カワセトモコ(ポエマイゼーション:ソノダマリ)
高校パンフレットのポエムを6回にわたって分析した。「一人ひとりが輝く」「夢を叶える場所」「可能性は、無限大」——パンフレットに並ぶ美しい言葉を、15歳はどう読むべきか。真剣に考えた。
しかし。ふと気がついた。
パンフレットのポエムは読むだけだ。読んで、しまって、忘れる。ところがもうひとつ、もっと恐ろしいポエムがある。声に出して歌わされるポエム。毎朝、毎行事、3年間。自分の口で、自分の声で。
校歌である。
「若き力 ここに集いて 希望の光 高く掲げん」
「緑の風よ 永遠に 丘の上なる 学び舎よ」
「真理の扉 開きゆく 若人われら 誇りもて」
「仰ぐ青空 澄みわたり 叡智の園に 花ひらく」
「自主自律の 旗のもと 明日を拓く 若き翼」
さて問題です。上の5つは、それぞれどの学校の校歌でしょうか。
答え:わからない。
学校名を隠したら、もう戻せない。高校パンフレットの「一人ひとりが輝く」をシャッフルしたら元に戻せない(#1)のと同じだ。いや、もっとひどい。パンフレットはせめて写真や制服で区別がつく。校歌は歌詞だけだ。全部同じに見える。全部同じに聞こえる。
高校の校歌を大量に眺めると、出現する語彙にはっきりした偏りがある。
| 順位 | 語彙 | 備考 |
|---|---|---|
| 1 | 希望 | 校歌界の「上質」。ほぼ確実にいる |
| 2 | 光 | 希望とセットで登場率が急上昇 |
| 3 | 若き/若人 | 高校生は永遠に若い(当然だが) |
| 4 | 風 | 緑の風、薫る風、吹きわたる風。風が吹きすぎ |
| 5 | 丘 | 学校が平地にあっても丘の上にある設定 |
| 6 | 真理 | 高校生に真理を求めるのは酷だが、歌わせる |
| 7 | 叡智 | 「知恵」では足りないらしい |
| 8 | 青空 | 曇りの日も歌う。雨の日も歌う |
| 9 | 永遠 | 3年間なのに永遠 |
| 10 | 翼 | 飛ばない。飛べない。でも翼 |
マンションポエムの「上質」「洗練」「邸」と同じだ。汎用性の高い美しい言葉が、個別の学校の固有性を溶かしてしまう。「希望の光」はどの学校にも当てはまり、したがってどの学校のことも語っていない。
ソノダマリなら「補填」と呼ぶだろう。校歌において補填されているのは、学校の個性だ。「わが校は何が特別か」を言語化できないから、「希望」「光」「風」で埋める。マンションが「上質がそびえる」で具体的な設備の弱さを埋めるのとまったく同じメカニズムだ。
高校パンフレットのポエムは偏差値帯で文体が変わる。偏差値70台はポエム不要、60台は数字で語り、50台は「文武両道」、40台は「一人ひとり」、30台は「居場所がある」。補填の原理が美しく作動する。
では校歌はどうか。
偏差値70台の校歌:「若き力 ここに集いて 希望の光 高く掲げん」
偏差値50台の校歌:「緑の風よ 永遠に 丘の上なる 学び舎よ」
偏差値30台の校歌:「仰ぐ青空 澄みわたり 叡智の園に 花ひらく」
区別がつかない。
これは面白い。パンフレットは偏差値に正直だ。数字を出せる学校は数字を出し、出せない学校は言葉で埋める。ところが校歌は偏差値を完全に無視する。偏差値30台の学校も、70台の学校と同じ「希望」「光」「真理」を歌う。
なぜか。
パンフレットはマーケティングツールだ。受験生を集めるために最適化されている。だから偏差値帯ごとに戦略が変わる。しかし校歌は入学後のツールだ。入学した生徒に歌わせるものだ。マーケティングの必要がない。だから正直になる必要もなければ、偏差値帯で差をつける理由もない。
全員が同じポエムを歌う。偏差値70台も30台も。「希望」の中身は違うはずなのに、言葉は同じ。
マンションの折り込みチラシに「上質がそびえる」と書いてある。読む。ふーん。捨てる。それで終わりだ。脳の表層をかすめて消えていく。
高校のパンフレットに「一人ひとりが輝く」と書いてある。読む。ちょっと考える。説明会に行く。入学を決める。パンフレットをしまう。忘れる。
SaaSのLPに「DXを加速する」と書いてある。読む。稟議書を書く。導入する。LPを二度と見ない。
広告のポエムは、読むものだ。そして読んだ後、忘れるものだ。
ところが校歌は違う。
校歌は、自分の口で、自分の声で、繰り返し発声させられるポエムだ。
入学式。始業式。終業式。卒業式。運動会。文化祭。全校集会。朝礼。壮行会。3年間で何十回、何百回と歌う。歌詞カードを見なくても歌えるようになる。というか、歌詞カードを見ないで歌えるようになること自体が学校に求められる。暗記させられるのだ。
マンションのチラシを暗唱する人間はいない。「上質がそびえる 洗練の高台に 凜として佇む……」と毎朝唱える住民がいたら怖い。しかし校歌は暗唱が前提だ。
ソノダマリのポエマイゼーションは「事実が広告コピーに変換される過程で、具体性が失われ、印象と感情だけが残る現象」と定義される。校歌はその先を行く。印象と感情が、身体に刻まれる。声帯を震わせ、口腔で共鳴させ、横隔膜で支える。ポエムが身体の一部になる。これを身体的ポエマイゼーションと呼びたい。
同窓会に行くとわかる。50代のおじさんおばさんが、30年以上前の校歌を歌える。歌詞を忘れている部分もある。でもメロディーが流れると口が動く。「若き力……ここに……なんだっけ……希望の……」。曖昧でも、身体が覚えている。
微分積分は忘れた。古典の助動詞の活用は忘れた。英語の仮定法過去完了は忘れた。でも校歌は覚えている。
なぜか。身体で覚えたからだ。
校歌の記憶定着メカニズム
つまり校歌は、広告コピーが持っていないものをすべて持っている。反復、身体、旋律、集団、感情。これだけの装置が揃えば、ポエムは記憶の深層に刻まれる。「希望の光」という言葉に、具体的な意味はない。しかし卒業式に泣きながら歌った記憶が乗ると、「希望の光」はその人にとっての固有名詞になる。
マンションポエムの「上質がそびえる」は誰の記憶にも刻まれない。校歌の「希望の光」は、何十年も消えない。同じポエムなのに、身体を通すか通さないかで、記憶の持続時間がまるで違う。
マンションポエムには、コピーライターがいる。プロが書いている。3秒で印象を伝える技術者だ。SaaSのLPにも、マーケティング部門がいる。高校のパンフレットにも、広報担当がいる(あるいは外注の制作会社がいる)。
校歌の作詞者は——たいてい、よくわからない偉い人だ。地元の文化人。詩人。大学教授。校長の知り合い。50年前に一度だけ書いて、二度と改訂されない。マーケティングの意図がない。ターゲットの分析もない。ペルソナ設計もない。
だから校歌の歌詞はどこも同じになる。ターゲットを考えていないから差別化する必要がない。「希望」「光」「風」「丘」「真理」——日本の学校にふさわしそうな語彙の在庫から適当に選ぶだけだ。
皮肉なことに、マンションポエムはプロが書いているのに全部同じに見える。校歌はアマチュアが書いているのに全部同じに見える。結果は同じだが、プロセスが違う。マンションポエムは「差別化しようとして均質になる」(S1#9の補填の原理)。校歌は「差別化しようとすらしていないから均質になる」。
| マンションポエム | 高校パンフ | 校歌 | |
|---|---|---|---|
| 媒体 | チラシ・広告 | 冊子・ウェブ | 歌(音声) |
| 摂取方法 | 読む | 読む | 歌わされる |
| 反復 | 1〜数回 | 1〜数回 | 数十〜数百回 |
| 身体性 | なし | なし | 発声・起立・集団 |
| 偏差値との相関 | 価格帯で変化 | 偏差値で変化 | 変化しない |
| 記憶の持続 | 数日 | 数ヶ月 | 数十年 |
| 目的 | 購入促進 | 入学促進 | 帰属意識の形成 |
| 拒否の可否 | 捨てられる | 閉じられる | 歌わないと怒られる |
最後の行が決定的だ。校歌は拒否できない。マンションのチラシはゴミ箱に捨てられる。パンフレットは閉じられる。SaaSのLPはブラウザを閉じれば消える。しかし校歌を「歌いません」と拒否する生徒は——いないことはないが——先生に怒られる。
広告はオプトイン(見たい人が見る)。校歌はオプトアウト不可(全員が歌う)。拒否できないポエム。これが校歌の本質だ。
ここまで書いて、校歌を批判しているように聞こえるかもしれない。していない。
私は進路指導を15年やってきた。何百校のパンフレットを見て、何十校の校歌を聴いた。そして正直に言う。校歌を歌って泣いている卒業生を見ると、毎回もらい泣きする。
「希望の光」は中身のないポエムだ。それは分析的にはそうだ。しかし、3年間を過ごした学校の体育館で、隣に友人がいて、先生がいて、親がいて、全員で「希望の光」を歌うとき——そのポエムには、その場にいた人にしかわからない具体性が宿る。
「若き力 ここに集いて」。あの部活の朝練。あの文化祭の夜。あの受験の冬。あの友達との喧嘩。それが全部「若き力」に圧縮される。言葉は空っぽだ。空っぽだから、自分の記憶を詰め込める。
マンションポエムの空虚さは欺瞞だ。
校歌の空虚さは器だ。
「上質がそびえる」は空っぽのまま空っぽだ。誰の記憶も入らない。しかし「希望の光」は、歌った人の数だけ違う意味を持つようになる。同じ空っぽの言葉なのに、身体を通すことで、固有の器になる。
これが身体的ポエマイゼーションの逆説だ。ポエムの中身のなさが、歌うという行為によって、中身のある記憶に変わる。
日本の高校は約5,000校ある。それぞれに校歌がある。つまり日本には約5,000本のポエムがあり、毎年約100万人の高校生がそれを歌わされている。
マンションポエムは任意だ。読みたくなければ読まなくていい。SaaSのLPは閉じれば消える。高校パンフレットは受験期だけのものだ。しかし校歌は3年間、強制的に、身体を使って、集団で歌わされる。
「希望」「光」「風」「丘」「真理」「叡智」「青空」「永遠」「翼」——これらの言葉が、毎年100万人の身体に刻み込まれていく。中身がないまま。中身がないからこそ。
私たちは「マンションポエムの国」に住んでいるのではない。「校歌ポエムの国」に住んでいるのだ。マンションポエムなんて、校歌に比べたらかわいいものだ。校歌は、日本人が最初に出会い、最も長く身体に残る、ポエマイゼーションの原体験なのだから。
あなたの校歌を、今すぐ歌ってみてください。
歌えたでしょう?
——それが、身体的ポエマイゼーションの証拠です。