解約した場合の元本割れ額)と、加入時の年齢、保険期間、保障内容だ。これらの数字を出してから、本当に乗り換えが本人の利益になるかどうかを判断する。判断の結果、「乗り換えないほうが得」と結論づけることのほうが、たぶん半分以上ある。
もうひとつ、最近よく見るのが「医療保険、本当はいらない説の真偽」型の見出しだ。これは、業界のなかでも実は議論のある領域で、「日本の公的医療保険(健康保険)が手厚いので、民間の医療保険は不要」という意見と、「先進医療や差額ベッド代を考えると必要」という意見が、両論ある。
煽り見出しは、両論あることを伝えない。「真偽」という一語で、白黒の決着をつけたいフリをして、記事の本文では、結局その媒体の広告主に合わせた結論(医療保険を売っている媒体なら「必要」、医療保険を批判する媒体なら「不要」)に着地する。両論あることを正直に書くと、読者は決められなくて記事から離れる。離れさせないために、煽り見出しは、片方の答えに寄せたフリをする。
医療保険が必要かどうかは、本人の家計と健康状態と、リスクの取り方の好みによって、答えが違う。違う答えを違うままにしておく、という結論は、見出しにならない。だから、煽り見出しは違いを消す。
本回で書ける最小限のことは、「いざという時」を、自分の語彙で言い換えてみることだ。保険を検討するときに、「いざという時」と一語で考える代わりに、「自分が亡くなった三日後、配偶者と子どもの家計はどう動くか」「自分ががんと診断された一週間後、何にお金が必要になるか」と、具体に降ろす。降ろすと、保障の必要額が、ぐっと近づいて見える。近づいて見えると、煽り見出しの「いざという時」一語の抽象が、機能しなくなる。
具体に降ろす作業は、地味で、面倒で、ときに不快だ。自分の死後の家計を計算するのは、楽しい作業ではない。だから多くの人は、この作業を省略して、煽り見出しに頼る。煽り見出しは、面倒な作業を省略してくれる、便利な装置として機能している。便利だが、便利さの代償として、読者は、自分の保険が、自分の「いざ」に合っているかどうかを、自分で判断する作業をしないままになる。
本回も、解決策は並べない。「いざという時」を一段、自分の言葉に降ろしてみる。それだけ書いて、終わる。
——補記:この第一稿は公開後に辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。
辛口レビュー→
第二稿(改稿版)→
← 前:#2 「素人でも勝てる」の二段(投資)
次:#4 永遠の議論(住宅ローン)→
← シリーズ目次に戻る