キリシマミサキ(ポエマイゼーション:ソノダマリ)
第1回で、ビジネスメールがポエムだらけであることに気づいた。第2回で、ポエムを全部消してみたら社会的に死にかけた。
完結編のテーマは、退職メール。
秘書を長くやっていると、退職メールに接する機会が多い。自分が送ったこともある。転職のとき。受け取ったのは数え切れない。役員の退任、同僚の転職、部下の寿退社、派遣社員の契約満了。
あるとき気づいた。退職メールは、あらゆるビジネスメールの中でもっともポエム濃度が高い。そして退職メールだけは、ポエムを消すと本当にまずい。
まず、退職メールの冒頭に必ず現れるこの一文を分析する。
このたび、一身上の都合により、3月末日をもちまして退職することとなりました。
「一身上の都合」。これはソノダのポエマイゼーションの用語で言えば、変装と蒸発の合わせ技だ。
考えてみてほしい。「一身上の都合」の中身は、以下のどれかだ。
全部違う。全部、「一身上の都合」に変装する。クビでも「一身上の都合」。パワハラで逃げても「一身上の都合」。給料が安すぎて生活できなくても「一身上の都合」。あらゆる退職理由が、この4文字に蒸発する。
「何卒よろしくお願い申し上げます」が意味の蒸発した万能フレーズだと第1回で書いた。「一身上の都合」は、それを超える。何がどう都合なのか、一切わからない。わからないことが正しい。わかったら困る。
英語で退職する場合、"I have decided to pursue other opportunities" と書く。「他の機会を追求することにした」。これも変装だが、まだ方向性がある。「他にいいところがある」とほのめかしている。日本語の「一身上の都合」には方向性すらない。完全な煙幕。日本語のビジネスポエムが生んだ最高傑作だと思う。
典型的な退職メールを分解してみよう。私が前職を辞めたとき、実際に(ほぼ)こういうメールを書いた。
各位
お疲れさまです。キリシマです。
私事で大変恐縮ですが、このたび一身上の都合により、3月末日をもちまして退職することとなりました。
在職中は大変お世話になりました。
皆様と一緒に仕事ができたことは、私にとってかけがえのない経験であり、大きな財産です。
至らぬ点も多々あったかと存じますが、温かくご指導いただき、心より感謝申し上げます。
皆様のますますのご活躍とご健勝をお祈り申し上げます。
本当にありがとうございました。
ソノダの6つの操作で全成分を解析する。
| フレーズ | 操作 | 事実 |
|---|---|---|
| 私事で大変恐縮ですが | 変装 | 恐縮していない。辞めるのは決定事項 |
| 一身上の都合により | 変装+蒸発 | 本当の理由は完全に蒸発 |
| 退職することとなりました | 変装 | 「退職します」を「なりました」に変装。自分で決めたのに、なぜか受動態 |
| 皆様と一緒に仕事ができたことは…財産です | 増幅 | 全員と深く仕事したわけではない。名前も知らない人にも送っている |
| 至らぬ点も多々あったかと存じますが | 補填 | 具体的に何が至らなかったか不明。謙遜という緩衝材 |
| 温かくご指導いただき | 増幅+消去 | 冷たい指導もあったかもしれない。それを消去して「温かく」に増幅 |
| ますますのご活躍とご健勝をお祈り | 蒸発 | 祈っていない。明日には忘れる。でも書く |
7つのフレーズ中、事実はゼロ。退職日だけが唯一の事実で、それ以外はすべてポエムだ。ポエム含有率ほぼ100%。ビジネスメール史上、最高濃度。
前回の教訓を忘れたわけではない。ポエムを消すと社会的に死ぬ。わかっている。
わかっているが、やりたい。退職メールからポエムを全部消したら、何が残るのか。
ポエムフリー退職メール(思考実験)
各位
キリシマです。辞めます。
理由は給料が安いからです。
3月末日が最終出社です。
以上。
……。
社会的に死んだ。
いや、前回のポエムフリー実験では「怒ってます?」と電話がかかってきた程度だった。催促メールからポエムを消した程度では、「冷たい人」で済む。しかし退職メールからポエムを消すと、もう「冷たい」では済まない。「この人、何か恨みがあるのでは」と解釈される。
もう少しひどい版も想像してみよう。
完全事実版・退職メール
各位
キリシマです。3月末で辞めます。
理由:残業が多い割に給料が安い。部長と合わない。転職先が決まった。
在職中に学んだこと:議事録の書き方。エクセルのピボットテーブル。コピー機の紙詰まりの直し方。
お世話になった人:ナカムラさん、タナカさん。他の人にはあまり世話になっていない。
お祈り:特にしていない。
以上。
読んで笑えるうちはいい。しかしこれを本当に送ったらどうなるか。
まず、部長が激怒する。「部長と合わない」と全社メールに書かれた部長の気持ちを想像してほしい。次に、「他の人にはあまり世話になっていない」と名指しされなかった全員が傷つく。最後に、「お祈り:特にしていない」で、送信者の社会的信用が永久に消滅する。
退職メールのポエムは、嘘ではない。防弾チョッキだ。自分を守り、相手を守り、組織を守っている。
退職メールで最も面白いポエム技法は、主語の消失だ。
退職メールの自動詞化
全部、自分で決めたことだ。誰かに退職を強制されたわけではない(されていることもあるが、その場合も同じ表現を使う)。しかし退職メールでは、あたかも自然現象のように書く。「退職することになりました」。まるで台風が来たかのように。自分の意志が蒸発して、「そうなった」というニュアンスだけが残る。
英語では "I have decided to resign" と書く。"I" が主語、"decided" が動詞。自分が決めた、と明言する。日本語の退職メールでは「私は決めました」とは絶対に書かない。「こととなりました」。誰が決めたのか、文法的に存在しない。
なぜか。「自分で辞めると決めた」と書くと、「この会社に不満がある」と読まれるからだ。意志を見せると、その意志の理由を問われる。理由を問われると「一身上の都合」の煙幕が破れる。だから意志を消す。主語を蒸発させることで、理由への追及を回避している。
マンションポエムの「暮らしが薫る」と同じ構造だ。誰が薫らせているのか。デベロッパーか、建築家か、住民か。主語がない。退職メールの「こととなりました」も同じ。誰が決めたのか。自分か、会社か、運命か。主語がない。ポエムの核心は、主語の不在にある。
退職メールには定番フレーズがある。秘書として何百通も読んできた経験から、頻出語を並べてみる。
| 順位 | フレーズ | 出現率(体感) | 本音訳 |
|---|---|---|---|
| 1 | 大変お世話になりました | 99% | (儀礼。全員に言う) |
| 2 | かけがえのない経験 | 85% | (かけがえはある。次の会社でもっといい経験をするつもりだ) |
| 3 | 私の財産です | 80% | (本当の財産は退職金だ) |
| 4 | 至らぬ点も多々あったかと | 70% | (至らなかったのはお互い様では) |
| 5 | ますますのご活躍をお祈り | 90% | (祈らない。でも書く) |
| 6 | 新天地でも | 60% | (返信に多い。「新天地」は転職先の美化) |
| 7 | 一身上の都合 | 95% | (前述。日本語最強の変装) |
ソノダのマンションポエムで「住まう」「邸」「上質」が頻出語だったように、退職メールにも定番の語彙がある。しかも面白いことに、退職メールの頻出語は、ほぼ全員が同じ言葉を使う。マンションポエムではコピーライターの個性が出ることがある。退職メールには個性が出ない。テンプレートなのだ。
なぜテンプレートになるのか。退職メールを書く人は、たいてい「退職メール 書き方」でGoogle検索する。そして上位に出てくるテンプレートをコピペする。つまり退職メールのポエムは、集合知で最適化されたポエムだ。何百万人の退職者が検索し、クリックし、コピペし、送信した結果、生き残った表現だけが残っている。自然淘汰されたポエム。ダーウィンもびっくりだ。
退職メールのポエム性は、送信だけでは完結しない。返信もポエムだ。
典型的な退職メールへの返信
キリシマさん
ご連絡ありがとうございます。
突然のことで大変驚いております。
キリシマさんと一緒に仕事ができて本当に楽しかったです。
新天地でのますますのご活躍をお祈りしております。
お体にお気をつけて。
また飲みましょう!
「突然のことで大変驚いております」——本当に驚いているか。半分くらいの人は「まあそうだろうな」と思っている。「一緒に仕事ができて本当に楽しかったです」——本当か。3年間同じフロアにいて、2回しか話したことがない人からも来る。「また飲みましょう!」——飲まない。統計的に、退職メールの「また飲みましょう」は97%実現しない(キリシマ調べ、n=自分の経験)。
しかしこの返信を書かないわけにはいかない。退職メールに返信しないのは、「あなたの退職に関心がない」と宣言することに等しい。前回学んだ通り、ポエムの不在はメッセージになる。
退職メールとその返信は、ポエムの交換儀式だ。送る側が「かけがえのない経験でした」と言い、受け取る側が「一緒に仕事ができて楽しかった」と返す。双方がポエムを交換することで、「私たちの関係は円満に終了しました」という合意が成立する。契約書に印鑑を押すようなものだ。ただし、契約書の中身は全部ポエム。
前回の実験で、催促メールからポエムを消したら「怒ってます?」と聞かれた。報告メールからポエムを消したら先生に呼ばれた。面倒だったが、実害はなかった。「冷たい人」と思われただけだ。
退職メールは違う。
退職メールからポエムを消したら——
催促メールのポエムフリーは「失礼な人」で済む。退職メールのポエムフリーは「社会人として終わった人」になる。しかも退職メールは全社に送ることが多い。CCに数十人、数百人が入っている。人生最大規模の聴衆に向けた、最後のスピーチなのだ。そこでポエムを消すのは、卒業式で校歌を歌わずに「この学校の校歌、ダサいと思ってました」と言うようなものだ。
日常のメールでは、ポエムは「あった方がいい」ものだった。潤滑油。あれば滑らか、なくてもエンジンはしばらく動く。
退職メールでは、ポエムは「なければならない」ものだ。潤滑油ではなく、エンジンそのもの。ポエムがなければ退職メールは成立しない。「辞めます」と「退職することとなりました」の間にあるポエムの層が、退職という暴力的な事実を——「この組織から離脱します」という断絶の宣言を——柔らかく包んでいる。
なぜ退職メールが最もポエム濃度が高いのか。
普通のメールには「次」がある。催促メールの次には返信がある。報告メールの次には確認がある。関係が続く。だからポエムが多少足りなくても、次のメールで補える。前回、ポエムフリーの催促を送ったあと電話で「怒ってないです」と10回言えたのは、関係が続いていたからだ。
退職メールには「次」がない。これが最後。修正の機会がない。補填の機会がない。このメール1通で、この組織での自分の印象が確定する。
だからポエムを山盛りにする。「かけがえのない経験」「私の財産」「温かくご指導」「ますますのご活躍」——全部盛り。これでもかと盛る。次がないから、今この1通に全部入れる。
マンションの広告に似ている。モデルルームを見せるのは一度きりだ(多くの場合)。だからコピーライターはポエムを全力で盛る。退職メールも一度きりだ。だから送信者はポエムを全力で盛る。一期一会のコミュニケーションは、ポエム濃度が最大化する。
逆に、毎日顔を合わせる同僚には「お疲れさまです」の一言で済む。毎日のメールには「お世話になっております」の定型で済む。接触頻度が高いほど、ポエム濃度は下がる。接触頻度がゼロになる瞬間——退職——に、ポエム濃度は最大になる。
ポエム濃度の法則
ポエム濃度は、次の接触機会の期待値に反比例する。
第1回で、私はビジネスメールのポエムを「発見」した。ソノダのポエマイゼーションの眼鏡をかけたら、毎日書いていた「平素よりお世話になっております」がポエムに見えた。
第2回で、ポエムを「消して」みた。結果は惨憺たるものだった。返信が来ない。電話がかかってくる。先生に呼ばれる。取引先がポエムで反撃してくる。ポエムフリーの世界は殺伐としていた。
第3回——本稿——で、ポエムが「必要不可欠」であることを確認した。退職メール。人生最後のビジネスメール。ここだけは、ポエムを消したら本当に終わる。
3部作を通じて見えたことがある。
ポエムは嘘ではない。
ポエムは無駄ではない。
ポエムは、人と人のあいだに敷かれた緩衝材だ。
それがなければ、私たちは事実の角で互いを傷つけ合う。
「給料が安いから辞めます」は事実かもしれない。しかしその事実を、退職メールという公的な場で、数百人の聴衆に向けて投げつけたら、事実の角が人を傷つける。「一身上の都合により退職することとなりました」というポエムは、その角を丸くしている。
ソノダはマンションポエムについて「ポエムを愛でながら、騙されない」と言った。マンションポエムでは、それが正しい。「上質がそびえる」に騙されて高い買い物をしたら困る。
しかしビジネスメールのポエムは、騙す・騙されないの構造ではない。全員が知っていて、全員が使い、全員が守られている。「平素よりお世話になっております」に騙される人はいない。「かけがえのない経験でした」を額面通りに受け取る人もいない。しかしその言葉がなければ、社会は回らない。
私は秘書だ。毎日ポエムを書く。明日も書く。「平素よりお世話になっております」と。
そしていつか——私がこの仕事を辞める日が来たら——人生最後のビジネスポエムを書く。「皆様には大変お世話になりました。この経験は私のかけがえのない財産です」と。全力で書く。ポエムだと知りながら。いや、ポエムだからこそ、全力で書く。
それが、最後のメールにふさわしい。
お忙しいところ恐れ入りますが、
最後までお読みいただき、
誠にありがとうございました。
——3回目なので正直に言います。
これはポエムであり、同時に本心です。
3部作にお付き合いくださった皆様には、
本当にお世話になりました。
……ほら、また書いてしまった。