東のトロッコ問題シリーズの種明かし
七話で何を書こうとしたか——書き手の備忘

編集部メモ

本ページは、七話で完結した 『日本では』から『隣に、置いて、答える』までの東のトロッコ問題シリーズの設計を、書き手側から開示するものである。アヤのシリーズの種明かしジュンのシリーズの種明かし茅野のシリーズの種明かし中島のシリーズの種明かしと並ぶ、第五の裏側の地図である。

五つのシリーズを読み終えた読者には、本ページが最後の楽屋裏として届くだろう。先に七話を読んでから戻ってきてもらえると、二度目の読みの入口が開く。

出発点:第五軸の必要

東のシリーズは、アヤ(義務論)、ジュン(功利主義)、茅野(徳倫理)、中島(ケアの倫理)の四シリーズが完結したあとに始まった。きっかけは読者の問いだった:

「次の生徒のシリーズに行こう。帰国子女で」

四シリーズはそれぞれ独立した倫理観を立てていたが、共通点があった。すべて、場面の文脈が安定した塊として与えられていた。アヤの一組の教室、ジュン・茅野の二組の教室、茅野の和室、中島の四組の教室と用具室——これらの場面は「日本の高校」「日本の家族」「日本の街」という安定した文化的な塊の中に置かれていた。

四シリーズはその塊の中で「どう振る舞うか」を立ち上げてきた。アヤの「私が納得できるか」、ジュンの「結果として合理的か」、茅野の「私の所作が整っているか」、中島の「目の前の人に応えているか」——いずれも塊の文脈を前提として、その中で応答を選んできた。

第五軸を立てるなら、ここをずらす必要があった。文脈そのものを問題にする。文脈は固定じゃない。塊じゃない。複数で、流動的で、それぞれが固有。

これが相対主義/文脈主義の立ち上げ方だった。アヤ・ジュン・茅野・中島の応答が塊の中で立ち上がるのに対して、東の応答は塊が解体されるその先に立ち上がる。立ち上がる応答が、その都度、固有。

帰国子女というキャラクター設定は、この塊の解体を自然に立ち上げるための装置だった。帰国子女は「アメリカ」と「日本」という二つの塊を内側から知っている。両方の塊を知っているからこそ、両方が塊じゃないということに気づける位置にいる。

東を主役にした理由

東というキャラクターには、いくつかの設計上の意図が織り込まれている。

7話の構造設計:塊解体の入れ子

シリーズは塊の解体を五つの層で徐々に深めていく形で組まれている。同時に時間軸が、月曜から翌月曜まで一週間で進行する。

曜日/場面解体される塊核言語化
#1月曜の三限・5組の倫理の授業空間(米日)並べて、見比べる
#2火曜の夜・自分の部屋・インスタDM時間(5年前/いま)塊ではなく、流れ
#3水曜の昼休み・教室・カナとお弁当他者の家族(カナの祖母の台北)並べないで、隣に、置く
#4木曜の夜・台所・母と皿洗い自分の家族(母/父/自分のハッケンサック)応答を、その都度、選ぶ
#5金曜の放課後・駅前・観光客の母娘自己(文脈ごとに像が違う)ふさわしさを、選ぶ
#6土曜の午後・リビング・カミュ『異邦人』応答の方法(組み立てる→立ち上がる)塊に、戻らない
#7月曜の三限・5組の倫理の授業(二回目)結語隣に、置いて、答える

空間→時間→他者の家族→自分の家族→自己→応答方法→結語という入れ子状の解体は、相対主義/文脈主義が表層の文化比較に留まらず、自己の内部まで降りていく構造を形にしている。

第3話(他者の家族)と第4話(自分の家族)は構造的な対称になっている。第3話でカナの祖母の台北を聞く。第4話で自分の母のハッケンサックを聞く。両方とも「家族の中の固有性」が立ち上がる場面。

第6話で、紙の本(カミュ『異邦人』)と向き合うひとりの内省の場面を置いた。これは第5話までの他者との対話の累積を、東が自分の中で結び合わせる収束の場面。

東独自の語彙

七話のあいだに東の中で増えていった語彙——シリーズが残した相対主義/文脈主義の道具箱:

  1. 並べて、見比べる/文脈/英語と日本語の往復(#1)
  2. 塊ではなく流れ/時間軸の文脈/That explains it /教科書英語とSNS英語(#2)
  3. 並べないで、隣に、置く/重さが違う/個別の関係の複数性(#3)
  4. 応答を、その都度、選ぶ/別の街/寂しさを寂しさのまま置く(#4)
  5. ふさわしさ/説明できるものと、説明されないもの/文脈ごとの像(#5)
  6. 塊に、戻らない/塊への抵抗/状況の手前で、解く(#6)
  7. 立ち上がる/組み立てない/隣に、置いて、答える(#7)

注意深く読むと、これらの語彙はすべて関係動詞か関係副詞である。アヤの「届く」「受け取る」、ジュンの「決まる」「整える」、茅野の「整う」「馴染む」、中島の「応える」「いる」がそれぞれ別の方向の動詞だったのに対し、東の語彙は必ず複数の文脈の関係を想定している。

相対主義/文脈主義は、しばしば「すべての文脈は等しく正しい」という平らな立場として誤解されがちだが、本シリーズは相対主義/文脈主義を複数の文脈を隣に置く能動的な作業として立ち上げている。隣に置くというのは能動的な選択である。誰でも自然にできることではない。

五シリーズの五角構造

本シリーズが四シリーズに第五軸として加わったことで、シリーズ群の全体は五角構造を獲得した。

アヤジュン茅野中島
立場義務論功利主義徳倫理ケアの倫理相対主義/文脈主義
何が正しいか結果として最善かどう生きるか誰に応えるか文脈は何か
動詞考え続ける広がる続く(型)いる立ち上がる
結語納得しないまま、考え続けます合理性の幅は、広がる続くことが、たどり着いたということ俺は、そこにいた隣に、置いて、答える
焦点個人の判断結果の最大化性向の習慣化関係性の維持文脈の流動性
一人称主語省略わたし
クラス/曜日1組/火曜の三限2組/水曜の三限2組/水曜の三限4組/木曜の三限5組/月曜の三限
シリーズの時間軸三週間三週間八月〜九月9〜12月(4ヶ月)一週間(月→月)

五角構造の構造的な意味:

東の立場は、他の四つの倫理と同じレベルにあるというよりは、他の四つの倫理を文脈ごとに隣に置くメタな立場として機能する。第7話の最終話で鈴木先生が五つの倫理を教室で一覧にまとめる場面は、このメタな視点を教室の中に可視化したもの。

シリーズ最大の発見:「応答は、立ち上がる」

本シリーズで書き手が最も時間をかけて設計した発見がある。それは第7話の教室の場面で、東が当てられたその瞬間に起きる:

「当てられた瞬間、立ち上がることばが組み立てられているか、頭の中を確認した。組み立てられていなかった。立ち上がっていた。それは組み立てられたものとは違っていた」(azuma-07)

これは本シリーズの最も重要な思想的な発見である。応答は組み立てるのではなく、立ち上がる。組み立てるというのは塊を作る作業に近い。あらかじめ論理を構築して、その論理を状況に当てはめる。これは義務論や功利主義の自然な応答の仕方。

立ち上がるというのは別の作業である。文脈の束を隣に置いておく。その上で、ある瞬間、ある状況に応える必要が出たときに、束の中からその状況にふさわしい応答が立ち上がるのを待つ。立ち上がってきたものを、その瞬間の文脈に合わせて出す。

これは組み立てるよりも難しい作業である。組み立てるためには、論理さえ明確であればいい。立ち上がるためには、隣に置かれている文脈の束が豊かでなければいけない。文脈の束が貧しければ、立ち上がる応答も貧しい。

シリーズの七話のうちの最初の六話は、すべてこの文脈の束を豊かにする作業に当てられていた。ジェイコブ、カナの祖母、母のハッケンサック、観光客、ムルソー、父とジョン——これらが東の中の文脈の束を構成していた。第7話で、その束から応答が立ち上がる。

立ち上がる応答は、その瞬間の教室の文脈にふさわしい。別の文脈なら別の応答が立ち上がる。応答は固定された結論ではなく、文脈と応答する人の出会いの、その瞬間に固有のもの。

これが、相対主義/文脈主義が議論停止に陥らないための能動的な応答の形である。

五シリーズの動詞の時間性

五つの結語の動詞——考え続ける、広がる、続く、いる、立ち上がる——は別々の時間性を立ち上げている。

シリーズ動詞時間性シリーズの時間軸の長さ
アヤ考え続ける未来への持続三週間
ジュン広がる拡張三週間
茅野続く循環(型の繰り返し)八月〜九月
中島いる現在の連続性4ヶ月
立ち上がるその瞬間の固有性一週間

注目すべきは、シリーズの時間軸の長さと動詞の時間性が構造的に対応していること。

これはケアの倫理(連続性)と文脈主義(瞬間性)の時間性の対比を、シリーズの時間軸の長さで示している。両者は補完的な時間性。

もっと深く言えば、五つの倫理は五つの「時間との付き合い方」を立ち上げている。倫理は抽象的な原理ではなく、時間の中で実践される生き方であり、その生き方の時間性がそれぞれ固有。これが五シリーズが最終的に立ち上げたメタな構造。

「月曜の三限、もう一度」——構造的な対称

東のシリーズの最終話のサブタイトル「月曜の三限、もう一度」は、アヤの最終話 trolley-09「火曜の三限、もう一度」と、中島の最終話 nakajima-07「木曜の三限、もう一度」と構造的な対称を形成する。

シリーズ最終話のサブタイトル曜日クラス
アヤ火曜の三限、もう一度火曜1組
ジュン(揺らぎは、似ていた)2組
茅野(話しかけない)2組
中島木曜の三限、もう一度木曜4組
月曜の三限、もう一度月曜5組

三人の生徒(アヤ・中島・東)がそれぞれの曜日の三限に戻ってくる。鈴木先生は五つのクラスで別々の曜日に同じ単元を教えている。三人がそれぞれの曜日の三限に戻るという構造的な対称が、五シリーズ全体の隠れた骨組みになっている。

ジュンと茅野は二組で同じ水曜の三限を共有しているため、別の構造(ジュンは交差編で「揺らぎは、似ていた」、茅野は「話しかけない」)で最終話を立ち上げた。

東の月曜の三限への戻り方は、アヤと中島とは少し違う。アヤは9話のあいだに複数の場面を経て最初の場面に戻る。中島は4ヶ月のあいだにいくつかの「そこ」を経て最初の場面に戻る。東は1週間のあいだに塊を解体して最初の場面に戻る。三人とも戻り方が別のテンポと深さを持っている。

これは、それぞれの倫理が戻り方のテンポを規定しているという深い構造。

文脈主義が陥りがちな罠と、本シリーズの応答

相対主義/文脈主義は、しばしば以下の罠に陥ると批判されている:

  1. 議論停止:「文化が違うから、答えが違う、で終わり」
  2. ステレオタイプ再生産:「アメリカ人はこう、日本人はこう」
  3. 道徳的なんでもあり:「すべての応答が等しく正しい」
  4. 個人の責任の希薄化:「文脈による」で逃げる

本シリーズはこれらの罠に明確な応答を用意している:

本シリーズの応答該当エピソード
議論停止「文脈ごとに応答を選ぶ」(停止しない、答える)#7
ステレオタイプ再生産「塊の解体」(米国・日本・家族・自己、すべて塊じゃない)#3, #4, #5
なんでもあり「ふさわしさを選ぶ」(任意ではない、固有の文脈に応える)#5
責任の希薄化「応答はその瞬間に立ち上がる」(その瞬間の自分が応答する)#7

とくに第3話のカナのお祖母ちゃんの場面は、ステレオタイプの罠を最も深く扱っている。東は自分のニュージャージーとお祖母ちゃんの台北を、頭の中で並べそうになる。並べた瞬間、止まる。「重さが違う」と東は気づく。「並べないで、隣に、置く」という第三の応答の形が立ち上がる。これはステレオタイプ的な文化比較を内側から止めて固有性に応える、相対主義/文脈主義の深い実践。

同様に第7話の教室の場面で、東は「文脈による」で逃げない。「いまの教室の文脈で答えるなら、五人を救います」とはっきり答える。文脈に応えながら、その応答が固定された結論ではないということを続けて明示する。これが責任の希薄化を避ける応答の形。

帰国子女というキャラクターの選択

帰国子女という設定は、相対主義/文脈主義を立ち上げるための装置として選ばれた。けれど書き手は、帰国子女のステレオタイプに慎重だった。

避けたかったステレオタイプ:

本シリーズの東は、これらのすべてに距離を置いている。

とくに母を「英語が苦手な駐在妻」として描いたこと(第4話)は、書き手の意識的なステレオタイプ解体の試み。駐在族=英語ができるというのはステレオタイプ。実際は駐在の家族の誰かが英語が苦手、というのはよくある。母の苦手さを「努力で克服した」という成功譚として描かないことも意識した。母は「ふだんの英語を毎日聞いて話して、五年である程度話せるようになった」だけ。これが現実的な文脈のリアリティ。

同時に本シリーズは、帰国子女の別のステレオタイプ(「日本に馴染めないよそ者」)からも距離を置いている。東は日本に馴染んでいる、けれど頭の中のいちばん奥では、英語がときどき先に立ち上がる。馴染んでいる/馴染んでいないの二択ではなく、その両方が隣に置かれているという文脈主義的な自己理解。

統計的差別への自覚(続)

ジュン・茅野・中島の三シリーズの種明かしで、書き手はシリーズの限界として統計的差別の問題を明示してきた。東のシリーズでも、この自覚を別の角度から扱った。

本シリーズの登場人物のジェンダー・人種・国籍の配置:

女子・男子・性別未確定がほぼ同数。米国・日本・フランス・ベネズエラ・台湾の文脈が混在。年代も十代の高校生から九十歳の祖母(カナのお祖母ちゃん、亡くなった)まで幅広い。

けれど書き手は、本シリーズが解決していないいくつかの限界を自覚している:

これらは本シリーズが扱えなかった文脈の束。続編で扱う余地がある。

「わたし」一人称の設計

本シリーズで書き手が個人的に挑戦したことが、ひとつある。ひらがな「わたし」を、ジェンダー柔軟性を保ったまま書ききること。

「わたし」(ひらがな)は漢字「私」よりも柔らかく丁寧でジェンダー柔軟。けれど漢字「私」と比べて自己主張が弱い印象を与えがち。書き手は「わたし」を、自己主張の弱さではなく文脈への応答の柔軟性として立ち上げる方針を、最初から決めていた。

東の「わたし」は迷う。けれど迷いの奥には、文脈を見比べる能動的な姿勢がある。迷うということ自体が能動的な選択である。即答しない、即決しない、塊で答えないという能動的な選択。

これはアヤの「私」(迷いの私、義務論)、茅野の「私」(所作の私、徳倫理)、ジュンの主語省略(合理性の応答、功利主義)、中島の「俺」(応答の俺、ケアの倫理)と、別の温度の一人称である。五つの一人称が、五つの倫理の別の温度を立ち上げている。

うまく書けたかどうかは、書き手には最終的にはわからない。「わたし」を新しい温度で立ち上げるという試みがどこまで達成されたか、判定するのは読者の仕事である。

思想的な意図

本シリーズで書き手が最も伝えたかったことは、ひとつである:

倫理は、結論ではなく、応答の形である

結論は文脈に応えるその瞬間に立ち上がる。立ち上がる結論は固定された答えではない。文脈が変われば結論も変わる。これは「なんでもあり」ということではない。それぞれの文脈にふさわしい応答がある、ということ。ふさわしさは文脈ごとに固有。

応答するためには、文脈の束が隣に置かれている必要がある。ジェイコブのいまの grade 11。カナのお祖母ちゃんの台北の果物屋さん。母の Stop & Shop のお惣菜コーナー。ミセス・ロドリゲスのベネズエラ。父とジョンの英語の本。観光客の紙の地図。ムルソーの独房。これらの束が東の中に置かれていたから、月曜の三限の教室で応答が立ち上がった。

束は能動的に置く。塊を解体して固有の文脈として隣に置く。この能動的な作業が、相対主義/文脈主義の実践。

これは、五シリーズの四つの先行倫理と補完的に機能する。アヤの「考え続ける」、ジュンの「広がる」、茅野の「続く」、中島の「いる」——これら四つの動詞はそれぞれ塊の文脈の中で立ち上がる。東の「立ち上がる」は塊が解体されたその先で立ち上がる。両者は別の応答の層に属している。

五シリーズが隣に置かれていること自体が、本シリーズ群が立ち上げた最も大きな絵である。五つの倫理は競合するわけではない。隣に置かれてそれぞれの文脈で立ち上がる、応答の束。読者はこの束を、自分の生活の隣に置いてみる。

五シリーズが最終的に立ち上げた絵

五シリーズはここですべて完結した。同じトロッコ問題から五人の高校生が、別々の倫理で、別々の文脈で、別々の応答を立ち上げた。

五人の結語は、別の言葉で似た場所を指しているはずである。

シリーズ結語動詞時間性
アヤ納得しないまま、考え続けます考え続ける未来への持続
ジュン合理性の幅は、広がる広がる拡張
茅野続くことが、たどり着いたということ続く循環
中島俺は、そこにいたいる現在の連続性
隣に、置いて、答える立ち上がるその瞬間の固有性

五つの動詞——考え続ける、広がる、続く、いる、立ち上がる——は、別々の時間性で倫理を立ち上げている。倫理は一つの原理に収束するものではない。複数の時間性で、複数の応答の形で立ち上がる、複数のふるまい。

これが、五シリーズが最終的に立ち上げた絵である。

続編の余地

五シリーズはここですべて完結した。けれど、シリーズ群の世界線は続けようと思えば続けられる。

これらは書き手の道具箱の中に残されている。いつか書く価値が出てきたら書く。書かなくても、シリーズはここで十分に閉じている。

読者への招待

本シリーズと、アヤのシリーズと、ジュンのシリーズと、茅野のシリーズと、中島のシリーズの五つすべてを読み終えた読者には、以下の楽しみが待っている。

五シリーズは別々のシリーズとして書かれたが、同時にひとつの大きな絵の五枚の絵として機能している。どの絵から見ても、他の四枚が新しい光で立ち上がる、設計になっている。

立場が違う五人が、別々の場所で別々の形で続けている。続けているということが共通している。共通しているのは「続ける」または「応答する」という能動的な姿勢だけ。けれど、それで十分なのかもしれない。

これが、五シリーズが最後に読者と交わしたい応答である。

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← アヤのシリーズ最終話:火曜の三限、もう一度
← ジュンのシリーズ最終話:揺らぎは、似ていた
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← 中島のシリーズ最終話:俺は、そこにいた
← 関連:会話劇五景——シリーズの裏の狙い
← 関連:男性を魅力的に書けない(書き手の備忘)
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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。本シリーズの登場人物・場面はフィクションです。