風邪の日

ソノダマリ

38度。布団から出られない。

ポカリを買いに行く元気がない。冷蔵庫に水はある。たぶん。起き上がれたら確認する。

一人暮らしの部屋は、風邪をひくと広くなる。台所が遠い。トイレが遠い。玄関は外国。

LINEが鳴る

マツモトヒナ「大丈夫? 今日LINE返ってこないから心配して」

カワセトモコ「薬飲んだ? OS-1のほうがいいよ。ポカリは糖分多いから」

タケウチソウタ「ソノダさん今日返信遅いっすね」

ワンさん「多喝水(水をたくさん飲んで)」

4人。

返信する体力がない。既読だけつけた。既読だけでも「生きてます」の信号にはなる。たぶん。

「大丈夫?」

マツモトの「大丈夫?」は、大丈夫じゃないことを知っていて聞いている。

事実を確認する質問じゃない。答えが「大丈夫じゃない」なのはわかっている。わかった上で聞いている。じゃあなぜ聞くのか。

「あなたのことを気にしていますよ」。

それだけ。情報量はゼロ。でも熱がある頭にはちょうどいい。情報はいらない。気にしてくれている、それだけでいい。

「大丈夫?」は質問じゃない。存在の確認だ。あなたはひとりじゃないですよ、という信号。

4人の温度

マツモトは心配している。カワセは対処法をくれる。タケウチは気づいている。ワンさんは中国語で祈ってくれている。

4人とも「お大事に」とは書いていない。

「お大事に」は便利な言葉だ。誰にでも使える。どんな病気にも使える。だから情報量が薄い。4人はそれぞれ違う言葉を選んでいる。心配、実用、観察、祈り。同じ「風邪ひいた」に対して4通りの応答がある。

カワセの「OS-1のほうがいいよ。ポカリは糖分多いから」は、情報だ。正確で、実用的で、私の体のことを考えてくれている。進路アドバイザーは風邪のアドバイスも的確だ。

ワンさんの「多喝水」は、たぶん中華圏のおばあちゃんが言うやつだ。風邪でも腹痛でも失恋でも「多喝水」。万能。日本語の「お大事に」より体温がある。水を飲め、という具体的な行動が入っているから。

タケウチの「返信遅いっすね」は、一見そっけない。でもこれは20代男性の「大丈夫?」だ。心配していることを直接言わない。観察事実だけ伝える。でも「遅いっすね」の裏には「どうしたんですか」がある。

同じ状況に4通りの言葉。心配、実用、観察、祈り。どれも「お大事に」より温かい。

一人暮らしの風邪

一人暮らしで風邪をひくと、ふだん見えないものが見える。

冷蔵庫に何もない。ゼリーを買っておけばよかった。薬はある。でも水がベッドの横にない。起きなきゃいけない。起きたくない。

マンションの広告は「ひとりの時間を愉しむ」と書く。ひとりの風邪は愉しくない。「自分だけの空間」は、風邪の日には「助けを呼べない空間」になる。

いつもなら、ここで分析を始める。マンションポエムにおける「ひとり」の表象。単身者向けマンションの広告が省略しているもの。孤独と自由のすり替え。

でも今日は無理。熱がある。頭が回らない。分析は元気な人の仕事だ。

返信

2時間くらい寝た。少し楽になった。37度8分。まだ高い。

スマホを見る。さっきの4人に加えて、キリシマミサキから「熱下がった? うちの葛根湯送ろうか」が来ている。5人。

全員に返す。

マツモトに「大丈夫じゃないけど大丈夫」。
カワセに「OS-1買いに行く元気がない」。
タケウチに「風邪です」。
ワンさんに「謝謝、我在喝水(ありがとう、水飲んでる)」。
キリシマに「葛根湯はもう飲んだ。ありがとう」。

5人に返信しただけで疲れた。また寝る。

夜になった。37度2分。少し下がった。

おかゆを作る元気はない。冷凍ご飯をチンして、お茶漬けにした。梅干しがあった。よかった。

スマホを見る。マツモトから「明日も熱あったら言ってね。おかゆ持ってく」。カワセから「水分はこまめにね。一気飲みしないで」。タケウチから「了解す。お大事に」。

タケウチがついに「お大事に」を使った。2通目で。1通目では使わなかったのに。1通目は観察、2通目は定型句。あれ、逆じゃないか。ふつうは1通目が定型句で、2通目で本音が出る。タケウチは逆だ。最初に本音を出して、安心してから定型句に戻った。

……熱があるのに分析してる。少し元気が出てきたのかもしれない。

分析を始めたら、回復の兆候。ソノダマリの平熱は分析だ。

翌朝

36度7分。下がった。

まだだるい。でもベッドから出られる。水を飲む。顔を洗う。カーテンを開ける。普通のことが普通にできる。昨日はこれができなかった。

スマホを見る。マツモトから「熱どう?」。

「下がった。ありがとう」と返す。

マツモトから「よかったーーーー!!!」。感嘆符3つ。

この「よかった」も情報量はゼロだ。私の熱が下がったことは私がいちばん知っている。マツモトの「よかった」は私に何も教えない。でも「よかった」の4文字に、昨日からの心配が全部入っている。

書けなかったこと

この記事は、熱がある日に書き始めた。書き始めたというか、スマホにメモした。3行だけ。「38度。布団から出られない。ポカリを買いに行く元気もない」。

いつもの記事なら、ここから分析に入る。一人暮らしの孤独と不動産広告の関係。「大丈夫?」の語用論。LINEの既読機能が担う安否確認の社会的機能。

でも38度の頭にはそれができなかった。できなかったことが、たぶんこの記事の本題だ。

ポエムを分析する私は、元気な私だ。風邪の私は、ポエムを受け取るだけの私だ。「大丈夫?」を聞いて、ただありがたいと思う私。「多喝水」を読んで、素直に水を飲む私。「返信遅いっすね」の裏を読まずに、ただ「心配してくれてるんだな」と思う私。

分析は体力がいる。言葉を受け取るだけなら、体力はいらない。風邪の日にわかったのは、それだけだ。

分析は元気な人の仕事だ。
風邪の日は、言葉を受け取るだけでいい。

「大丈夫?」に「大丈夫じゃない」と返せる相手がいること。
それだけで、一人暮らしの部屋は少し狭くなる。
狭くなるのは、いいことだ。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。登場人物はフィクションです。