日本では
東と、月曜の三限、英語で考えると——東のトロッコ問題シリーズ #1

東、高校二年、五組。小学校の二年から六年までを、アメリカ・ニュージャージー州の、公立小学校で、過ごした。父の仕事の都合だった。中学から日本に戻って、地元の公立中学を経て、いまの高校に、入った。日本での生活は、戻ってから、四年と半分くらい。教室では、ほとんど、誰にも、帰国子女だ、と気づかれない。発音も、振る舞いも、十六歳の、ふつうの、日本の高校生に、ほとんど、見える。ただ、頭の中の、いちばん奥の方では、いまも、ときどき、英語が、先に、立ち上がる。

月曜の三限

月曜の三限は、倫理だった。鈴木先生は、五組では、月曜の三限に、倫理を教える。一組は火曜、二組は水曜、四組は木曜、と聞いた。連続四日、三限の同じ時間に、別のクラスで、同じ単元を、繰り返している、ということだった。

今日の単元は、トロッコ問題。鈴木先生は、プリントを、配って、いつも通りの、平らな声で、状況を、読み上げた。線路、トロッコ、五人、一人、レバー。

わたしは、プリントの上の、英単語の、対応関係を、頭の中で、確認した。

Trolleytrackfive workersone personlever。日本語の「トロッコ」は、英語の trolley よりも、もっと、小さくて、古い、何かの、語感がある。「線路」は track、けれど、track には、走り方、軌跡、という、別の意味も、入っている。「レバー」は、英語のまま、入ってきた、外来語。日本語に、もとからある言葉では、ない。

こうした、語感のずれを、頭の中で、確認しながら、わたしは、プリントを、読んだ。読み終わるのに、少し、時間がかかった。

クラスの反応

「考えてみてください」と、鈴木先生は、言った。

クラスは、ざわついた。

「えー、難しい」と、誰かが、言った。「五人のほう、選ぶしかないでしょ」と、別の声が、答えた。「でも、自分が、レバーを引いた、ってなると、ちょっと」と、また別の声。

「迷う、というのが、たぶん、いちばん、ふつうの、答えだよね」と、隣の席の、女の子が、わたしの方を、ちらっと、見て、言った。

わたしは、軽く、頷いた。頷いた、というのは、賛成、というよりは、聞いた、と、伝えるための、頷きだった。

頭の中では、別の声が、立ち上がっていた。

Would you pull the lever?

英語の、その問い方は、日本語の「レバーを、引きますか」とは、少し、違って、聞こえた。Would you は、仮定法の、丁寧な問い方で、「もしも、あなたが、その場面に、いたら」という、相手の判断を、軽く、招き入れる、響きがあった。日本語の「引きますか」は、もっと、平らで、もっと、距離が、ある。「あなたなら、どうしますか」と、相手の意見を、聞き出している、というよりは、状況を、客観的に、提示している、ような、響き。

同じ問いなのに、語感が、違う。語感が、違うと、答え方も、たぶん、少し、違ってくる。

思い出す

頭の中で、ニュージャージーの、小学校の、五年生の、教室が、立ち上がっていた。担任は、ミセス・ロドリゲス、という、四十代の、ラテン系の、女性だった。教室の壁に、子どもたちの、絵が、たくさん、貼ってあった。

ある日、社会の授業で、似た、問いが、出た。トロッコ問題そのものでは、なかった。けれど、構造は、同じだった。「If you had to choose between saving five people or one person, what would you do?」と、ミセス・ロドリゲスは、黒板に、書いた。

クラスメイトは、すぐに、手を、挙げた。

Five! Of course five!」と、ジェイコブが、言った。彼は、いつも、即答する子だった。

But what if the one person is your mom?」と、ハンナが、聞いた。彼女は、よく、こういう、揺さぶりを、入れた。

Oh, that changes everything,」と、ジェイコブは、笑いながら、答えた。「I can't choose my mom to die for five strangers. That's not fair.

Fair to whom?」と、ハンナは、続けた。

Fair to me, I guess.

ミセス・ロドリゲスは、笑った。「Now we're getting somewhere,」と、彼女は、言った。「The question isn't just about numbers. It's about who you are, and who they are, and what fair means in this situation.

当時、わたしは、五年生で、英語が、まだ、完全には、自分のものに、なっていなかった。けれど、その、教室の、空気は、覚えていた。誰もが、自分の、関係性を、軸に、答えていた。「もし、その一人が、自分の母だったら」「もし、その五人が、知らない人だったら」「もし、自分が、その場に、いたら」。問いは、状況の、前提を、ずらすことで、変わっていった。

違うのは、何か

いまの、日本の、五組の、教室で、クラスメイトたちは、別の、答え方を、していた。「迷う」「無理」「五人のほう」「でも、レバーを、引いた、っていうのは、ちょっと」。

違う、と、わたしは、感じた。けれど、何が、違うのか、すぐには、言葉に、ならなかった。

答えの、方向性は、似ていた。多くの場合、「五人を、救う」という方向に、傾く。けれど、答えに、たどり着くまでの、道筋が、違っていた。

アメリカの、小学校では、誰もが、自分の、関係性を、ずらしながら、答えていた。「もし」「もし」「もし」と、前提を、ずらしながら、自分の答えを、組み立てる。組み立てる、ということ自体が、議論の、楽しみ、だった。声も、大きかった。

日本の、教室では、誰もが、迷う、ことを、最初に、表明していた。「迷う」「難しい」「無理」。これらの言葉が、最初に、出る。それから、ゆっくり、自分の、答えに、近づいていく。声は、小さくて、だんだん、収束していく感じ、だった。

違うのは、答えなのか、答え方なのか、それとも、もっと、深いところに、ある何か、なのか。

わたしは、頭の中で、両方の、教室を、並べて、見ていた。並べて、見比べて、いた。見比べる、というのは、たぶん、いまの、わたしに、できる、ひとつのことだった。

当てられない

鈴木先生は、何人かの生徒を、当てて、答えを、聞いた。当てられた生徒は、それぞれ、自分の、答えを、述べた。「五人を、救う、と思います、けど、自分が、レバーを引く、というのが、引っかかる」「五人と、一人を、比べたら、五人、ですけど、人の命を、数で、比べていいのかな、って、思います」。

鈴木先生は、当てた生徒の言葉を、丁寧に、繰り返して、別の生徒に、振った。クラスは、波のように、応答した。

わたしは、当てられなかった。

当てられなくて、ほっとした、わけじゃ、ない。当てられたら、何を、答えるか、頭の中で、ずっと、考えていた。けれど、まとまらなかった。

「日本では、こう、答える人が、多いです」と、答えるのは、たぶん、ずれている。「アメリカの、小学校では、こうでした」と、答えるのも、たぶん、ずれている。どちらの答えも、いまの、五組の、教室の中での、わたしの、答えには、なっていない。わたしは、いま、ここに、いる。ここで、答えるべきこと、が、あるはず、だった。

けれど、ここで、答えるべきこと、が、何か、まだ、わからなかった。

授業の、終わりが、近づいた。鈴木先生は、「次回までに、自分なりに、考えてみてください」と、言って、プリントを、机の上に、残させた。

廊下で

休み時間、廊下に、出た。窓の外は、四月の、まだ、少し、肌寒い、空気だった。

隣の席の女の子が、廊下で、わたしに、声をかけた。

「東さん、どう、思った? トロッコ」

「うーん」

「答え、あった?」

「答え、というか、なんか、いろいろ、思い出してた」

「いろいろ?」

「うん。前に、似た問いを、別のところで、聞いたことが、あって。それを、思い出してた」

「別のところ?」と、女の子は、聞いた。

わたしは、一瞬、迷った。アメリカで、と、答えると、たぶん、「あ、帰国子女?」と、彼女は、聞き返す。聞き返されたら、わたしの、五年間の、ニュージャージーの、話に、なる。それは、それで、いい。けれど、いまの、廊下で、それを、するのは、トロッコ問題の話から、ずれる、気がした。

「中学のとき、本で、読んだの」と、わたしは、答えた。半分、嘘だった。半分、本当でも、あった。中学のとき、サンデルの本を、たまたま、英語版と、日本語版、両方で、読んだことが、あった。

「ふーん。本で、読むのと、授業で、聞くのと、違う?」

「違う気がする」

「どう?」

「うーん、本のときは、もっと、ひとりで、考える感じ。授業のときは、みんなが、何を、言うか、それを、聞きながら、考える、感じ」

女の子は、頷いた。「分かる、それ。わたしも、さっき、ヨウコの言ったこと、聞いて、ちょっと、自分の答え、変わった」

「答えが、変わるのって、悪いこと、じゃないよね」

「うん、悪くない。むしろ、そっちのほうが、ふつう、な気がする」

女の子は、トイレのほうに、歩いていった。わたしは、廊下の、窓の外を、もう少し、見ていた。

家で

家に帰って、自分の部屋で、机の上に、トロッコ問題のプリントを、置いた。

母が、リビングから、声をかけた。「ただいまー」と、わたしは、答えた。

部屋に、戻って、ベッドに、座った。プリントを、もう一度、読んだ。日本語の文と、頭の中で、英語に、訳しながら、読んだ。

「五人を、救うために、一人を、犠牲にする、ことが、許されるか」という、日本語の問いを、英語に、訳すと、たぶん、こうなる。「Is it permissible to sacrifice one person to save five?Permissible という単語は、日本語の「許される」と、ちょうど、対応しない。Permissible は、より、法的・規範的な響きで、「許される」のほうが、感情的・関係的な、響き、がある。

同じ問いの、はずなのに、訳すと、微妙に、輪郭が、ずれる。輪郭が、ずれた、その分、答えも、たぶん、少し、ずれる。

わたしは、机の上で、英語の permissible と、日本語の「許される」を、両方、書いた。それから、その間に、矢印を、書いた。矢印は、両側を、向いていた。

こちらの言葉から、あちらの言葉へ。あちらの言葉から、こちらの言葉へ。

答えは、まだ、出ていなかった。

夜、ベッドで、天井を、見ていた。

ジェイコブの、「Five! Of course!」が、頭の中で、響いていた。隣の席の、女の子の、「迷う、というのが、いちばん、ふつう」も、響いていた。鈴木先生の、「自分なりに、考えてみてください」も、響いていた。

三つの、声は、別々の、文脈から、来ていた。同じ問いに、別々の、文脈で、応えていた。どの応えも、それぞれの、文脈の中で、誠実だった。誠実、というのは、たぶん、その文脈に、ふさわしい、ということだった。

わたしの、応えは、まだ、わからなかった。

けれど、たぶん、わたしに、できることが、ひとつ、あった。文脈を、並べて、見比べる、こと。アメリカの、小学校の、教室。日本の、五組の、廊下。サンデルの、本。鈴木先生の、授業。これらの文脈を、それぞれの、輪郭のまま、並べて、見比べる。

見比べた、その先に、わたしの、応えが、あるかもしれない、なかったら、ないままで、たぶん、いい。

答えを、出さない、わけじゃ、ない。出すまでの、道筋が、ほかの、誰よりも、たぶん、長い、というだけ。

長い道筋を、歩く。歩きながら、見比べる。見比べた、その分だけ、輪郭が、見えてくる、はず。

明日も、自分の、頭の中で、英語と、日本語が、往復する。往復することが、たぶん、わたしの、考え方の、形だった。

→ 次話:五年ぶりに、英語で(ジェイコブからのメッセージ、東のトロッコ問題シリーズ #2)
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【東のトロッコ問題シリーズ予告】
本作はシリーズ第1話。東は、五組の高校二年、帰国子女(小学校の二年から六年をニュージャージーで)。月曜の三限、倫理の授業で、トロッコ問題を聞きながら、頭の中で英語と日本語が往復する。アメリカの小学校で似た議論をした記憶と、いまの五組の教室の応答とを、並べて見比べる。違うのは答えか、答え方か、もっと深いところの何か。当てられず、答えはまだ、出ない。アヤの義務論、ジュンの功利主義、茅野の徳倫理、中島のケアの倫理に対して、東は「文脈を見比べる」相対主義/文脈主義の、第五のトロッコ問題シリーズ。

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。登場人物・場面はフィクションです。