小川アヤ、高校二年。火曜の夜、おばあちゃんに電話で「岐阜にいる、もうちょっと」と言われた、その四日後の土曜の朝。お父さんの携帯が、鳴った。
土曜の朝、私はリビングで、テスト勉強のノートを広げていた。月曜から、期末テストが、始まる。
お父さんの携帯が、鳴った。お父さんは、「もしもし」と言って、しばらく、黙って、聞いていた。
「あ、はい、はい、すぐ行きます、ありがとうございます」
電話を切ったお父さんの顔が、いつもより、少し、白かった。
「ばあちゃんが、家で、転んだ。隣のミヨちゃんが、見つけて、救急車を呼んでくれた。今、病院に運ばれてる」
お母さんが、立ち上がった。「岐阜、行こう」
私は、ノートを、閉じた。
「アヤは、どうする」と、お父さんが、聞いた。
「行く」
「テストは」
「大丈夫」
私は、自分でも、それが大丈夫かどうか、分からなかった。けれど、行く以外の選択肢が、頭の中に、なかった。
車で岐阜に向かう間、誰も、あまり、話さなかった。
お父さんは、運転していた。お母さんは、助手席で、病院の名前を、何度も、確認していた。私は、後部座席で、窓の外を、見ていた。新緑が、もう、深い緑になっていた。
火曜の夜の電話のことを、思い出した。「岐阜にいる、もうちょっと」と、おばあちゃんは、言った。「もし、また、転んだら」とお父さんが聞いて、「そうしたら、考える。今は、考えん」と、おばあちゃんは、答えた。
転んだ。
考える時が、思ったより、早く、来た。
病院に着いて、受付で名前を伝えて、ナースステーションに案内された。
担当の先生が、廊下で、私たちに、説明した。
「お祖母様、転倒で、大腿骨を骨折されています。命に、別状は、ありません」
お母さんが、ふっと、息を、吐いた。
「ただ、八十三歳で、骨折は、回復に、時間が、かかります。手術は、します。手術後、リハビリ施設で、しばらく過ごしていただく必要があります。その後、自宅に戻れるか、施設で過ごすか、ご家族で、決めていただきます」
「自宅、というのは」とお父さんが、聞いた。
「お祖母様の、岐阜のご自宅、ですよね」
「はい」
「ひとり暮らしは、難しくなります。介護サービスを入れるか、ご家族のどなたかが、同居されるか、になります」
お父さんは、頷いた。
私たちは、病室に、入った。
おばあちゃんは、ベッドで、目を、閉じていた。点滴が繋がっていて、酸素マスクをしていた。お父さんが、ベッドの横の椅子に、座って、おばあちゃんの手を、軽く握った。
「ばあちゃん」
おばあちゃんは、目を、開けなかった。
「ばあちゃん、来たよ」
おばあちゃんは、ほんの少し、口を、動かした気がした。気がした、だけかもしれない。
私は、ベッドの足元に、立っていた。
おばあちゃんに、聞きたいことが、たくさん、あった。岐阜の家に、戻りたいか。施設に入りたいか。家族のうちに、来たいか。
聞きたかったけれど、聞けなかった。聞ける状態じゃ、なかった。
病室を出て、廊下のベンチで、私たちは、しばらく、座っていた。
「ばあちゃんに、聞けないな」と、お父さんが、言った。
「うん」と、お母さんが、言った。
「でも、火曜の夜に、聞いた」と、私は、言った。
二人は、私のほうを、見た。
「おばあちゃん、『岐阜にいる、もうちょっと』って、言ってた」
「言ってた」と、お父さんは、言った。
「『もし、また、転んだら、考える』とも、言ってた」
「言ってた」
「考えるのは、おばあちゃんの番、なのかもしれないけど、いま、考えられないから、私たちが、おばあちゃんの代わりに、考える、ってことになる」
お父さんは、頷いた。
「私たちが代わりに考えるとき、火曜の夜の言葉が、頼りになる」
お母さんが、頷いた。
「『岐阜にいる、もうちょっと』を、続けられるかたちが、たぶん、いちばん、おばあちゃんの希望に、近い」
お父さんは、しばらく、黙っていた。
「岐阜の家に戻れるように、介護サービス、最大限、入れる」
「うん」
「俺と、姉さんと、弟で、月に何回か、交代で、行く」
「うん」
「アヤも、夏休み、行ってくれるか」
「行く」
夕方、岐阜から、帰り道の車内で、私は、また、後部座席に、いた。
おばあちゃんは、まだ、目を、開けないままだった。手術は、明日。回復には、時間が、かかる。
火曜の夜に、おばあちゃんが、私に言った言葉を、思い出した。
「アヤちゃん、お父さんに、伝えてくれな。心配は、ありがとう、と。けど、もうちょっと、おばあちゃんは、おばあちゃんで、考える、と」
おばあちゃんは、いま、考えられない。考えられない時間に、私たちが、おばあちゃんの代わりに、考える。代わりに考える私たちは、火曜の夜の言葉を、地図のように、使う。
先生の言葉が、頭の中で、また、立ち上がった。
「結果として、誰かに先に届き、誰かに後で届く」
火曜の夜、私たちが先に届けた質問が、おばあちゃんの言葉を、引き出した。引き出された言葉が、いま、おばあちゃんの代わりに、私たちのところに、届いている。
先に届けた質問が、後で、必要になった。先に聞いておいたこと、が、後の判断の、土台になっていた。
聞いておくこと、というのは、未来の自分の代わりに、過去の自分の声を、残しておくこと、なのかもしれない。
なのかもしれない、で、止まる。
止まるけれど、また、考える材料が、増えた。
家に帰って、自分の部屋で、ベッドに寝そべって、天井を見ていた。
おばあちゃんが、目を開けるのを、待っている。
もし、開けなかったとしても、「岐阜にいる、もうちょっと」という言葉は、私たちの中で、残る。残った言葉を、私たちが、続ける。続けるかたちは、本人がいた頃と、たぶん、少し、違う。違うけれど、続ける、という意志は、本人の言葉の上に、立っている。
それは、トロッコ問題の答えとは、違うかたちだった。違うかたちが、いくつか、これまでの何週間かの中で、見つかってきた。
納得しないまま、考え続ける。
と、先生は、最初に、言っていた。
納得は、まだ、していない。考え続けることだけが、している。
明日、月曜のテストが、ある。今日のことを、ノートに、残しておこうかと思った。残さなくても、たぶん、忘れない、と思って、ノートは、開かなかった。
天井には、まだ、何も書かれていない。
おばあちゃん、目を、開けますように。
→ 次話:一緒に、考える(テスト終わりのカフェ、ミユとの対話、トロッコ問題シリーズ #7)
→ パラレルシリーズ:誤差の中に(同じ頃、二組のジュンは「誤差は、合理性の中に、含まれる」で弟の精神的危機を解放)
← 前話:岐阜にいる、もうちょっと(電話の向こうのおばあちゃん、トロッコ問題シリーズ #5)
← シリーズ #4:おばあちゃんに、聞こう
← シリーズ #3:指揮者を、選ぶ
← シリーズ #2:お先にどうぞ
← シリーズ #1:先生、納得がいきません
← 関連:持ってきな(介護世代の親子)
← 関連:ミユがサカモトだったときのこと(アヤの独白)
← 関連:会話劇五景——シリーズの裏の狙い
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【トロッコ問題シリーズ予告】
本作はシリーズ第6話。本人に聞けない時間が、おばあちゃんに訪れる。家族は「火曜の夜に聞いた言葉」を地図のように使って、おばあちゃんの希望を続けようとする。先に届けた質問が、後の判断の土台になる、というシリーズ最大の時間軸の発見。次話以降、アヤ自身がより重い選択を迫られる場面、または別の現実のリソース配分が立ち上がる予定。