十月の木曜、夜八時すぎ。駅から少し歩いた喫茶店の、奥の二人席。経済学者のミズノハルキと、大学の後輩のソノダマリ。ミズノは出張の帰りに新幹線を一本遅らせて、ソノダを呼び出した。用件は「愚痴を聞いてほしい」。
土曜の朝、ミズノは学会に出かける。自分の発表はない。他人の論文について十分間話すために行く。
テーブルにブレンドとミルクティー。ミズノはノートパソコンを開いたまま、閉じない。
ミズノ聞いてくれる?
ソノダそのために来ました
ミズノ今週末、学会で討論者をやるんだけど
ソノダ討論者
ミズノ経済の学会はね、発表のあとに、もう一人立つんですよ。発表者でも司会でもない人が。事前に論文を読み込んできて、十分間、その論文について話す。どこが良くて、どこが弱くて、どう直せばもっと良くなるか
ソノダ質疑応答とは違うんですか
ミズノ違う。質疑は、その場で思いついたことを言う。討論は、二週間前に論文を受け取って、読んで、スライドを作って、言う。準備してくる批判なんですよ。専任の、最初の読者
ソノダへえ。で、愚痴は
ミズノ交通費が出ない
ソノダ……
ミズノ宿泊費も出ない。参加費も自分で払う。会員だから、年会費もとっくに払ってる
ソノダ頼まれたのに?
ミズノ頼まれたのに
ソノダ頼まれて、行って、読んで、話して、お金を払う
ミズノ並べると、ひどいでしょう
ソノダひどいですね。代理店にいたころ、セミナーの登壇をお願いするときは、謝礼と、往復の新幹線と、ホテルと、控室のお弁当まで、こっちで手配しましたよ。お弁当は二種類用意して、選んでもらう
ミズノ二種類
ソノダ食べられないものがあるかもしれないので
ミズノ僕は懇親会費を払って、お弁当じゃないものを食べる
ソノダ懇親会も自腹
ミズノ自腹。行かなくてもいいんだけど、行かないと、討論した相手とちゃんと話す機会がなくなる
ソノダ、ミルクティーを一口飲む。
ソノダそのメール、見せてもらっていいですか
ミズノ依頼のメール? いいけど。なんで
ソノダ職業病です
ミズノ、ノートパソコンをソノダのほうへ回す。ソノダ、画面を上から下まで、ゆっくり読む。
ソノダ「ご多忙のところ誠に恐縮ですが」
ミズノうん
ソノダ「先生のご専門の立場から、ぜひ貴重なコメントを賜りたく」
ミズノうん
ソノダ「討論者をお引き受けいただけますと幸いです」
ミズノ幸いです
ソノダ幸いです。……ミズノさん
ミズノなに
ソノダこれ、どこにも「招待」って書いてないですよ
ミズノ……
ソノダ「お引き受け」です。依頼。プログラムのほうはどうなってます?
ミズノ、画面を自分のほうに戻して、しばらくスクロールする。
ミズノ……「招待講演」は、別の枠にある。初日の午後の、基調の人。あっちは、たぶん出てる。交通費
ソノダ討論者の欄は
ミズノ「討論者」。それだけ
間。
ソノダ招待されたって言ったの、ミズノさんのほうですね
ミズノ言ったっけ
ソノダ電話で。「学会に招待されちゃってさ」って
ミズノ……言ったな
ソノダそれ、ポエムですよ
ミズノ僕のポエム?
ソノダ「招待」は、呼んだ側が払う言葉です。相手をお客さんにする言葉。このメールは、最初から一度もミズノさんをお客さんにしていない。丁寧だけど、正直なメールですよ。お客さんにしたのは、ミズノさんのほう
ミズノ自分で自分を招待して、自分で請求書を受け取ってた
ソノダそういうことになります
ミズノそれはそれで、ひどい話だな
依頼のメールは、一度も「招待」と書かなかった。
指名されたうれしさが、その一語を勝手に足していた。
ミズノでもね、言葉を直しても、お金は直らない
ソノダいくらかかるんですか
ミズノ新幹線が往復で、ホテルが二泊、参加費、懇親会。……ホテルがね、去年の倍なんですよ。学会の週末に、向こうで大きな催しが重なってて、観光の人で埋まってる。駅から四十分のビジネスホテルが、去年の駅前の値段
ソノダ円安ですね
ミズノ円安なんですよ。経済学者が円安で困ってるの、自分でもちょっと面白いと思う
ソノダ合計で
ミズノ六万ちょっと
ソノダ研究費からは
ミズノ出せる。出せるから、僕は行ける。問題はそこなんですよね
ソノダそこ
ミズノ研究費がある人の「自腹」は、正確には自分の財布じゃない。研究費の財布。だから、まだいい。でも、非常勤で教えてる若い人とか、任期が切れて次を探してる人とか、研究費の無い人は、本当に自分の財布から出すことになる
ソノダ断るしかない
ミズノ断るしかない。で、断ると、次から声がかかりにくくなる。討論者って、その分野の人の目に一番とまる役なんですよ。十分間、関係者が全員見てる前で、他人の論文を読み解く。うまくやると「あの人は読める人だ」って覚えてもらえる。それが、就職にも効く
ソノダつまり、一番必要な人が、一番行けない
ミズノ経済学っぽく言うと、逆進的、です。お金のある人ほど、名誉を安く買える
ソノダ名誉を買ってるんですか、ミズノさんは
ミズノ……六万で
ソノダ高いのか、安いのか
ミズノ時間も入れたら、もっと高い。論文を三回読んだんですよ。一回目は普通に。二回目は付録まで。三回目は、データの作り方を自分で再現しようとして、週末が消えた
ソノダ再現まで
ミズノ気になる所があって。……時給に直したら、僕は今月、マイナスで働いてる
ソノダ、笑わない。
ソノダ学会のほうは、それで回ってるんですね
ミズノ回ってる
ソノダミズノさんみたいな人の、時給マイナスで
ミズノうん
ソノダ制度が、善意にただ乗りしてる
ミズノそれは、そう。否定しない。学会の財布が苦しいのは知ってる。でも、その苦しさを、一番まじめに読む人に回してる。それはおかしい。おかしいと、思ってる
ソノダじゃあ、断ればよかったのに
ミズノ……
ソノダなんで受けたんですか
ミズノ、コーヒーカップを持ち上げて、飲まずに置く。
ミズノ院生のとき、初めて学会で発表したんですよ
ソノダはい
ミズノ博士の二年目。ひどい論文だった。自分ではいいと思ってたけど、いま読むとひどい。それに討論者がついた。会ったこともない、よその大学の先生
ソノダはい
ミズノその人が、僕の論文を、僕より読んでた
ソノダ……
ミズノスライドの一枚目が僕の論文の要約だったんだけど、僕が書いたのより、うまかった。ああ、この論文はこういうことが言いたかったのか、って、書いた僕がそこで知った
ソノダ書いた本人が
ミズノ書いた本人が。二枚目からは弱点。推定の穴、データの偏り、きっちり三つ。会場が静かになって、僕はもう終わったと思った。そしたら最後の一枚で、その人がこう言ったんですよ。「この論文で一番おもしろいのは、著者が三節の脚注に書いて、そのまま放ってあることです」
ソノダ脚注
ミズノ脚注。ついでに書いた一文。ちょっと変な結果が出たけど本筋と関係ないので省略します、っていう
ソノダそれが
ミズノそれが、僕の就職のときの論文になった。脚注を本文にして、本文を捨てた
ソノダ……
ミズノその人とは、そのあと二回くらいしか会ってない。お礼も、ちゃんとは言えてない。……で、今回、依頼のメールを読んでて、急に思ったんですよ。あの人も、自腹で来てたんだなって
ソノダ十五年越しに
ミズノ十五年越しに。あのときは考えもしなかった。偉い先生が来て、僕の論文を読んでくれた。それで終わり。新幹線代のことなんか、一秒も考えなかった
ソノダ受け取る側は、考えないですよね
ミズノ考えない。考えないで済むように、あの人は黙って払ってた
会ったこともない人が、自分の財布で来て、僕の脚注を見つけた。
そのことに気づいたのは、自分が払う側に回ってからだった。
ソノダ恩返しですか
ミズノ恩返しなら、あの人に返すべきなんですよ。でも、返す手段がない。だから、知らない院生に返す。……返してるつもりで、六万払ってる
ソノダ筋が悪い、って、ミズノさんなら言いそう
ミズノ言う。経済学者としては言う。払った人に返ってこない取引は、続かないはずなんですよ。なのに、続いてる
ソノダなんで続いてるんですか
ミズノそれを、確かめに行ってくる
ソノダ、伝票を自分のほうへ引き寄せる。ミズノ、手を伸ばしかけて、やめる。
ソノダここは、私が払います
ミズノいや
ソノダ討論者の前夜祭です。自腹じゃなくて、こっち持ち
ミズノ……招待だ
ソノダ招待です。今度のは、本物
三週間後。同じ店の、同じ奥の二人席。今度はソノダが先に来ていた。
ソノダおかえりなさい
ミズノただいま。……ただいまでいいのかな、三週間経ってるけど
ソノダどうでした、十分間
ミズノ十二分になった
ソノダ延びた
ミズノ司会の人に「あと一分」の紙を出されて、そこから三分しゃべった
ソノダ経済学者が時間を守らない
ミズノ時間を守る討論者はいない、っていうのが業界の定説で
ソノダ発表者は
ミズノ博士課程の三年生。すごく緊張してて、僕のスライドが始まった瞬間、ペンを握り直した。……分かるんですよ、あの握り直し。十五年前の僕がやったから
ソノダ脚注は、ありました?
ミズノ……あった
ソノダあった
ミズノ脚注じゃなかったけど。付録の表の、一番下の行。データを二つに分けたら効果の向きが逆になる、っていう結果が、何の説明もなく置いてあった。三回目に読んだとき、そこで止まった。データを再現しようとしたのも、それが本当か確かめたかったから
ソノダ本当だったんですか
ミズノ本当だった。で、最後の一枚に書いた。「この論文で一番おもしろいのは、付録の表の最後の行です」
ソノダ……同じことを言ったんですね
ミズノ言うつもりはなかったんですよ。スライドを作ってたら、そうなってた。言ってから気づいた。ああ、これ、あの人の台詞だって
ソノダ引用ですね
ミズノ無断引用。出典は、僕の記憶の中にしかない
店員が水を足していく。
ソノダそれで、発表者からは
ミズノ次の日、メールが来た
ソノダお礼の
ミズノお礼の。「丁寧なコメントをありがとうございました。大変勉強になりました」
ソノダ定型ですね。「大変勉強になりました」は、たいてい、まだ何も始めていない人の言葉です
ミズノそこまでは定型。そのあとに、一行あった。「三つ目のご指摘は、まだどう直せばいいか分かりません」
ソノダ……
ミズノ一番うれしかったの、そこなんですよ
ソノダ分からない、が
ミズノ分からない、が。お礼はいくらでも書ける。でも「分かりません」は、ちゃんと読んで、ちゃんと考えて、まだ途中にいる人しか書けない。あの十二分が、向こうの頭の中でまだ続いてる。……僕の十二分は、まだ終わってないってことなんです
ソノダ六万円の
ミズノ六万三千円の
ソノダ細かい
ミズノ領収書を整理したので
「ありがとうございました」は誰にでも書ける。
「まだ分かりません」は、読んだ人にしか書けない。
ソノダそれで、確かめられたんですか。払った人に返ってこない取引が、なんで続くのか
ミズノ経済学に、世代重複モデルっていうのがあるんですよ
ソノダはい
ミズノ若い世代と年を取った世代が、重なって生きてる社会のモデル。若い人が年寄りを支えて、自分が年を取ったら、次の若い人に支えてもらう。年金の賦課方式は、だいたいこの形
ソノダ年金
ミズノ討論も、たぶんこれなんですよね。向きは逆だけど。上の世代が、下の世代の論文を読む。読まれた下の世代が、上に上がったら、その次の論文を読む。誰も、払った相手からは返してもらわない。次から次へ、払う人が入ってくる限り、回る
ソノダじゃあミズノさんは、いま保険料を払ってる
ミズノ払ってる。で、受け取ったのは、十五年前
ソノダ先に、受け取ってた
ミズノ先に受け取ってた。……だから、文句を言う資格があるのかって言われると、ちょっと困る
ソノダでも、年金にも文句は言いますよね、みんな
ミズノ言う。言っていいと思う。仕組みが大事なことと、仕組みの財布の出し方がおかしいことは、両方とも本当なんですよ。あの院生がいつか討論者を頼まれたとき、研究費の無い身分だったら、たぶん断る。断ったら、この輪から一人抜ける。抜けるのは、だいたい一番お金の無い人から
ソノダ輪が、細っていく
ミズノ細っていく。だから学会には、討論者の交通費くらい出してくれ、と言い続ける。言い続けながら、来年も受ける
ソノダ受けるんですか
ミズノもう来てる
ミズノ、スマートフォンを出して、画面をソノダに向ける。
ソノダ「ご多忙のところ誠に恐縮ですが」
ミズノうん
ソノダ「討論者をお引き受けいただけますと幸いです」
ミズノ幸いです
ソノダ返信は
ミズノもうした。「お引き受けします」
ソノダ早い
ミズノ早かった。自分でも驚いた。交通費のことを書いた文面を三回書いて、三回消して、「お引き受けします」だけ送った
ソノダ今回も、「招待」とは書いてないですね
ミズノ書いてない。今回は、僕も足さなかった
ソノダじゃあ、何て呼ぶんですか、これ
ミズノ……順番、かな
ソノダ順番
ミズノ回ってきたから、回す。それだけ。理不尽なのも変わらない。来年の領収書の束も、もう見えてる
ソノダ見えてて、受けた
ミズノ見えてて、受けた
ミズノ、伝票を取る。ソノダ、手を伸ばしかけて、やめる。
ミズノここは、僕が
ソノダ自腹ですか
ミズノ自腹です
ソノダ文句は
ミズノこれには、ない
店を出ると、もう十一月の風になっている。二人、駅のほうへ歩いていく。
← 関連:ポエマイゼーションに希望を見る(ミズノハルキ)
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← 関連:「幸いです」のゆるやかな強制力(ソノダマリ)
← 関連:葉桜のあとで(会話劇)
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