お疲れ様、を、英語で(v2)
東のことばのメモ #1・書き直し

東、高校二年、五組。金曜の放課後、校門。カナが先に「お疲れ」と言った。鞄の肩紐を片方だけ肩にかけて、もう片方は腕で抱えるようにしていた。いつものかけ方だった。

「お疲れ」とわたしも返した。

カナは右に、わたしは左に歩き出した。三歩目で、カナがちいさく振り返って、もう一度、何か言いそうな口の形をして、結局言わずに、向き直って歩いていった。何を言いそうだったのかは、わからない。

駅までの道で

駅までは九分。最初の信号で止まったとき、口のなかに「お疲れ」の四音がまだ残っていた。「お」と「つ」と「か」と「れ」。返したばかりの音が、舌の上にうすく残っている、という感じだった。

歩きながら、ふと、英語ではどう返すんだろう、と思った。これまでにも何度か考えたことがあって、毎回、答えが出ないまま終わっていた。

口のなかで「See you」と発音してみた。舌が前歯のうしろに当たって、息が短く出る。「お疲れ」と発音したときの、口のなかの広がり方とは、ぜんぜん違う場所が動く。

ハッケンサックの小学校で、毎日のように言っていた言葉だった。五年いて、たぶん何百回も言った。けれど、いま口のなかで再現してみると、「See you」を発音している舌は、わたしの舌だけれど、わたしの舌の別の部分だった。同じ口に、二つの場所がある。

こぼれるもの

「お疲れ」を「See you」に翻訳すると、何かがこぼれる。何がこぼれるのかは、はっきりしない。

はっきりしないけれど、信号を渡って、二つ目の角を曲がるあたりで、ひとつだけ思い当たった。「お疲れ」と言うとき、わたしはカナがその日の何時間かを使って何かをした、ということを、その四音のなかで、ちらっと、認めている。授業を受けた、お弁当を食べた、廊下を歩いた、笑った。具体的な内容はどうでもよくて、ただ「使った」ということを認めている。

See you」には、それがない。「See you」は、また会う、というそのことだけを言っている。カナがその日に何かを使った、ということは、英語の挨拶のなかには含まれない。それを言いたいなら、別の言葉でもう一度言わないといけない。「You did good today」とか。けれど、別の言葉でもう一度言ったら、それは「お疲れ」ではない。「お疲れ」は、別れの挨拶のなかに「使った」を含めて返す、という、その畳み方そのものだから。

たぶん、こういうことだろうと思う。畳み方を翻訳する言葉は、英語にはない。畳まれているもの自体は、ひとつひとつ取り出せば、英語にもある。

家の玄関で

家に着いたら、父が先に帰っていた。玄関で靴を脱いでいるところで、母が「お帰りなさい、お疲れ様」と続けて言った。父は「ただいま」とだけ返して、リビングに入っていった。

母の「お疲れ様」と、わたしがカナに返した「お疲れ」は、四音の畳み方は同じだけれど、畳まれているものの中身が違う、と思った。母のほうには、父が朝から夜まで会社で過ごしてきた、ということが入っている。わたしのほうには、カナが今日、五組の教室の窓際の席で過ごした、ということが入っている。それぞれ別のものが、同じ四音のなかに、別々に畳まれている。

母の「お疲れ様」を英語にしたら、と一瞬考えて、すぐにやめた。考えなくてよかった。母と父のあいだの「お疲れ様」は、英語にしようがしまいが、毎日この玄関で続いていく。それでいい、と思った。

ハッケンサックの校門

ハッケンサックの最後の登校日のことは、覚えている部分と、覚えていない部分がある。

覚えているのは、校門の前のアスファルトに、夏の終わりの陽がまだ強く当たっていたこと。ジェイコブが片手を挙げて「See you」と言って、すぐに友達のほうに走っていったこと。ハンナは抱きついてきて、何かを言ったけれど、その内容は覚えていない。たぶん「I'll miss you」のたぐいの何か。

あの校門で、誰かに「お疲れ」と言いたい、と思った瞬間が、あったかどうか。たぶん、なかった。「お疲れ」を返してほしい、と思ったかどうかも、わからない。十二歳のわたしは、その四音をまだ取り戻していなかった。日本に帰ってきて、五組の教室の隣にカナが座って、何度か金曜の放課後を繰り返してから、わたしの口のなかに、その四音が戻ってきた。

ハッケンサックの校門には、別の四音があった。「See you」の二音節と、その短い息。あれはあれで、わたしの口のなかに残っている。残っているけれど、いま、五組の教室の窓際から校門までを歩いてきたわたしには、「お疲れ」のほうが先に出る。先に出ることに、理由をつける必要は、たぶんない。

月曜の三限

翻訳できない言葉は、翻訳しないで、そのままで、隣に置いておく。

カナに返した「お疲れ」は、英訳しないままで、わたしの口のなかに残っている。月曜の三限のあと、また廊下で会ったら、たぶんわたしはカナに何か言う。「お疲れ」かもしれないし、別の言葉かもしれない。月曜のカナが今日のカナの続きを使っているなら、四音は、また同じ畳み方で、出てくると思う。

駅に着いた。改札の前で、もう一度、口のなかで「お疲れ」と言ってみた。今度は、舌の上に残らず、そのまま消えた。

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本作は東のシリーズ番外編・短いエッセイの書き直し版(v2)。v1の「5英訳を列挙して却下」「レイヤーの箇条書き」「『機能している、ということが、いちばん大事だった』の決め台詞」を撤去。代わりに、カナに返した「お疲れ」の四音が東の口のなかにどう残ったか、という残響に留まる。ハッケンサック五年は、固有名としてではなく、東の口のなかの「See you」の身体記憶として、薄く立ち上がる。比較ではなく、同じ口のなかに同居するふたつの場所、として。結尾は、月曜の三限の予感だけを置いて、決めない。

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。登場人物・場面はフィクションです。