ジュン、高校二年、二組。ハルの初試合から、十日ほど経った金曜の放課後。図書室で、本を、返した。返した本を、別の生徒が、借りようとしていた。
金曜の放課後、図書室に、寄った。返却期限の本が、二冊、あった。
司書の先生に、本を、渡した。先生が、バーコードを、読み取った。読み取りながら、「森田、サンデル、読んでたんだ」と、言った。
「うん」と、答えた。倫理の授業の、トロッコ問題の続きを、自分で、読みたかった。
カウンターの横に、別の生徒が、立っていた。同じ高校の、女子。一組のはずだった。顔は、知っていた。名前は、知らなかった。
司書の先生が、その生徒に、「あ、ちょうどよかった、サンデル、いま、返却された」と、言った。
女子生徒が、こちらを、見た。
「あ、ありがとう。返したばっかりだったんだね」
「うん」
「私も、読みたくて、予約してたの」
「面白かったよ」
「そう」
司書の先生は、奥の部屋に、入っていった。カウンターの前で、自分と、その女子生徒は、しばらく、立っていた。
「2組の、森田、だよね」と、その生徒が、聞いた。
「うん。1組の」
「小川アヤ」
「小川さん」
「アヤで、いいよ」
頷いた。アヤさんと、頭の中で、繰り返した。
「倫理の先生から、聞いたことが、ある」と、言った。
「先生、何て?」
「『1組に、納得しないって、職員室に、駆け込んできた生徒が、いる』」
アヤさんが、笑った。
「それ、私」
「だと思った」
「森田のことも、先生、何か、言ってた」
「何?」
「『2組に、即答した生徒が、いる』」
「それ、自分」
二人、笑った。図書室で、声を、立てない、笑い方だった。
「対称的、だね」と、アヤさんが、言った。
「対称的」
サンデルの本は、もう一冊、別の棚に、似たテーマの本があった。アヤさんが、それも借りたい、と言った。倫理学の棚は、図書室の、奥のほうだった。一緒に、歩いた。
棚の前で、アヤさんが、上の段の、別の本を、取ろうとしていた。手が、届かなかった。
「これ?」と、言って、アヤさんの隣から、本を、取った。
「ありがとう」
「うん」
本を、アヤさんに、渡した。
「あの、ありがと」
「何が」
「本、取ってくれた」
「うん」
アヤさんが、本を、両手で、しばらく、持っていた。
「いま、森田、変な返事の、仕方、してた」と、アヤさんが、言った。
「変?」
「『何が』って」
「うん」
「私、それ、よく、言うの。親友と」
「親友?」
「ミユ。同じクラスの」
「ミユさん」
「ミユから、教わった、リズムなんだ。『ありがと』『何が』『何かは、分かんないけど』『いつでも』」
アヤさんが、四つの、言葉を、一気に、言った。
「いつでも」と、最後の言葉を、復唱した。
「うん」
「いつでも、というのは、何が」
「分からないまま、答える、ことができる、リズム」
「分からないまま、答える」
「うん」
窓側の、空いている席に、二人で、座った。図書室は、放課後、それほど、混んでいなかった。
「森田は、即答した、って、先生、言ってた」と、アヤさんが、言った。
「した」
「五人より、一人?」
「そう」
「いまも、そう?」
「いまも、五人より、一人を選ぶ。けど、選んだあとで、何かが、残る、っていうのを、最近、知った」
「残るもの」
「うん」
「残るものって、何?」
「合理的に決めたあとに、何かが、残る。それが、何なのかは、まだ、分からない」
「分からない、で、止まる、ね」
「止まる」
「私もね、最近、数で並べる側に、立ったの」
「数で?」
「クラスの、合唱コンクールの、指揮者の、投票で」
「うん」
「数にしたくない、って、ずっと、思ってたのに、結局、数にした」
「矛盾、と、感じた?」
「矛盾、と、思った」
「自分も、矛盾を、いくつか、抱えてる」
アヤさんが、頷いた。それから、しばらく、机の木目を、見ていた。
「数で並べる側に立ったあと、選ばれなかった子の、口元が、ほんの少しだけ、堅かった気がしたの」
「気がした」
「気がしただけかも、しれないのに、それが、残った」
「残るもの、って、それかも、しれない」と、言った。
「森田のと、同じ?」
「同じ、かもしれない。形は、違うかも、しれない」
「形」
「うん」
「鈴木先生が、こう、言ってた」と、アヤさんが、言った。「『結果として、誰かに先に届き、誰かに後で届く』」
「うちでも、同じこと、言ってた」と、答えた。火曜のアヤさんのクラスと、水曜のこちらのクラスで、同じ単元を、教えていた。
「『先に届く・後で届く』を、私、いろんな場面で、思い出した」
「いろんな場面」
「譲り合い、投票、家族の介護、おばあちゃんへの電話、おばあちゃんが転んだ夜、親友との会話、おばあちゃんが目を覚ました朝。ぜんぶの場面で、先に届くものと、後で届くものが、立ち上がった」
「先に、後で」
「うん」
「自分は、別の言い方を、覚えた。『誤差は、合理性の、中に、含まれている』」
「誤差?」
「データは、平均的な、最適解を示す。個別のパフォーマンスには、誤差がある。誤差を、合理性の外に、捨てるんじゃなくて、合理性の中に、含める」
「森田らしい、言い方」
「うん」
「私の『先に届く』と、森田の『誤差の中』は、たぶん、似てる、けど、違う」
「似てる、けど、違う」
「形が、違う」
「形が、違う、まま、で、いい」と、言った。
言ってから、これは、自分にとって、新しい、結論だった、と、気づいた。
アヤさんが、しばらく、何も、言わなかった。それから、ゆっくり、言った。
「立場が、ちがうのに、揺らぎは、似ている」
「揺らぎは、似ている」と、復唱した。
「森田、即答する人だったんでしょ?」
「うん」
「いまは?」
「即答もする。即答したあとで、揺れることも、覚えた」
「私は、最初、納得できなかった。いまは?」
「いまも、納得できてないのか」
「納得できないまま、考え続けてる」
「考え続ける」
「うん」
「考え続ける、って、自分も、やってる、最近」
「森田も?」
「うん」
窓の外で、夕方の光が、長くなっていた。図書室の、閉室の、鐘が、聞こえた。
アヤさんが、「そろそろ」と、言った。
「うん」と、答えた。
本を、二冊、抱えて、アヤさんは、立ち上がった。
「じゃあ」と、アヤさんは、言った。
「じゃあ」と、答えた。
「またね」とも、「また」とも、二人とも、言わなかった。
言わなかった、ということは、たぶん、二人とも、分かっていた。
図書室を出て、廊下を、反対方向に、歩いた。アヤさんは、東階段の方へ。こちらは、西階段の方へ。
廊下の、角で、立ち止まりかけた。立ち止まらず、そのまま、曲がった。
振り返らなかった。
振り返らなかった、けれど、振り返ったら、アヤさんも、たぶん、振り返っていた、気が、した。
気がした、ということは、ゼロ、では、なかった。
振り返ったかどうかを、確認しないことが、いま、合理的だった。確認すれば、答えは、ひとつに、決まる。確認しないでおくと、振り返った、と、振り返らなかった、のふたつの可能性が、開かれたまま、残る。開かれたまま、というのが、ゼロじゃない、ということだった。
確認しないまま、廊下を、歩いた。
夜、自分の部屋で、ノートを、開いた。
これまで、書いてきた、言葉が、並んでいた。
「同期しない、二人」
「分析は、愛だ」
「数を、見ない、ということは、数の中の、誰かを、見ない、ということ、かもしれない」
「数値化できない、というのは、ゼロ、ということじゃない」
「誤差は、合理性の、中に、含まれてる」
新しいページに、もうひとつ、書いた。
「揺らぎは、似ていた。形は、違うままで、いい」
書いてみて、しばらく、見ていた。
立場が、違う相手と、話して、揺らぎが、似ていた、と、知った。けれど、形は、違っていた。違っているまま、二人とも、考え続けている。
同じ場所には、たぶん、行かない。同じ結論にも、たぶん、ならない。違うまま、それぞれの場所で、それぞれの形で、考え続ける。
これが、今夜の、結論だった。
合理性の幅は、広がり続けるのかもしれない。広がり続けても、自分は、たぶん、自分のまま、合理的でいる。アヤさんも、アヤさんのまま、納得しないまま、考え続ける。
たぶん、それで、いい。
たぶん、で、止まる。止まることが、いまの、合理性、だった。
明日、月曜が、来る。月曜の、三限、倫理の授業。先生は、別の単元の、話を、するだろう。アヤさんは、別のクラスで、同じ先生の、別の単元の、話を、聞いている。
同じ時間に、別の教室で、別の生徒が、同じ先生の話を、聞く。同じ話が、別の生徒に、別の形で、届く。形が、違う、ということが、悪いこと、では、なかった。
ノートを、閉じた。
窓の外で、街灯が、ひとつ、灯っていた。
ジュンのトロッコ問題シリーズ・完
← 前話:誤差の中に(ジュンのトロッコ問題シリーズ #6)
← シリーズ #5:最適解
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← シリーズ #3:同期しない、二人
← シリーズ #2:悪くない、合理的なだけ
← シリーズ #1:答えは、出る
→ ネタばらし:ジュンのトロッコ問題シリーズの種明かし——七話で何を書こうとしたか
← 関連:火曜の三限、もう一度(同じ三週間、別のクラスの一組のアヤ。アヤが先生に「納得しないまま、考え続けます」と告げたのは、本作の、十日ほど前)
← 関連:トロッコ問題シリーズ(アヤ側)の種明かし
← 関連:会話劇五景——シリーズの裏の狙い
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本作はジュンのトロッコ問題シリーズ・最終話。図書室で、別のクラスのアヤと、初めて出会う。立場が違う相手と話して、揺らぎが似ていた、と知る。けれど、形は違っている。違うまま、二人とも、考え続ける。「揺らぎは、似ていた。形は、違うままで、いい」がジュンのシリーズの最後の言葉。アヤとジュンの二つのトロッコ問題シリーズが、ここで合流し、それぞれの方向に、また、分かれていく。