名刺のない人生
——ワタナベさんの静かな日記

ワタナベ

ソノダさんに会ったあと、しばらく考えた。38年分のポエムを脱いだのだから、何か書いてみてもいいかもしれない。ポエムではないもの。肩書きのないもの。ただの日記。

六時に目が覚める。

目覚まし時計は捨てた。正確には、電池を抜いた。鳴らなくても起きる。体が覚えている。38年間のリズムが、まだ体の中にある。

でも急ぐ理由がない。

これが最初に気づいたことだ。急ぐ理由がない朝は、朝の形が違う。同じ六時なのに、広い。

散歩

毎朝、歩く。

決まったコースはない。信号に従う。青になった方に曲がる。信号が決めてくれるから、自分で決めなくていい。

このあいだ、知らない路地に入った。猫がいた。目が合った。猫は何も聞かなかった。何をしている人ですかとも、お名前はとも。ただ、こちらを見て、あくびをして、塀の向こうに消えた。

完璧な会話だと思った。

朝食

妻がトーストを焼く。私がコーヒーを淹れる。

30年間、朝食は別々だった。私は駅で立ち食いそば。妻は子どもたちと食卓。いま、同じテーブルにいる。

特に話すことはない。テレビもつけない。パンが焼ける匂い。コーヒーが落ちる音。

妻が言った。「あなた、退職してからパンの焼き加減にうるさくなったわね」

たぶん、味がわかるようになったのだ。急いでいないから。

図書館

週に三回、図書館に行く。

読む本に傾向はない。棚の前に立って、背表紙を眺めて、手が伸びたものを借りる。先週は植物図鑑だった。その前はフランス文学。脈絡がない。

現役のときは、読む本が決まっていた。業界紙。経営書。部下に薦めるためのビジネス書。全部、名刺に書かれた肩書きが選んでいた。営業部長が読むべき本。

いま、営業部長は読まない。私が読む。私が何を読む人間なのか、まだわからない。それでいい。

名前

「何をされている方ですか」

歯医者の待合室で、隣の人に聞かれた。

以前なら名刺を出した。名刺が答えてくれた。ソノダさんの言葉を借りれば、会社が用意してくれたポエム。

「散歩をしています」

と言ってみた。

相手は少し困った顔をした。でも嘘はついていない。今日いちばん長くやったことは散歩だ。

肩書き

部長。課長。主任。係長。

38年間で、いくつの肩書きをもらっただろう。どれも自分で選んだものではない。会社がくれた。名刺に印刷されて届いた。受け取って、配って、また新しいのが届いた。

あれは着ぐるみだったのだと、いま思う。

着ぐるみの中にいると温かい。守られている。でも自分の輪郭がわからない。着ぐるみの形が自分の形だと思っていた。

脱いでみたら、思ったより痩せていた。

昼寝

午後、ソファで眠る。

現役のとき、昼寝は罪だった。会議中に目を閉じたら終わりだ。デスクで寝たら噂になる。

いま、眠い。だから寝る。理由はそれだけだ。

30分ほどで目が覚める。窓から光が入っている。何曜日かわからない。わからなくていい。

ことば

ソノダさんのエッセイをいくつか読んだ。マンションポエム。高校パンフ。SaaS。

面白い。言葉がどうやってポエムに変わるか。ソノダさんはそれを暴いている。若い人だ。言葉をつかまえようとしている。

私は逆だ。言葉を手放そうとしている。

38年間、言葉で武装していた。報告書。提案書。稟議書。メール。全部、言葉で自分を守っていた。正確に書くこと。誤解されないこと。責任を限定すること。言葉は盾だった。

もう守るものがない。だから盾を置いた。

夕方

スーパーに買い物に行く。

妻に頼まれたものを買う。豆腐。ネギ。卵。メモを見ながら歩く。間違えると困るから、メモは正確に書く。

レジで店員さんが言う。「袋、いりますか」

「いりません」

このやりとりが好きだ。短い。明確。ポエムがない。袋がいるか、いらないか。それだけ。

夕食のあと、妻がテレビを見る。私は台所で皿を洗う。

皿を洗うのが好きだとわかったのは、退職してからだ。水の音。泡の感触。汚れが落ちる。きれいになる。結果が目に見える。

38年間の仕事で、結果が目に見えることは少なかった。数字は動くが、自分が動かしたのかどうかわからない。組織という着ぐるみの中で、誰の手が何をしたのか、最後までわからなかった。

皿は違う。私が洗った。きれいになった。

日記

寝る前に、これを書いている。

日記というほどのものではない。メモだ。今日あったこと。感じたこと。短く。

誰に見せるものでもない。報告書ではないから上司はいない。企画書ではないから承認もいらない。提案書ではないから反論もこない。

ただ書く。ただ置く。

ソノダさんへ

ソノダさん。

あの日、喫茶店で言ったこと。「ポエムなしで生きてみる」。あれはその場で思いついたことだったけど、案外、本当にそうなった。

名刺はもうない。肩書きもない。自分を飾る言葉がない。あなたの言葉で言えば、セルフポエマイゼーションのツールがない。

でも、困っていない。

朝起きる。散歩する。妻とパンを食べる。図書館に行く。昼寝をする。買い物をする。皿を洗う。日記を書く。寝る。

それだけの日々だ。名前をつけるほどのことは何もない。

あなたは言葉をつかまえる人だ。あの16歳の男の子もきっとそうなる。言葉の力を知って、言葉で世界を切り取って、言葉で戦って、言葉で誰かを助ける。それは素晴らしいことだ。

私は逆をやっている。言葉を手放している。名前を外している。ポエムの外に出ている。

どちらが正しいということはない。

16歳は言葉を拾う季節。65歳は言葉を置く季節。季節が違うだけだ。

余白

名刺がない。
肩書きがない。
ポエムがない。

朝が来る。
歩く。
食べる。
読む。
眠る。
洗う。
書く。

それだけの一日を、
誰にも説明しなくていい自由。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。登場人物はフィクションです。