※ シリーズ本編はすべて創作です。本ノートは企画意図と制作経緯の覚書。
「隣人として」シリーズは、現在、五本の連作で構成されている。
同じ家族の、三世代——母・祖母・娘——の声で、同じテーマ(中国と日本のあいだの隣人感情)を書いている。
この企画ノートは、なぜ五本になったか、なぜ三世代必要だったかを、短く記録しておく覚書である。
最初にあったのは、ひとつの欲求だった。
少女が大人になっていく話を、書きたい。
ビルドゥングスロマン(成長小説)。十代の少女が、世界とぶつかり、誰かと出会い、別の自分に変わっていく、あの形式。私の世代でも、子の世代でも、何度も読まれてきた古典的な小説の枠組み。
でも、いまの時代にビルドゥングスロマンを書くなら、何を主軸に据えるか。古典的な「初恋」「家出」「親への反抗」では、もう何度書かれたかわからない。
そこで、ある一点に絞った。
二つの国にルーツを持つ国際性を持った子が、大人になっていく話。
国際結婚の子供を、主役に据える。これが企画の中心だった。
ただし、難しいのは、トーンだった。
国際結婚の子の話、と聞くと、たいていの読者は身構える。「アイデンティティの葛藤」「言語の苦しみ」「差別の体験」——重い話の代名詞になっている。
そういう話は、たくさん書かれてきた。重要な話だ。けれど、その話ばかりが流通すると、国際結婚の子は「重い物語の主人公」のテンプレートに閉じ込められる。実際には、重さも軽さも、葛藤も日常も、両方ある。
だから、企画の二つめの軸を、こう決めた。
国際結婚で生まれた子の苦悩を、ライトに書きたい。
「ライトに」というのは、苦悩を矮小化するという意味ではない。苦悩はある。けれど、その苦悩を、悲劇として演出するのではなく、日常の手触りとして書く。中学校の自己紹介、世界史のテスト、コンビニのおにぎり、お雑煮と餃子のテーブル。
そういう、生活のなかの「ちょっとした引っかかり」として、苦悩を扱う。それが、本シリーズのトーンの核になった。
主役の少女を一本書こうとして、すぐにぶつかった壁があった。
少女が「自分のルーツ」を考えるとき、彼女は必然的に、過去に遡る。
少女のアイデンティティは、彼女ひとりでは完結しない。最低でも一世代上、できれば二世代上、三世代上まで、遡って初めて、彼女の輪郭が立ち上がる。
この「遡る必要がある」という構造的要請から、シリーズの形が決まった。
少女ひとりを書くために、母を書き、祖母を書き、その向こうの祖父たちの沈黙にまで触れる必要がある。
シリーズの最終形:三世代の同時並列の声。母の章があり、祖母の章があり、娘の章が三回ある。同じ家族の、同じテーマ(隣人感情)が、世代ごとに違う形で現れる。
シリーズを構想していたとき、ある一行が、編集会議の途中で出てきた。
「両方を食べる役割の人」
これは、お正月のお雑煮も、春節の餃子も、両方、家族の食卓に並べられて、それを「ただ食べる」役割を割り振られている、ハーフの子の比喩だった。
両方の文化を、両方の親から、両方とも引き受けるのが、ハーフの子の「ふつう」になっている。引き受けないと、どちらかの親が悲しむ。両方を引き受けるのが、優しさであり、義務であり、無自覚な役割でもある。
このシリーズが書きたかったのは、その役割を降ろす瞬間だった。
具体的には、最終話(花の22歳)で、娘が「今年は両方しないことにした」と決める場面。彼女は、二十二年間、両方を食べてきた。それを、社会人一年目の年末年始、初めて、自分の意志で、降ろす。
『「両方を食べる役割の人」だったことを、知った人が、両方を選択しないことも出来るようになった話』
——これが、シリーズの一行要約になった。
「役割」を「役割」として認識すること。そして、その役割を「降ろす」自由を、自分の手元に持つこと。ビルドゥングスロマンの到達点を、ここに置いた。
五本の書く順序は、執筆の都合上、こうなった。
この順序は、結果的に、ビルドゥングスロマンの構造を逆から組み立てたことになる。
主役(娘)を最後に書くために、まず彼女の世界の前提——母の経験、祖母の経験、二人の曾祖父の沈黙——を先に書いた。前提が立ち上がってから、ようやく娘の声が、その前提に対して何を選ぶか、を書ける。
これは、子の世代を主役にした成長物語を書くときの、ひとつの手順かもしれない。先に世界を書く。それから、主役の選択を書く。
当初の構想では、祖母編は予定になかった。母→娘三話、で計四本のつもりだった。
母の原作を書き終えてから、企画を再点検したとき、決定的なことに気づいた。
原作の李暁明は、中国側の祖父の沈黙について書いている。けれど、夫の側——日本側の曾祖父——の沈黙については、原作では深く触れられない。それは原作の主人公が中国出身だから、当然の偏り。
けれど、娘(花)が大人になっていく話を書くなら、彼女には両側の曾祖父の沈黙が遺伝のように届いているはずだ。中国側だけでも、日本側だけでもない、両方。
その「日本側の沈黙」を、誰が引き受けて書くか。
娘本人に書かせるのは、年齢的にまだ早い(13歳・17歳・22歳の彼女は、その重さを処理しきれない)。母に書かせるのは、立ち位置がずれる(母は中国側の人だ)。
残るのは——夫の母、つまり日本人の祖母(由紀子)だった。
この「日本側の沈黙の引受け手」として、祖母編が必要になった。原作(中国側)と祖母編(日本側)が対称をなして、初めて、娘・花の世代に、両側の沈黙が届く構造が完成する。
原作と祖母編は、ビルドゥングスロマンの世界構築のための二本である。
主役は、娘の三話。
けれど、世界が立ち上がっていなければ、主役の選択は意味を持たない。
シリーズ全体を貫く糸が、ひとつ、ある。
原作(母編)に登場する、十歳の花の三文字——いや、五文字——「もういいね」。
母が中国側の祖父の沈黙を娘に話したとき、十歳の花が、ぽろりと言ったセリフ。「ひいおじいちゃん(中国側)と、パパのひいおじいちゃん(日本側)は敵だったの?」「うん」「もういいね」。
母は、この「もういいね」を「娘に肩代わりさせてしまった」と原作で書いている。十歳の口から出るには重すぎる三文字(あるいは五文字)を、娘に言わせてしまった、という後悔。
シリーズは、この一語をめぐって、三世代が対話する構造になっている。
「もういいね」という一語が、三世代の対話の触媒になり、最終的にシリーズの全体構造を作った。一語が、シリーズを書かせた、と言ってもいい。
五本を書き終えて、いま振り返って、思うことがある。
ビルドゥングスロマンというのは、本来、主役ひとりの視点で書かれるジャンルだ。一人称、青春、孤独、自己発見。
しかし、本シリーズは、五本のうち四本が「主役以外の声」になった。母、祖母、十三歳の花、十七歳の花。最後の一本だけが、「成熟した二十二歳の花」の声。
この比率は、企画段階では予想していなかった。主役を主役にするには、周囲を四本ぶん、書かないといけない。
これは、単純に「コスト」ではない。本シリーズの場合、主役の選択(「両方しないことにした」)が、四本ぶんの背景なしでは、軽くなりすぎる。背景があるからこそ、最終話のコンビニのおにぎりが、軽くて、しかし確かな着地として機能する。
言い換えれば——
ライトに書きたい話ほど、背景はがっしり書く必要がある。
軽さは、軽さだけでは成立しない。
重い背景があって、はじめて、軽さが選び取れる。
これが、シリーズが教えてくれた、いちばん大きなことだった。
シリーズはひとまず、五本で完結している。
けれど、もし続編を書くなら、自然に思いつくのは、花の三十代だ。結婚するか、子供を持つか、もし子供を持ったら、その子は四世代目のハーフ(あるいはクォーター)になる。
花の三十代を書くと、シリーズは「ビルドゥングスロマン」から「家族の連環の話」に変わる。少女が大人になっていく話、ではなく、大人になった少女が、次の世代を抱えながら、また選び続ける話。
それは、これまでの五本とは、別の構造の話になる。だから、書くなら新シリーズとして書くことになるだろう。
あるいは、花が三十代になるのを、十年ほど待ってから書く。本シリーズの暦では、最終話は2038年。花が三十二歳になる2048年に、新シリーズを始める、という計画も、ありうる。
けれど、それは、また別の話。
当面は、五本で完結している、と、ここで宣言しておく。
少女が大人になっていく話を、五本に分けて書いた。
そのうち四本は、少女ではなく、少女の世界を書いた。
五本目で、ようやく、少女自身が、コンビニのおにぎりを食べる。
これが、いまの時代の、私たちの作れる、ビルドゥングスロマンの形だった。
このシリーズを、もし、最初から最後まで読んでくださった方がいたら、最後に、ひとつだけ。
本シリーズの主役は、十歳の口から「もういいね」と言って、十七歳で「もう、いい、じゃなかった」と訂正して、二十二歳で「両方しないことにした」と決めた、山田花という架空の少女である。
けれど、本当に書きたかったのは、彼女ひとりではなかった。彼女のような子供たちが、いま、日本のあちこちに、確かに存在していて、それぞれの「両方を食べる役割」を背負って、いる。
そのうちの何人かが、二十年後、三十年後に、自分の意志で、その役割を「降ろす」自由を、ふつうに、持っていられる社会であってほしい。
そういう願いを、五本のエッセイに、託した。
それだけが、書いた側の、ささやかな本心である。
← 一本目:四つ、同時にある(李 暁明)
← 二本目:四つ、ではなかった(山田 由紀子)
← 三本目:#1 ハーフって、半分?(花・13歳)
← 四本目:#2 もう、いい、じゃなかった(花・17歳)
← 五本目:#3 両方しないことにした(花・22歳)
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編集部メモ