田口さん、明治八年生まれが夢に立つ
森川さんが連れてきた、作られた側の明治——降霊録・三代遡り

ワタナベ(65歳・元会社員、夢の記録者として)

前の三編と、1995年の台湾の記憶を書いてから、またしばらく間があった。書いたあと、いつもひと月ほど、字が自分から離れていく時期がある。字が離れていくあいだ、夢も薄くなる。薄くなったまま、数週間が過ぎた。

森川さんが最後に残していった予告を、この数週間、半ば忘れていた。自分の若い頃の上司、つまり明治生まれのさらに上の世代を、次の夢に連れてくる可能性はある、と森川さんは言った。言ったきり、音沙汰がなかった。なかったので、こちらも忘れた。忘れたころに、来た。

昨夜、田島部長と森川さんが、また夢に現れた。二人はあまり話さず、間に、小柄で痩せた老人を挟むようにして立っていた。老人は羽織袴で、髪を短く刈っていた。顎の下の皺が深く、首筋に細い白髪が一本、襟からはみ出していた。老人は椅子をすすめられても座らず、立ったまま手を前で組んだ。

「田口」と、森川さんが紹介した。「私が入社したときの専務です。明治八年生まれ。私の父より二つ下で、立場からすれば、私の父の同世代ということになります」。田島部長は、後ろで黙って頷いた。紹介されると、田口と呼ばれた老人は、軽く会釈をして、すぐに話し始めた。立ったまま話す人の話は、短く核心に向かう、と私は会社員時代に学んだ。今回もそうだった。以下、私が枕元のメモに起こした順に、田口さんの言葉を残す。

田口栄介、自己紹介する

「私は明治八年生まれ、下総国の小藩、石高一万石ほどの小さな藩の下級武士の次男です。父は藩の勘定方の末席、母は隣藩の小商人の娘でした。家禄は五十石ほど、侍と申しても、暮らしは町人と大差がなかったと、父は後に申しておりました」

「藩が廃されたのは明治四年、父は三十四、母は三十、私が生まれる四年前のことです。父が禄を失ったとき、家族の計算が一度、崩れ切っております。私が生まれたのは、崩れたあと、東京で小売を始めて三年目の、家の二階でありました。産婆は、近所の元髪結いの女房でした」

「明治八年という年を申し上げる。上野戦争から七年、廃刀令は翌年、西南戦争は翌々年。私の記憶に残る最初の音は、父が仏壇の前で経を読む低い声と、隣家の鍛冶の金属音が混ざった音です。父は侍の装いを、家の中では維持しておりました。外では既に捨てておりましたが、奥の間では袴をつけ、腰に脇差を差した。差していても、それを抜く機会は、一生、来なかった」

「私は十歳で東京の官立の学校へ出され、十三で寄宿、十八で高等商業、そのあと大学に進んで法科を半端に終え、二十二で商社に入りました。入社から四十年近く、商社で過ごし、昭和七年の春、五十七歳で専務取締役に就いた。森川君が入社した年です。森川君を、新入社員の列の後ろから三番目で、見ております。覚えておるのは、彼だけではなかったが、彼は背が高かった。高い若者は、列の中で先に目につく」

「昭和十年に会長を退き、昭和十七年に完全に会社を離れた。戦後は三鷹の家で、ほとんど外に出ず、昭和二十九年の秋、七十九で死にました。妻に看取られ、子には看取られなかった。長男は昭和十九年、比島で戦死しております。これが私の外枠です」

「伝統」の裏の、さらにその下

「田島君と森川君が、ワタナベ君に、日本の『伝統』の多くは明治以降の発明だと話したと聞いております。私はその説に、半分同意する。半分しか同意しないのは、明治の発明は、私たちの世代が作られた側だからです。作った側と作らされた側では、同じ発明に対する手触りが、別になる」

「森川君の父上は、内務省で町村制の整備に携わられた方と聞いた。整備に携わる側の目線から見えるのは、制度が仕上がっていく図面です。私の父は、整備される側の、末端の一人だった。図面が届いて、その通りに動かされる側でした。動かされる側から見える明治は、図面とは別の形をしている」

「私の父は、廃藩置県の翌々年、家禄を正式に失い、東京に出て小売商を始めた。資本の一部は、祖父が藩主を通じて将軍家に献上する予定だった一振りの刀を、売った金でありました。その刀は、祖父の代には既に、献上の機会を失っていた。将軍家が消えたからです。消えた献上先への刀を、持ち続ける理由は、家の誰にも説明できなくなっていた。それでも、父は売るとき、三晩眠らなかった」

「売った金は、小売の店の敷金と、最初の仕入れに消えた。消えた金で、私の家族は一年半、米と味噌を買った。刀は米と味噌になった。なったが、父はそれを、死ぬまで、自分の中で整理しきれなかった。刀と米味噌の間に、換算表がなかったのです。換算表を作らないまま、換算だけが進行した。これが、作られた側の、明治の実際の手触りです」

「森川君が語った『伝統の三層』——江戸以前から続くもの、明治の発明、戦後の発明——その整理は、正しい。正しいが、明治の発明の層の下に、換算表のなかった層が、もう一枚ある。作られた側の、換算されないまま消えていった感触の層です。私が話したいのは、そちらです」

散切り頭と、祖父の涙

「森川君が、自分の祖父は髷を切ったとき三日間泣いたと話したそうだね。私の父もそれに近かった。正確には、泣かなかった。泣かないまま、三日間、家の奥で出てこなかった。母が膳を運び、父は一口も箸をつけず、下げさせた。膳を下げた母の背中を、台所から私が見ていたのを覚えている。三つか四つの頃だ。母は、下げた膳を長く見て、それから冷や飯を自分で食べた」

「四日目の朝、父は普通に起きてきた。前の晩までの三日間を、家族の誰にも説明しなかった。散切り頭になって、羽織だけ着ていた。袴はつけなかった。それから父は、家の外では袴を一切つけなくなった。奥の間でだけ、袴で座った。袴で座るときに、父の背中が、一回り小さくなったのを、私は覚えている。小さくなった背中のまま、父は四十年生きた」

「祖父の代はもう一つ手前だ。祖父は藩士の末端で、廃藩のあと小商人に転じ、明治二十五年、五十で死にました。私が十七のときです。死ぬ間際、祖母に聞いた、とあとで母から伝え聞いた。『わしは、いつ、武士だった』と、祖父は祖母に聞いたそうです。祖母は、『ずっとでした』と答えた。祖父は頷いて、その夜に死んだ」

「『ずっとでした』という答えが、事実として正確だったかどうかを、私は判断できません。判断できないことそのものを、祖母は知っていて、それでもそう答えた。答えて、祖父を見送った。祖母自身は、そのあと十二年生きて、明治三十七年、日露戦争の開戦の月に死んでいる」

「明治の『新しい日本』は、この種の答えの累積の上に立っています。『ずっとでした』と答えた祖母たちが、数百万人、日本の各地にいた。答えは一つ一つ、判定不能のまま、死者に届けられた。判定不能のものを、判定不能のまま受け取る作法が、あの時代の老女にはあった。私たちの世代は、その作法を受け継ぎ損ねた最初の世代です」

苗字と戸籍——作られた側の記録

「森川君が語った苗字の話を、もう一段詳しく申し上げます。明治八年、私の生まれた年、平民苗字必称義務令が出た。四年前の明治三年に平民苗字許可令が先行し、四年間は『つけてもよい』だった。義務になったのは、私の生まれた年です」

「私の父方は武士階級だったので、元々『田口』を持っておりました。田口の由来は、祖父の記憶では、下総の古い田の口の地名ということだったが、本当かどうかは分からない。武士の苗字は、江戸期に何度か書き換わっている家が多く、我が家もおそらく、どこかで書き換わっている」

「母方は違います。母の実家は小商人で、母が子供の頃にはまだ苗字を持たなかった。明治八年、役所の窓口で、母の父、つまり私の外祖父は、悩んだそうです。住んでいた通りの名を取るか、先代から譲られた通り名を取るか、まったく新しく何かを作るか」

「外祖父が選んだのは、近所の古井戸の名でした。松井、と呼ばれた井戸です。松の木の下の井戸だった。外祖父はそれまで『松井の権助』と、近所で呼ばれていた。井戸の前にある家の権助、という意味です。その延長で、『松井』を戸籍に書いた。書くときに、書記の役人が、漢字を三通り提示して、外祖父が指差したのが、今の『松井』だった、と母は私に教えた」

「母は、自分の旧姓『松井』の由来を、私には話した。私の妻には、話した記憶がある。私の子供たち、つまり孫には、話さなかった。話すと、由来の軽さが露出する。露出すると、苗字の重みが、一代で違うものになる。母はそれを避けた。避けたいという感覚を、私は十分に理解しました。理解したが、同時に、避け続けることで、由来そのものが消えていくのも見ました」

「今、私は夢の中で、それを露出させている。露出させるのが、作られた側の末尾にいる者の、役目だと、死んでから気づいた。死んでからというのは、遅すぎる気づき方です。遅すぎる気づきを、夢という形で若い世代の枕元に置いていくのが、死者の側にできる、ほとんど唯一の仕事です」

学校——国民を作る機械

「学制が明治五年、私の生まれる三年前に出た。布告は出たが、下総の田舎まで、まともに学校が整うのに、あと五年かかっています。私が入学できた明治十四年の時点でも、学校は旧寺の本堂を借りた仮のもので、畳の上に机を並べ、畳の縁で足を折って座った」

「朝、教師が教壇に立ち、私たちは立ち上がって、教科書の冒頭を斉唱した。修身の時間には、『天皇陛下の赤子なり』と声を合わせた。合わせたが、その語彙は、家では一度も使わなかった。家では父が『殿様』『御先祖様』と言い、祖父母も同じだった。母だけが、子供向けに『お上』と言った。『陛下』という語は、学校の教室の中にしかない語でした」

「学校で『天皇陛下』と斉唱し、家に帰って『殿様』と言う。この二重生活を、私たちの世代は普通に暮らしました。二重生活だと気づいたのは、ずっと後、自分が商社の課長になってからです。部下の報告書の語彙が、家で親から聞いた語彙と、一切重ならなくなっていた。重ならないと気づいた瞬間に、自分の子供の頃の二重生活を、初めて思い出した」

「修身・歴史・国語の教科書は、明治十年代から二十年代にかけて、数年ごとに書き換えられました。文部省の検定制度が整っていくに伴い、書き換えが制度化された。書き換えるたびに、『日本の古来の姿』が、微妙に違う形で提示される。私が小学校で習った『日本古来』と、九つ下の弟が同じ地域の同じ学校で習った『日本古来』は、同じ話ではありませんでした」

「弟は、自分が習った『日本古来』を、信じました。信じたまま、陸軍に入り、日露で遼陽に行き、生きて戻ってきた。戻ってきたあと、一度だけ、私に『兄上が習った古来とは違ったかもしれない』と漏らしたことがあった。漏らしたきり、その話を、弟は二度としなかった。弟は昭和四年、腎の病で死にました」

「私は、自分が習った『日本古来』と、父から聞いた『我が家の古来』の違いに、微かに引っかかり続けた。引っかかりは、成人してから、商社の仕事の、別の形で返ってきます。これについては、もう少しあとで話します」

西南戦争の従軍記——父の同僚の記録

「明治十年、私が二歳のとき、西南戦争があった。父の商売仲間に、元士族で政府軍に従軍し、熊本から戻ってきた者がいた。名は伏せます。その男が、戦争の翌年、夜、父と酒を飲みながら、戦場の話を断片で漏らした」

「私は二歳で、直接に聞いてはおりません。父が後年、私に、その男の話を、いくつかに分けて語ってくれた。最初に聞いたのは私が十一の頃、最後に聞いたのは父が死ぬ前年、私が三十一のときでした。二十年かけて、父は同じ話を四回に分けて語った。語るたびに、同じ場面の細部が、少しずつ違っていた。父の記憶の揺れを、私は訂正せずに聞いた」

「その男が一番覚えていたのは、田原坂あたりの戦闘の合間に、西郷軍の兵士と、政府軍の兵士が、死体の間で、互いの訛りで『お前、どこから来た』と聞き合った場面だそうです。鹿児島訛りと、越後訛りと、彼自身の下総訛りが、同じ山肌で交差した。交差して、『ああ、あんた、そこか』と互いに確認して、そのあと、また別の場所で銃を向け合った」

「同じ日本人同士が銃を向け合う、という状況が、当時の兵士にとっては、まだ不思議だった。不思議だったことを、父はその男の口調のまま、私に伝えた。『同じ日本人』という語そのものが、明治十年の戦場では、まだ薄かったのです。国民国家の『国民』という概念が、現場ではまだ定着していなかった。戊辰から九年、戦争の当事者はまだ、自分が誰と戦っているのか、明確な線を持っていなかった」

「『国民』が『国民』になるには、そこから三十年かかっています。日清戦争、日露戦争、徴兵制の定着、学校教育の浸透、新聞の全国流通、鉄道の全国網。これらが揃って、ようやく『日本人』という意識が、現場の兵士の口から当たり前に出てくるようになる。明治四十年代のことです」

「『日本人』は、明治の三十年、正確には三十五年ほどで、作られた。作られる前の『日本』は、もっと雑多で、ばらばらで、互いに訛りで確認し合うような場所でした。これを、田島君と森川君に代わって、私は、ワタナベ君に伝えておきます。君たちの世代が『日本人とは』と問うとき、問いの前提にある『日本人』そのものが、明治の三十五年の産物であることを、忘れないでほしい」

日本人という発明

「『日本人』が発明される過程で、一緒に発明されたものを、商社の専務として関わった限りで、列挙します。私の目の前で発明された、という時間感覚で、挙げる」

「標準語は、明治の文部省による言文一致運動と、東京山の手言葉の規範化を経て、明治三十年代に学校教育を通じて全国化した。私が子供の頃、学校の教師自身が、訛りのない『標準』の発音を、自分で苦労して学んでいた。私の小学校の教師は、越後の出で、教室で『標準語の練習』を生徒と一緒にしていた。生徒よりは上手かったが、完璧ではなかった。完璧な標準語の話者は、まだ日本のどこにもいなかったのです」

「日本史という科目は、古事記・日本書紀から明治維新までを、一本の連続する『国史』として再編した明治政府の編纂事業の産物です。明治十五年の文部省編纂会、明治三十四年の国定教科書制度。私は明治三十四年の制度化のとき、二十六歳で、商社の若手として、文部省主催の有識者懇談に一度だけ同席した。同席した場で、『国史は一本である』という前提が、当たり前のように共有された。共有の仕方を、私は今でも覚えている」

「国民体操、記念日の制度——紀元節は明治六年、天長節は同年、明治節は昭和になってから——、国歌と国旗の儀礼、学校の制服の洋装化、修学旅行、博物館、美術館、大相撲の国技化、剣道・柔道・弓道の体系化、銀行制度、郵便制度、鉄道時刻表、標準時。これらが、私の生まれた明治八年から、日露戦争の終わる明治三十八年までの三十年で、次々に発明された」

「発明された時点で、すべてに『古来』『伝統的』『本来の日本の』という形容詞が、添えられました。添えなければ、発明だとバレる。バレると、国民国家としての権威が立たない。だから『古来より』と添える。添えることが、国民国家の維持の中核作業になりました。私は商社の側から、その作業の周辺に、何度か立ち会っている」

「一つだけ、具体的に申し上げます。大相撲が『国技』と呼ばれるようになったのは、明治四十二年、両国の国技館の落成の前後です。それ以前、相撲は勧進相撲であり、興行であり、賭け事の対象でもあった。四十二年の『国技』命名の際に、相撲関係者と新聞社と一部の政府関係者が、『相撲は日本古来の国技である』と、同時に言い始めた。同時に言い始めたから、言い始めた時点を、指摘できる。指摘できるうちに、指摘する役目が、私にある」

私が作った発明——商社の側から

「私自身も、明治後期から大正期に、いくつかの発明に関わりました。商社の課長、部長、専務として、自覚のあるものもあれば、気づかずに関わったものもある。自覚のあったものから、三つだけ申し上げる」

「一つ、社員研修制度。『新入社員教育』という言葉自体が、大正初期、私の造語に近いものでした。それまでは徒弟制度と呼ばれており、先輩社員が個別に新人を手元に置き、仕事を見せて覚えさせるのが常だった。明治末、欧米視察で回った独逸の商社に、集合研修の制度があり、それを我が社に移植する案を、私が提案した。提案書の中で、『新入社員教育』という四字を、私は初めて紙に書いた。書いたとき、この語が日本語に定着するかどうかを、自分では半信半疑でした。大正三年に制度化、大正末には同業他社にも広がり、昭和に入って『新入社員教育』は、商社の常識語になった」

「二つ、背広・ネクタイ・革靴の着用義務。明治後期、我が社の社員に洋装を義務付けました。義務付ける側として、私は文書を起案した。起案の段階で、年配社員から強い反発があった。『日本の事業者が、なぜ西洋の格好をするのか』と。私はその反発を、すぐには封じなかった。一ヶ月、自分だけ羽織袴で会社に通い、他の役員が洋装している中で、自分の羽織袴の居心地の悪さを、黙って味わった」

「一ヶ月後、反発の中心にいた年配社員三人を、個別に呼んで、答えた。『西洋の格好をするのではありません。新しい事業者の格好をするのです。新しい事業者の格好は、たまたま洋装から始まる。始まったのを、あとから和装に戻すより、このまま通すほうが、合理です』。この説明は、半分、詭弁でした。詭弁だと自分で知っていたが、ほかに説明のしようがなかった。三人のうち二人は納得し、一人は納得しないまま辞めた。辞めた一人の後ろ姿を、私は今でも覚えています」

「三つ、『お疲れ様でした』の退勤挨拶。明治までの商家には、退勤時の定型挨拶はなかった。『ごめんなすって』『お先に』『失礼いたします』程度です。『お疲れ様』は、もともと軍隊用語で、演習から戻った兵に上官がかけた労いの語でした。日露戦争のあと、軍から戻った社員が、社内で自然に使い始めた。大正の終わりには、我が社の退勤時の定型になっていた」

「私は『お疲れ様』の流通に、直接の発案者ではないが、黙認した側にいる。『これは軍の語だから、会社で使うな』と止めもしなかった。止めなかったのは、止めるほどの理由を、当時の私が持たなかったからです。戦後、その語が昭和の会社員の退勤の合図として、全国で使われるのを見て、止めなかった責任の軽い欠片を、遠くから眺める気分になった。眺めて、そのまま、死にました」

「発明に関わった人間として、発明であることは知っておりました。知っておりましたが、『これは発明だ』と部下には教えなかった。教えたら、発明が発明として意識されて、定着が遅れる。静かに流通させるほうが、早く定着する。それが明治の発明の作法でした。作法を守ったことで、発明は自然に見えるものになり、自然に見えるようになった時点で、発明としての痕跡は消えていった」

日本語世代と台湾——私の時代の延長線上

「ワタナベ君。君が1995年に新竹の茶屋で会ったという老人たちの話を、夢の向こうから、森川君を介して、聞いております。その日本語世代が学校で日本語を習ったのは、私の世代が設計した教育制度の、延長線上にあります」

「台湾総督府が日本語を『国語』として普及させた政策は、明治二十九年の国語伝習所から始まり、昭和二十年まで、おおむね半世紀続いた。設計の骨格は、内地の学校制度の骨格と、ほぼ同じでした。修身・国語・歴史・算術の並び、朝の斉唱、制服、運動会、修学旅行。内地で作ったものを、外地に移植した」

「私自身は、台湾統治の現場にはおりません。総督府の官吏ではなかった。しかし、明治の終わりから大正にかけて、文部省と内務省と台湾総督府の合同懇談会に、商社代表として三度ほど出席しております。懇談の場で、『この方針を外地にも適用する』という議論が、当たり前のように進んだ。外地、という語は、内地を前提にした語で、君が台湾で老人から聞いた『内地の方ですか』の『内地』は、その懇談の場で流通していた語彙の、七十年後の残響です」

「懇談で決まった方針が、そのまま新竹の公学校の教室に届き、その教室で日本語を習った子供が、五十年経って、白いシャツの老人になり、君の前で日本語を話した。線は、つながっています。つながっているのを、私は死者の側から、上流のほうを見ている。君は下流のほうを、1995年に見た。上流と下流の間に、五十年の戦争の結末と、五十年の沈黙がありました」

「君が、あの老人の『日本人は、私たちのことを覚えていてくれていますか』という問いに答えられなかったのは、私の時代の設計の、結果の一つの現れでした。設計した側と、設計された側。設計された側の、その孫。孫の君が、1995年に、もう一人の孫を見に行った。見に行ったが、見えなかった」

「見えなかったのは、君の若さのせいでもあり、設計が巧妙だったせいでもあります。巧妙に設計されたものは、設計の痕跡を消す。消されたものは、見ようと思っても見えない。消された痕跡を、こうして夢で伝えるのが、設計した側の末裔としての、遅い仕事だと、私は捉えている。遅すぎる仕事を、遅いまま、手渡します」

父が腰に差していた脇差

「最後に、父の脇差の話をします。父は明治二十七年、日清戦争の始まる年に、ついに脇差を売った。家の経済のためでした。売った金で、私の高等商業の学費の一部と、弟の中学の学費を払った」

「父は売った後、脇差を差していた腰の位置に、長い間、手を当てる癖が残った。奥の間で袴をつけて座ると、無意識に、右手が左腰のあたりへ行く。行って、すぐ下ろす。下ろした手の行き場を、父は見つけられなかった。下ろした手は、膝の上に置かれることもあれば、袴の脇に垂れることもあった。どちらも、落ち着きがなかった」

「私は十九でしたから、見ていて、指摘するべきかどうか迷った。指摘しなかった。指摘すれば、父の癖は止むかもしれないが、止めた癖の空白を、父が何で埋めるのかが、予想できなかった。埋めるもののない空白のほうが、父にとって危なかろうと、私は判断した。判断は正しかったかどうか、今でも分からない」

「父は明治三十三年に六十三で死にました。死ぬ前の晩、布団の中で、左手で自分の右腰のあたりを、一度だけ触った。触って、何も言わず、寝息に戻った。私はそれを、枕元で見た。見たことを、誰にも言わなかった。妻にも、弟にも、子供たちにも。今、七十年近く経って、ワタナベ君の夢の中で、初めて言っている」

「父の手の行き場のなさが、明治という時代の、もう一つの顔です。新しい制度は次々にできた。できた制度の隙間に、失われた何かの手の行き場が、取り残されていた。取り残されたものを、制度は拾わない。拾えば、制度の輪郭が崩れるからです」

「『伝統』という語を使うとき、私たちが本当に呼んでいるのは、この取り残された手の行き場のことでもある。発明された制度と、失われた身体の、両方を含んで『伝統』と呼ぶ。呼ぶことで、失われた身体のほうも、作り物の制度に吸収される。私の父の手は、吸収された側にあります。吸収されたから、父の死後、家には、脇差も、脇差の形の空白も、残らなかった」

田口の結——三代で何があったか

「私が夢で君に残したいのは、一つの感触だけです。『日本の伝統』という言葉を聞いたときに、その言葉が発明された世代の、手の行き場まで、一緒に思い起こしてほしい」

「父の腰、祖父の髷、母の苗字、祖母の『ずっとでした』という返答、西郷軍と政府軍の兵士が訛りで確認し合った場面、教室で斉唱した『陛下』と家で呼んだ『殿様』のずれ、売られた刀が米味噌に換算された一年半。これらを抱えたまま、その語を使ってほしい。使わなくてもよろしい。使うなら、抱えてから使ってほしい。抱えずに使うと、語は空回りし、空回りのまま、次の世代の耳に届きます」

「田島君は、明治以降に作られた『伝統』のカタログを話した。森川君は、その作られ方の内側を話した。内側には、大正デモクラシーと昭和初期の軍事化と、北支の現場と、敗戦後の看板書き換えが、含まれていた。私は、作られる前に失われたものの話をした。作られる前の層には、換算表のなかった喪失と、『ずっとでした』と答えた祖母たちと、田原坂で訛りを確認し合った兵士たちが、並んでいる」

「三代で、外側、内側、手前と、順に話しました。外側は、田島君の担当。内側は、森川君の担当。手前は、私の担当です。三つを並べると、明治から昭和までの『日本人』という発明の、三層の地層図ができる。地層図は、君が書き継ぐかどうかで、意味が決まる」

「君は、この三つを受け取って、これから先どう書くかを、自分で決める。決めるのは、君の時代の仕事です。私たちの時代の仕事は、ここで終わります」

田口さんはそこまで話して、一度、軽く息を吐いた。息を吐いたあと、田島部長と森川さんのほうを、小さく振り返った。二人は頷いた。田口さんはもう一度ワタナベに向き直り、「以上です」と言った。言って、立ったまま、会釈をして、目を閉じた。三人の姿が、順に薄くなっていった。

ワタナベ、目覚めて

目が覚めた。枕元のメモに、これまでで一番長い文字数を書いていた。書いた字は、後半になるほど震えていた。夢の中で泣いていたのかは、分からない。枕の右側が、少しだけ冷たかった。

田口さんが語った話のうち、文献で確かめられる部分は、明治三年の平民苗字許可令と明治八年の平民苗字必称義務令、明治五年の学制、明治十年の西南戦争、日清・日露・徴兵制・国民国家化の事実関係、大相撲の国技化の時期、商社の社員研修制度の起源、洋装の企業への定着時期、「お疲れ様」の軍隊由来説、明治三十四年の国定教科書制度、台湾総督府の国語教育政策——これらの外枠だけで、田口さん個人の家族史、つまり下総の小藩の下級武士の次男として生まれたこと、父が脇差を日清戦争の年に売ったこと、祖父の「わしは、いつ、武士だった」という問いと祖母の「ずっとでした」という答え、母の旧姓「松井」が近所の古井戸の名から来たこと、西郷軍の兵士と訛りで確認し合った父の商売仲間の挿話、これらはすべて、私の夢の補綴である。文責は私にある。

田口栄介という人物が、明治八年生まれの商社の専務として実在したかどうかは、我が社の古い社史と役員名簿を調べれば、ある程度は分かる。私は調べていない。調べないまま、この記録を残す。社史で照合するのは、私より後の誰かの作業で足りる。照合して、実在していなかったとしても、夢に出てきた田口さんの話の一部は、明治という時代の、どこかの誰かの手触りではあっただろうと、思う。

四編、書いた。田島部長、森川さん、田口さん、そして1995年の新竹の茶屋の老人。ここまで書いて、遡り旅は、たぶん、ここで一旦止まる。田口さんは明治八年生まれで、その父は幕末、天保から安政のあたりの生まれだった。父の世代は、もう夢に連れてこられない。連れてくるはずの田口さんが、父の代の記憶を、自分の中にしか持たないからだ。父の代は、自分の中で話さなかった人たちだった。話さなかった人たちは、夢にも出てこない。出てこないものを、無理に出そうとすれば、それは私の創作になる。創作と夢の記録は、別である。別であることを守るために、ここで一旦止める。

書くべきことは、まだあるのかもしれない。ないのかもしれない。出てきたら、また書く。出てこなかったら、出てこなかったことを、こうして一行だけ、最後に書いておく。

父の腰に、手の行き場がなかった、という田口さんの話が、目覚めてから三十分ほど、私の右腰のあたりに残っていた。私の父は明治末の生まれで、脇差は差していない。差していないのに、右腰のあたりが、少しだけ、空いた。空いたまま、朝食の支度をした。支度をして、味噌汁を作り、それを啜った。啜って、メモを閉じた。

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