茅野、高校二年、二組。木曜の放課後。和室を借りる手続きは、職員室の鍵箱の前で済ませた。鍵を受け取って、四階まで階段で上がった。三階と四階のあいだの踊り場で、一度立ち止まった。窓の外の桜の葉が、まだ青い。九月の最初の木曜だった。
和室の引き戸を開けて、中に入る。畳の冷たさが、靴下越しに伝わってくる。誰もいない和室の空気は、湿っているのか乾いているのか、入ってすぐにはわからない。鞄を、下座に置いた。
水屋に行って、鉄瓶に水を入れる。栓をひねる音と、水が金属に当たる音と、鉄瓶の重さが少しずつ増していく感覚が、ほぼ同時にある。鉄瓶を、和室に運び、火に掛けた。火は、ガス。コンロの青い火が、鉄瓶の底にあたる。
沸くまでの時間は、九分か、十分か、それくらい。家のキッチンの薄いやかんなら、五分もかからないが、鉄瓶は鉄が分厚いので、湯を沸かすのが遅い。遅いということは、待つ時間が長いということだった。
正座して、鉄瓶を見ていた。コンロの青い火の輪郭が、揺れている。鉄瓶の表面の鉄の肌に、青が映って、それが消えて、また映る。
湯が沸くまでの九分か十分のあいだ、私の手は、何もしていない。膝の上に置いてある。指は組んでいない。組まないで、ただ、置いてある。
稽古の時間は、所作の時間として数えられる。茶筅を振る、茶杓を持つ、湯を注ぐ。けれど、湯が沸くまでの待ち時間は、所作のうちに入っていない。所作の前段の、空白の時間。茶道の本にも書かれていない。書かれていないけれど、毎回、ある。
動かしていない手も、この九分のあいだ、何かをしている、と思った。何かを、しているわけではない、けれど、何もしていない、と言うのも、たぶん、違う。湯が沸く音を、聞いている、というほど、注意深く聞いているわけでもない。鉄瓶の鉄を、見ている、というほど、見ているわけでもない。
ただ、和室の空気のなかに、自分の手を、置いてある。
七分か八分、経ったころ、鉄瓶のなかから、最初の音が聞こえた。底のほうで、小さな泡が立ち始める音。沸騰の手前の、湯が動き出す音。聞こえる、と思った瞬間に、もう聞こえなくなって、また聞こえる。
この音が始まると、和室全体の音の構成が、変わる。窓の外の遠い車の音、廊下の蛍光灯の薄い唸り、自分の呼吸の音。それぞれが、鉄瓶の音を中心に、配置し直される。
配置、という言い方は、私の言い方ではない。けれど、配置、と書いてしまったので、消さずに置いておく。和室の音が、鉄瓶を中心に、組み直される、その感じが、いちばん近い。
湯の音が、本格的に立ち始めるまでには、もう一分か二分かかる。そのあいだ、私は、まだ、動かない。動かないで、聞いている。
湯が沸いた。鉄瓶の口から、白い湯気が立ち上がっている。火を、弱くした。すぐに点てるのではなく、湯の温度が、九十度を切るくらいまで、待つ。お茶のためには、沸騰の直後の湯は、熱すぎる。
待つあいだに、茶碗を、温める。茶碗の中に、湯を注ぐ。茶碗の縁を、両手で包む。陶器の冷たさが、湯の熱で、すこしずつ、消えていく。冷たさが消えるまで、待つ。それから、湯を捨てる。
茶杓で、抹茶を二すくい。茶碗のなかに、緑の粉が、円錐の形に積もる。湯を注ぐ。茶筅で、点てる。
点て終わるまでの動作は、いつもの動作だった。いつもの動作の、いつもさを、いま観察するつもりはなかった。動作のなかでは、観察しない。観察するのは、動作のあとか、動作の前。
飲んだ。
飲み終えた茶碗を、畳の上に置いた。両手は、もう、湯気を抱えていない。茶筅は、茶碗の脇に立てかけてある。
もう一服、点てるかどうかを、決めかねた。決めかねている時間が、また、空白の時間として、和室のなかに広がる。湯が沸くまでの空白とは、別の質の空白。あちらは、所作の前の待ち。こちらは、所作の終わったあとの、次の所作までの間。
畳の上に、夕方の光が、傾いて入ってきていた。光のなかに、ほんの少し、緑の粉の粒が、浮いて見える。茶杓で抹茶をすくったときに、舞った粉。気がつかないうちに、空気のなかに散らばっていた。光に当たって、初めて見える。光が傾かなければ、見えなかった。
見えていない粉が、いつも、和室の空気のなかに、浮いている。私が動くたびに、私が見えていないところで、粉は配置を変える。動く、ということは、見えていないものを動かす、ということでもあった。
二服目を、点てなかった。点てる気配が、自分のなかから、消えていた。一服で、十分だった、というのとは、違う。十分かどうかは、わからない。ただ、二服目を点てる、という動作の手前で、手が、止まっている。
止まっている手を、もう少し、止まったままにしておくことにした。鉄瓶の火は、もう消してある。湯は、まだ温かい。残っている湯は、片付けのときに、捨てる。捨てるのも、何分か先のことで、いま、すぐではない。
畳の上の、傾いた光が、ゆっくり移動していく。窓の角度に対して、光の差し込みが、刻々と変わる。秒で見えるほどではないが、十分前の光と、いまの光は、違う。違うということは、十分前の和室と、いまの和室も、違うということだった。
違う和室のなかで、私の手は、まだ膝の上にある。動かしていない。動かしていない手のあたりにも、見えていない粉は、たぶん、薄く、浮いている。
立ち上がる前に、もう一度、和室全体を見渡した。茶碗、茶筅、茶杓、棗、鉄瓶。位置は、点てる前と、ほぼ同じ。ほぼ、と書いて、まったく同じではない、ということを、思った。茶碗は、飲んだぶん、位置がわずかに動いた。茶杓も、抹茶をすくったあと、置き直したときに、最初の位置から数ミリずれている。
数ミリずれている、ということを、片付けで戻す。戻す動作のなかで、和室は、点てる前の状態に近づく。近づくが、たぶん、完全には戻らない。戻らないまま、和室を、次の人に渡す。
次の人が、いつ来るかは、わからない。明日かもしれないし、土曜かもしれない。来たときに、和室の空気は、私が出ていったときの空気と、もう違っている。違ったまま、その人が、湯を沸かす。鉄瓶の前で、九分か十分、動かさない手を、その人も、膝の上に置く。
置いている時間が、私の九分と、その人の九分で、たぶん、似ていて、少し違う。
片付けを終えて、和室を出た。鍵を職員室に返すまでに、四階から一階まで、階段を降りる。三階と四階のあいだの踊り場で、行きと同じ場所で、もう一度立ち止まった。窓の外の桜の葉は、行きと同じ青さ、ではなかった。十分か、二十分のあいだに、葉のうえの光が変わっていた。
明日も、稽古がある。明日の私の手は、いまの私の手と、わずかに違う。違うけれど、湯が沸くまでの九分のあいだ、膝の上に置いてある、ということは、たぶん同じ。同じことのなかに、違いが、混じっている。混じっていることを、確かめるために、明日も、踊り場で、一度立ち止まる、かもしれない。
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本作は茅野のことばのメモ #1 の書き直し版(v2)。v1 の「千回」の自負、五服のカウントアップ、four-word の英語比較、岡野先生の語彙引用、「違う、で、止める」「それで、十分だった」の決め台詞——を撤去。代わりに、お手前そのものではなく、湯が沸くまでの九分の空白の時間と、一服を点てたあとの空白の時間に、舞台を振った。動かしていない手の時間。和室の階段の踊り場で立ち止まる、行きと帰りの二回。岡野先生は登場しない。徳倫理の「性向の習慣化」を、所作の時間ではなく、所作の手前と所作のあとの空白の時間に、薄く漏らす書き直し。