ポエマイゼーションに希望を見る
——90本の壮大な失敗についての覚書

ミズノハルキ(ポエマイゼーション:ソノダマリ)

ソノダマリから連絡があった。「90本全部読んで、何か書いてほしい」。大学時代の後輩が、マンションの広告コピーから出発して、退職メール、弔辞、ペットフード、天気予報まで——ありとあらゆるものの「ポエム性」を分析するプロジェクトを、いつの間にか90本まで積み上げていた。全部読んだ。3日かかった。

読み終えて、最初に浮かんだ感想を正直に書く。

これは壮大な失敗の記録である

ポエマイゼーション90本は、壮大な失敗の記録である。

いきなり挑発的なことを言うんですけど、聞いてほしい。ソノダマリは51本のエッセイと理論的総括で「ポエムは嘘だ、気をつけろ」と主張した。スタッフたちも36本のエッセイで、それぞれの分野のポエムを暴いた。弔辞のポエム、ラーメンのポエム、占いのポエム、ペットフードのポエム。90本かけて「ポエムは嘘だ」と言い続けた。

で、どうなったか。

ポエムは消えましたか。消えてないですよね。むしろ90本書いている間に、分析対象が増え続けた。マンションから始まって、大学広告、結婚式場、求人、政治、墓地、高校パンフ、SaaS、科研費、健康食品、保険、育児用品、ビジネスメール、授業評価、学会発表、マッチングアプリ、ラーメン、ChatGPT、占い、退職メール、校歌、ワイン、就活ES、Amazonレビュー、謝罪会見、コンビニスイーツ、年賀状、取扱説明書、電車アナウンス、昭和レトロ、ペットフード、クラウドファンディング、弔辞、映画予告編、卒業式、美容院、天気予報、結婚式招待状、論文タイトル、スポーツ実況。

40以上の分野でポエムが見つかった。探せば探すほど見つかる。どこを掘っても出てくる。温泉を掘るつもりで掘ったら石油が出た、みたいな事態なんですよね。

経済学者として言わせてもらうと、これは典型的な「仮説の反証による知見の拡張」です。ソノダは「ポエムは特定の広告領域に限定された現象である」という暗黙の仮説から出発した。90本かけて、自分でそれを反証してしまった。見事な失敗。しかし、科学において最も生産的なのは、自分の仮説を自分で反証してしまうことじゃないですか。

鎮痛剤の存在を告発しても、痛みは消えない

ポエマイゼーションを「嘘の技術だ」と告発するのは簡単なんですよ。

「上質がそびえる」は嘘だ。何もそびえていない。「一人ひとりが輝く」も嘘だ。定員割れを隠している。「DXを加速する」も嘘だ。何も加速しない。「画期的な成果が期待される」も嘘だ。まだ何もわからない。全部、ソノダが90本かけて暴いたとおり。正しい。

でもこれ、「鎮痛剤は痛みを隠している」と言っているのと同じなんですよね。

正しいです。鎮痛剤は痛みを隠す。ポエムは事実を隠す。しかし問題設定がずれている。問うべきは鎮痛剤の存在ではなく、痛みの存在だ。なぜ鎮痛剤が必要なのか。なぜポエムが必要なのか。

答えは単純で、人間は事実に耐えられないときがあるからだ。

弔辞がなければ、死に耐えられない。
退職メールがなければ、別れに耐えられない。
年賀状がなければ、関係の希薄化に耐えられない。
校歌がなければ、帰属の不確かさに耐えられない。
就活ESがなければ、自分の凡庸さに耐えられない。
謝罪会見がなければ、責任の重さに耐えられない。

タカハシセイイチが弔辞のエッセイで書いた一文が忘れられない。「変装は救いのために」。弔辞における変装——故人の欠点を長所に言い換える操作——は、嘘だ。しかしそれは遺族のために存在する嘘であり、その嘘がなければ葬儀という儀式は成立しない。

キリシマミサキが退職メールのエッセイで分析した「一身上の都合により」。あれも変装だ。本当の理由——上司と合わなかった、給料が低かった、居場所がなかった——を「一身上の都合」で包む。嘘か? 嘘です。でもあれがなかったら、退職という行為はもっと残酷なものになるじゃないですか。

経済学には「取引コスト」という概念がある。すべての取引には摩擦がある。ポエムは社会的取引コストの潤滑剤なんですよね。「嘘だ」と批判するのは自由だが、潤滑剤を抜いたエンジンがどうなるかは、キリシマがポエムフリー宣言で実験済みだ。1週間メールからポエムを消してみたら、職場が凍った。あれは見事な自然実験でした。

ソノダマリの美しい自己矛盾

ここから本題に入るんですけど、90本の真の功績は何か。

ポエムの「嘘」を暴いたことじゃないんですよ。ポエムの「必要性」を証明したことなんです。

ソノダは気づいていないかもしれない。たぶん気づいていない。51本かけて「ポエムは不要だ、具体性を要求しろ、ポエムとデータを区別しろ」と言い続けて、結果的に「ポエムは不要だ」の反証データベースを自分で構築してしまった

考えてみてほしい。もしポエムが本当に不要なら、なぜ40以上の分野に遍在しているのか。なぜ日本だけでなく台湾、韓国、中国、アメリカ、ドバイ、香港、シンガポール、ロンドン、パリにもあるのか。なぜマンション広告の世界だけでなく、弔辞にも、校歌にも、年賀状にも、天気予報にもあるのか。

経済学には「顕示選好」という概念がある。人が実際に何を選んでいるかが、言葉で何を言っているかより信頼できる、という考え方だ。人類は数千年にわたって、あらゆる場面でポエムを選んできた。その顕示選好を無視して「ポエムは嘘だから不要」と言うのは、「人間は非合理的だから合理的になるべきだ」と言う古典的経済学と同じ過ちなんですよね。

行動経済学はそこを乗り越えた。人間は非合理的だが、その非合理性にはパターンがあり、そのパターンには機能がある、と。ソノダの90本は、まさにそれを証明している。ポエムは非合理的だが、その非合理性にはパターンがあり(6つの操作)、そのパターンには機能がある(社会的取引コストの低減)

「ポエムは不要だ」と51本かけて主張した人が、
90本のデータで「ポエムは必要だ」を証明してしまう。
これは知的に美しい自己矛盾だ。

ゲーデルの不完全性定理を思い出す。十分に強力な体系は、自分自身の無矛盾性を証明できない。ソノダのポエマイゼーション論は、ポエムの不要性を証明するのに十分に強力な分析枠組みを作ったがゆえに、ポエムの必要性を証明するデータまで生成してしまった。システムが自分自身を反証する。美しいですよね。

全人類がポエムを必要としている——これは絶望ではなく証明

で、ここからが本当に面白いところなんですよ。

90本の中で最も希望的なのは、ソノダの51本ではなく、スタッフたちの36本のエッセイだ。

ハヤシアヤカは科研費の申請書にポエムを見た。イシカワケンタロウは健康食品の広告にポエムを見た。ササキハルカは観光パンフレットにポエムを見た。タカハシセイイチは保険の広告にポエムを見て、弔辞にポエムを見て、ラーメン屋にまでポエムを見た。マツモトヒナは育児用品にポエムを見て、コンビニスイーツにポエムを見て、ペットフードにまでポエムを見た。シライショウタはAIにポエムを見て、ChatGPTにポエムを見て、映画予告編にポエムを見た。

全員が、自分の専門分野で、「ここにもポエムがあった」と叫んでいる

これはポエマイゼーションの「限界効用逓減」が起きていないということなんですよね。普通、同じフレームワークを繰り返し適用すると、新しい発見は減っていく。10回目より20回目のほうが発見が少ない。ところがポエマイゼーションは、適用するたびに新しい発見が出てくる。ラーメンのポエムはマンションのポエムとは違う質感がある。ペットフードのポエムはラーメンのポエムとは違うメカニズムで動いている。ポエムの多様性は、人間の営みの多様性と同じだけある。限界効用が逓減しない理論——経済学者としてはちょっと羨ましいです。

そしてここに希望がある。

ポエマイゼーションが普遍的であるということは、全人類がポエムを必要としているということだ。科研費を書く研究者も、ラーメンを売るおやじも、弔辞を読む遺族も、年賀状を書くおばさんも、就活ESを書く大学生も、退職メールを書くサラリーマンも。

「全人類がポエムを必要としている」。これを絶望だと受け取る人もいるかもしれない。「結局、人間は嘘なしでは生きられないのか」と。

逆です。

全人類がポエムを必要としているのは、
全人類が「事実に耐えられない瞬間」を持っているからで、
それは全人類が感受性を持っている証拠だ。
つまりこれは人間の証明であり、絶望ではなく希望だ。

ロボットはポエムを必要としない。事実をそのまま処理できるからだ。「人が死んだ」という事実に対して弔辞を必要としないし、「退職する」という事実に対して「一身上の都合により」を必要としない。人間だけが、事実の前で立ちすくみ、その事実を受け止めるための緩衝材——ポエム——を発明する。

シライショウタがAIポエムのエッセイで問うた「AIはポエムを殺すか」。僕の答えは明確で、殺さない。AIがどれだけ進歩しても、人間がポエムを必要とする限り、ポエムは存在する。需要がある限り供給は消えない。これは経済学の鉄則です。

ナッシュ均衡としてのポエム——騙す側と騙される側の共犯関係

もう一つ、経済学者として指摘しておきたいことがある。

ソノダの分析は基本的に「騙す側と騙される側」の二項対立で構成されている。コピーライターが書く。消費者が騙される。だから「気をつけろ」「具体性を要求しろ」。

しかし90本を通読すると、もっと複雑な構図が見えてくる。騙される側は、実は騙されたがっている場合が多いのだ。

カワセトモコが卒業式答辞のエッセイで描いた世界。答辞を読む生徒は、「3年間は辛いことのほうが多かった」という事実を、「3年間の思い出は宝物です」に変装する。聞いている保護者は、その変装を知っている。知った上で泣く。全員が嘘だと知った上で、全員がその嘘を必要としている

これはゲーム理論で言うナッシュ均衡なんですよ。ポエムを書く側と読む側が、互いにポエムを維持する戦略を選んでいる。どちらか一方が「事実を言おう」と逸脱すると、損をする。卒業式で「正直に言うと、3年間は退屈でした」と言った生徒は、場を壊して損をする。「本当のことを書いてください」と求めた保護者も、感動の機会を失って損をする。だから全員がポエムを維持する。均衡点にいる。

キリシマのポエムフリー宣言は、この均衡からの逸脱実験だった。1週間、メールからポエムを消した。結果は予測どおり——職場が凍った。均衡から逸脱したペナルティを受けた。経済学の教科書みたいに美しい実験結果なんですよね。

ソノダのマッチングアプリのエッセイも示唆的だ。プロフィールに「趣味はカフェ巡り」と書く。嘘ではないが、年に2回しか行かない。書く側も読む側も、「カフェ巡り」がポエムであることを薄々知っている。知った上で、マッチングする。これもナッシュ均衡。

つまりポエマイゼーションは「騙しの技術」ではなく、「共犯の技術」なんです。騙す側と騙される側がいるのではなく、全員が共犯者。全員がポエムの生産者であり消費者。これは市場で言えば完全競争に近い。誰もが売り手であり買い手。

ソノダがまだ気づいていないこと

最後に、ちょっと意地悪なことを言わせてほしい。先輩の特権で。

ソノダマリはリポエマイゼーションという概念に到達した。「嘘のないポエム」。事実に基づいていて、固有で、かつ魅力的な言葉。「上質がそびえる」ではなく「14階のバルコニーから名古屋城が見える朝がある」。素晴らしい概念だ。

しかしソノダ、あなたはまだ気づいていない。

あなたの90本のエッセイそのものが、ポエマイゼーションの実践だということに。

考えてみてほしい。「マンション広告のキャッチコピーを言語学的に分析する」という事実を、「マンションポエムの世界」というタイトルに変換した。これは変装じゃないですか。学術論文なら「不動産広告における修辞技法の類型化と国際比較」だ。それを「マンションポエムの世界」にしたのは、ポエマイゼーションの「変装」操作そのものです。

「ソノダマリ」というペンネームも増幅操作に近い。研究者が本名で書くより、キャラクター名で書いたほうが、読者との距離が縮まる。「補填・翻訳・蒸発」という三原理のネーミングも、学術用語("semantic bleaching", "compensatory elaboration")を日常語に翻訳することで、アクセシビリティを増幅している。

つまりポエマイゼーションを批判するエッセイが、それ自体ポエマイゼーションされている。メタだ。フジワラレンがカスケードポエマイゼーションのエッセイで描いた入れ子構造と同じことが、プロジェクト全体で起きている。

でもこれは批判じゃないんですよ。むしろ最高の褒め言葉です。なぜなら、ソノダのエッセイはリポエマイゼーションの実践でもあるからだ。「14階のバルコニーから名古屋城が見える朝がある」と同じように、事実に基づいていて(実際に広告を分析している)、固有で(他の誰にもこの切り口はなかった)、かつ魅力的(だから90本も読んでしまった)。

嘘のないポエム。それが90本のエッセイそのものだった。

まとめ——「上質がそびえる」と書かなければならなかった人間の切実さ

90本を読んで、僕が見つけた希望を書く。

ポエマイゼーションの最大の発見は、「上質がそびえる」が嘘だということではない。

「上質がそびえる」と書かなければならなかった人間の切実さだ。

駅から遠い。築年数が古い。設備が平凡。それでもこのマンションを売らなければならない。家族を養わなければならない。会社の期待に応えなければならない。だから「上質がそびえる」と書く。嘘だ。しかしその嘘の背後には、切実な人間がいる。

「一人ひとりが輝く」と書いた高校の先生。定員割れが3年続いている。来年は統廃合の議論が始まるかもしれない。それでも目の前の生徒のために、パンフレットを作らなければならない。「一人ひとりが輝く」。嘘だ。しかしその嘘を書く先生の手は、たぶん震えている。

「画期的な成果が期待される」と書いた研究者。まだ何もわかっていない。しかし科研費が取れなければ研究が続けられない。大学院生に給料が払えない。だからポエムを書く。嘘だ。しかしその嘘は、学問を続けたいという祈りだ。

ポエムは嘘だ。ソノダの90本が証明した通り。しかし嘘には理由がある。その理由のほとんどは、何かを続けたい、何かを守りたい、何かに耐えたい、という人間の切実さだ。

ソノダマリは「ポエムを愛でながら、騙されない」と書いた。素晴らしい結論だ。でも僕はもう一歩進めたい。

ポエムを愛でながら、騙されない。
そして——ポエムを必要としている人間を、笑わない。
90本のエッセイは、その「笑わない」の実践だった。

ソノダは90本かけて、一度もポエムを書く人間を馬鹿にしなかった。嘘を指摘しても、書き手を嗤わなかった。それが、このプロジェクトが「告発」ではなく「愛」になった理由だ。

ポエマイゼーションは人間の弱さの証拠ではない。人間が事実に耐えながらも、なお言葉を紡ごうとする強さの証拠だ。全人類がポエムを必要としている。それは絶望ではなく、人間が人間であることの、最も確かな証明なんですよね。

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参考文献
このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。経済学の概念(ナッシュ均衡、顕示選好、限界効用逓減等)は比喩的な使用であり、厳密な学術的定義とは異なります。