ジュン、高校二年、二組。防災訓練の最適解から、二週間ほど経った金曜の夜。ハルが、サッカー部の、初めての公式戦の、出場メンバーに、選ばれていた。
金曜の夕食、ハルが、いつもより、早口で、話していた。
「来週の日曜、初試合。サイドバックで、出場できる。スタメン」
母が、「やったね、ハル」と、言った。
父が、「俺も、見に行きたいけど、出張で、無理だな」と、言った。
「ジュンは?」と、ハルが、こちらに、聞いた。
すぐに、答えなかった。来週の日曜は、地区の、数学コンテストの予選日だった。一ヶ月前から、勉強を、始めていた。会場は、隣町の、市民センター。電車で、二駅。
「行ける」と、答えた。
答えてから、ハルの、顔を、見た。ハルが、笑った。
「ジュン、来てくれるの?」
「うん」
「数学のやつは?」
「同じ日だけど、ずらせる、と思う」
母が、こちらを、見た。母は、コンテストのことを、知っていた。何も、言わなかった。
食事のあと、自分の部屋に、戻った。机の上に、コンテストの過去問のノートが、広げてあった。一ヶ月分の、勉強の、跡。
パソコンで、エクセルを、開いた。意思決定の、表を、作る。
選択肢A:コンテストに出場
・本選進出の確率:50%(過去問の正答率から)
・本選で、賞を取れる確率:20%
・賞を取った場合、推薦入試に有利になる効用:軽微(地区大会のため)
・コンテストは、来年も、再来年も、ある
選択肢B:ハルの試合に応援
・自分にとっての効用:?
・ハルにとっての効用:?
Bの欄に、数字を、入れられなかった。
応援することで、ハルのパフォーマンスが、上がるのか、データは、ない。父も母も来られない試合で、家族の誰かが、観客席にいる、ということが、ハルにとって、何を、意味するのか、分からなかった。
分からない、ということは、ゼロ、ということだろうか。
これまでの、自分の、合理性なら、ゼロとして扱った。けれど、最近、自分の、合理性は、ぶれていた。
分からない、というのは、こちら側の、観測の限界だった。観測の限界を、ゼロとして扱うのは、観測の不備を、現実だと、置き換えることだった。
これは、合理的では、なかった。
「数値化できない、というのは、ゼロ、ということじゃない」
口の中で、つぶやいた。
コンテストは、来年も、ある。再来年も、ある。一ヶ月の、勉強の、跡は、来年に、繰り越せる。
ハルの初試合は、今日だけだった。
計算は、Bの方が、長期的効用が、高い、という結果に、なった。
運営に、不参加のメールを、送った。「家族の予定のため」と、書いた。事実だった。送信ボタンを、押した。少し、震えた。震えていい、と、自分に、言った。
土曜の夜、十時すぎ。試合は、明日の朝、十時から。
自分の部屋で、別の数学の問題集を、解いていた。コンテストには出ないけれど、勉強は、続けていた。
携帯が、鳴った。ハルだった。隣の部屋からの、内線、ではなくて、ふつうの、電話。
「もしもし」
「ジュン」
「うん」
「明日、試合」
「うん」
「眠れない」
「うん」
ハルの、声が、少し、震えていた。震えていた、ことが、分かった。
「ジュン、二日もかけて、ノート、書いてくれたじゃん」
「うん」
「サイドバックが、最適解だ、って」
「うん」
「もし、明日、僕が、サイドバックで、うまく、できなかったら」
「うん」
「ジュンに、申し訳なくて」
答えなかった。しばらく、ハルの、息の音だけが、聞こえていた。
「ごめん、ジュン」
「謝らなくていい」
「ごめん、って、まだ、何も、起きてないのに、なんで、ごめん、って言ってんだろう」
ハルは、少し、笑った。笑ったけれど、声は、震えたままだった。
「ハル、聞いて」
「うん」
「データは、お前のために、書きたくて、書いた」
「うん」
「お前が、明日、活躍しても、しなくても、ノートを書いた、という事実は、変わらない」
「うん」
「贈り物は、贈り物のまま、残る」
「贈り物」
「だから、申し訳ない、とか、思わなくていい」
「けど、ジュンの、データが、外れたら」
「外れない」
「分かんないじゃん、明日のことは」
「ハル、データの話、もうひとつ、するな」
「うん」
「データは、平均的な、最適解を、示しただけ」
「うん」
「個別の試合の、個別の、お前の、パフォーマンスには、誤差がある」
「誤差」
「誤差は、合理性の、外にあるんじゃない。合理性の、中に、含まれている」
「中に」
「データは、誤差を、織り込んだうえでの、最適解だった」
「うん」
「だから、明日、お前が、ミスしても、それは、誤差の、範囲内」
「ミスしても」
「データが、間違ってた、ということには、ならない」
ハルが、しばらく、黙った。電話の向こうで、息を、整えていた。
「ジュン、それ、合理的?」
「合理的」
「ジュンの、合理的って、最初は、ミスを、許さない、感じだった」
「うん」
「いまは、ミスを、合理的の、中に、含めてる」
「うん」
「広くなった?」
「広くなった」
「ありがとう、ジュン」
「寝な」
「寝る」
日曜の朝、ハルと、一緒に、家を、出た。母は、お弁当を、ふたつ、作ってくれた。
会場は、隣町の、サッカーグラウンド。観客席に、ぱらぱら、人が、座っていた。
試合が、始まった。前半。ハルは、左サイドバックで、出場。最初の数分、緊張は、まだ、見えた。けれど、前夜より、足は、軽そうだった。
前半、二十分。相手のフォワードが、左サイドから、突破を、試みた。ハルが、戻って、タックル。ボールを、奪った。
そこから、ハルの、左足が、効き始めた。サイドラインに沿って、走り、相手のディフェンスを、引きつけ、中央に、低い、速いクロスを、送った。
そのクロスが、味方のヘッドに、ぴたり、と、合った。一点。
観客席で、立ち上がっていた。立ち上がっていた、ことに、自分で、驚いた。
後半、ハルは、一度、パスのミスを、した。相手に、カウンターを、許した。けれど、味方のキーパーが、止めた。失点には、ならなかった。
ミスをした直後、ハルが、観客席の、こちらを、ちらっと、見た。
頷いた。誤差の中、と、口の中で、つぶやいた。たぶん、ハルには、聞こえなかった。けれど、ハルは、頷き返した。
試合は、二対一で、勝った。
試合のあと、ハルは、ロッカールームから、出てきた。汗を、かいて、髪を、濡らして、笑っていた。
「ジュン、来てくれて、ありがとう」
「うん」
「あのミス、誤差の中、って、思った」
「思ったか」
「思ったから、走り続けられた」
「うん」
「コンテスト、来年は、出てね」
「出る」
帰り道、ハルと、二人で、駅まで、歩いた。新緑の、街路樹が、夕方の、斜めの光を、受けて、深い緑に、なっていた。
コンビニの前で、ハルが、「俺、おごるよ」と、言った。
「お年玉の、残り?」
「うん」
「じゃ、お言葉に、甘える」
店に、入った。ハルが、おにぎりを、ふたつと、お茶を、二本、買った。
店の前で、おにぎりを、食べた。
「ジュン」
「うん」
「次の試合も、来てくれる?」
「行く」
「コンテスト、ぶつかったら?」
「両方の、効用を、計算する」
「計算して、どうなるの」
「数値化できないものも、誤差の中に、ゼロじゃ、ないって、含めて、考える」
「ジュン、それ、いい」
「うん」
ハルは、おにぎりの、のりの部分を、ゆっくり、剥がしていた。
夜、自分の部屋で、ノートを、開いた。「同期しない、二人」「分析は、愛だ」「数を、見ない、ということは、数の中の、誰かを、見ない、ということ」のページの、次に、もうひとつ、書いた。
「誤差は、合理性の、中に、含まれてる」
書いてみて、しばらく、見ていた。
合理性、というのは、最初、自分にとって、ミスを、許さない、ものだった。x の値が、ひとつ、出るように、答えは、ひとつ、出た。
いまは、違う。
x の値の、周りに、誤差が、ある。誤差を、含めて、x が、x として、成立している。誤差を、捨てると、x も、捨てることに、なる。
誤差を、含めるのが、合理的、だった。
これは、最初の自分の、合理性とは、違う形だった。けれど、たぶん、これも、合理性の、ひとつの形、だった。
合理性の幅が、広がる、ということを、覚えていた。広がっていく、というのは、ぶれている、ということでも、あった。
ぶれている、というのを、認めるのが、いまの、自分の、合理性、だった。
カレンダーを、見た。来年の、十月の欄に、「数学コンテスト、申込み」と、書き入れた。再来週の、土曜の欄に、「ハルの試合」と、書き入れた。色は、別の、色を、使った。
別の色で、書かれていた、ということが、たぶん、今夜の、結論だった。
→ 終話:揺らぎは、似ていた(図書室でアヤと出会う、ジュンのトロッコ問題シリーズ #7・最終話)
← 前話:最適解(ジュンのトロッコ問題シリーズ #5)
← シリーズ #4:サイドバック(ジュンのデータがハルに渡された日。本作は、その贈り物を、ハルが、どう受け取ったかの後日譚)
← 関連:もうちょっと、を、続ける(同じ三週間、別のクラスの一組のアヤ。アヤは「最後に聞いた言葉」を地図にした、ジュンは「誤差は合理性の中に含まれる」と弟を救った)
← 関連:トロッコ問題シリーズの種明かし
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【ジュンのトロッコ問題シリーズ予告】
本作はシリーズ第6話。功利主義の五つの美徳——公平性、思いやり、合理性、自己統制、信頼性——が、ジュンの中で、ハルの初試合の前夜と当日に、すべて立ち上がる。「数値化できないものは、ゼロじゃない」「誤差は、合理性の中に、含まれてる」というジュンの新しい認識。合理性の幅が、計算可能なものを超えて、広がる。次話は最終話、二組のジュンが、別のクラスの一組の生徒と、初めて、出会う。