東、高校二年、五組。金曜の放課後、校門で、隣の席のカナと別れた。「お疲れ」とわたしはカナに言った。「お疲れ」とカナは答えた。それで、ふたりはそれぞれの方向に歩き出した。
歩き出してから、ふっと、頭の中で別の声が立ち上がった。「お疲れ」って、英語でなんて言うんだろう。
これまで何度か考えたことのある問いだった。考えるたびに、答えが出ないまま終わっていた。今日もまた、駅までの九分の道を歩きながら、頭の中で試してみた。
「Good work」。これはビジネスっぽい。上司が部下に言う感じ。同じクラスメイト同士で校門で言うには、固すぎる。
「Take care」。これは近い。近いけれど、「お疲れ」の中の「ねぎらい」の感じが、抜ける。「お疲れ」は、相手が何かをやり終えた、という前提の上で、それを軽く認める言葉だ。「Take care」には、そのねぎらいの感じが、あまり含まれていない。
「Have a good one」。これはカジュアル。アメリカ人がレジで店員にもよく言う。けれど、「学校が終わって、お互いの一日に、ねぎらいを送る」という温度には、合わない。
「Thanks for your hard work」。これは直訳に近いけれど、十七歳の同級生同士の校門で交わすことは、たぶんない。重すぎる。
「Cheers」。イギリス英語ならありえる。けれどこれは、ありがとう、の意味でも使われるし、乾杯でも使われる。「お疲れ」のひとつのレイヤーには触れているが、別のレイヤーには触れない。
書き出しているうちに、気づいた。
「お疲れ」を英語で言おうとすると、どの英語表現も、いくつかのレイヤーのうちのひとつしか拾えない。「お疲れ」は、複数のレイヤーが重なった言葉で、それぞれのレイヤーを、別々の英語表現が、別々に拾う。
たぶん、こういうレイヤーが入っている:
これらが「お疲れ」の四音の中に、薄く折り重なっている。英語にひと言で訳すのは、たぶん無理だった。レイヤーを五つ取り出して、五つの英語表現で並べる、というのなら、できる。けれど、それだと、五つのレイヤーが折り重なっている、ということ自体が、伝わらない。
家に帰ったら、父がちょうど会社から戻ってきた。母が玄関で「お疲れ様」と父に言った。父は「ただいま」と短く答えた。
母の「お疲れ様」と、わたしがカナに言った「お疲れ」は、同じレイヤーの上にあるけれど、温度がぜんぜん違う。母のは、夫婦のあいだの、何年も繰り返してきた挨拶。わたしのは、十七歳の友達同士の、軽い別れ。同じ言葉が、別の場面で、別の温度で、機能している。
母の「お疲れ様」を英語にすると、たぶん「Welcome home」あたりが近いと思う。けれど「Welcome home」は、家に着いた相手への、迎える挨拶で、相手の一日への「ねぎらい」の感じは、薄い。母の「お疲れ様」のなかには、父の一日への、軽い「お疲れだったね」が、たぶん含まれている。「Welcome home」だけだと、その含みが、抜ける。
「Welcome home, you must be tired」と二つ繋げると、ちょっと近づく。けれど、二つ繋げないと出ない、というのは、ひと言にならない、ということだった。
ハッケンサックの小学校の、六年生の最後の日。わたしは日本に戻ることが決まっていて、その日が、最後の登校日だった。校門で、ジェイコブとハンナと、何人かのクラスメイトと別れた。
そのとき、わたしたちは、何を言っていただろうか。
「Bye」「See you」「Take care」「Have a good summer」「Stay in touch」。たぶん、こうした表現を、いくつか組み合わせて言った。「お疲れ」のような、相手のその日への、軽いねぎらいの言葉は、誰も言わなかった。
アメリカの小学校の校門の温度には、「お疲れ」に対応するレイヤーが、もともと組み込まれていない、のかもしれない。校門で別れる、ということは、ハッケンサックでは、別れの瞬間として、そのままシンプルに別れる、ということだった。一日のねぎらいを、別れに混ぜる習慣が、たぶん、薄い。
ない、ということが、欠けている、というわけではない。アメリカの校門には、別の温度があった。日本の校門には、別の温度がある。両方とも、それぞれの温度で、それぞれの別れを、機能させている。
英語にひと言で訳せない言葉は、訳せないままで、置いておく。訳せないことを、欠けている、と感じるのではなく、別の温度の言葉として、隣に、置いておく。
「お疲れ」は、英語にするとレイヤーが切れる。レイヤーごとに別の英語表現に分かれる。けれど、日本語の中では、四音のなかに、複数のレイヤーが、薄く折り重なって、続いている。続いていることは、英語のひと言には、たぶん永遠に入らない。
明日もまた、わたしはカナに「お疲れ」と言う。たぶん、英語に翻訳しない。翻訳しないままで、四音が、明日の校門で、また機能する。
機能している、ということが、たぶん、いちばん大事だった。
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本作は東のシリーズの番外編・短いエッセイ。「お疲れ様」を英語に訳そうとすると、複数のレイヤーが切れて、別々の英語表現に分かれる、という観察。「Good work」「Take care」「Have a good one」「Thanks for your hard work」「Cheers」——どれもひとつのレイヤーしか拾えない。母が父に言う「お疲れ様」と、わたしがカナに言う「お疲れ」も、同じ言葉でレイヤーは同じだが、温度が違う。ハッケンサックの校門の別れには、もともと「お疲れ」のレイヤーが組み込まれていなかった。訳せないものは、訳せないままで、隣に、置いておく。(本作は第一稿。批判ページと第二稿あり。)