茅野、高校二年、二組。木曜の放課後、四階の和室。自主練のために、和室を借りていた。シズクは、別の用事で、来ていない。窓の外は、五時前の、薄い水色。畳の縁の、布の織り目が、傾いた光で、はっきり見えていた。
湯を、沸かす。茶碗を、温める。茶杓で、抹茶を、二すくい。湯を、注ぐ。茶筅で、点てる。一服、点て終えた。所作は、いつもの所作だった。
飲んだ。
もう一度、同じ手順で、点てた。所作は、いつもの所作だった。
飲んだ。
もう一度、点てた。
これで、三服。今日の自主練の、予定の数は、決めていなかった。けれど、もう少し、続けるつもりだった。
同じお茶を、何回、点てるのか。何回、点ててきたのか。茶道部に入って、二年。週三回の稽古に、家での自主練を足して、おそらく、千回は、超えている。千回のうちの、今日の三服は、千一回目、千二回目、千三回目、ということになる。
千を超えて、まだ、続けている。続ける、ということが、私の稽古の形だった。けれど、続けている所作は、本当に、同じ所作なのか、と、ふと、思った。
千一回目と、千二回目を、並べて、思い出してみた。
湯の温度は、たぶん、わずかに違う。鉄瓶を、火から離すまでの、秒数の感覚が、回ごとに、揃わない。茶筅を振る速さも、揃わない。指の力も、その日の、体調と、気温と、湿度と、関係していて、揃わない。茶碗の中の、お茶の、表面の、緑の泡の、立ち方も、揃わない。
同じ、と、思って、点てている。けれど、同じ、では、ない。
そのずれは、見ようと思わないと、見えない。見ようと思っても、たぶん、半分くらいしか、見えない。残りの半分は、見えないまま、所作の中に、混ざっている。
混ざったまま、続いている。
英語の授業で、「同じ」を意味する単語が、いくつかあると、習ったことがあった。"the same" と "identical" は、似ているけれど、少し違う。"identical" のほうが、隙間なく、ぴったり重なる感じ。"alike" は、似ているけれど、別物、という感じ。"similar" は、もっと、ゆるい。
千一回目のお手前と、千二回目のお手前は、英語で言うと、どれに、近いのだろう。
"identical" では、ない。完全に重なる、ということは、たぶん、起きていない。"the same" は、近いけれど、何かが、足りない気がする。"similar" は、ゆるすぎる。
どれにも、当てはまらない。同じ、という日本語の、薄い幅のなかに、英語の単語の、どれも、半分ずつ、入っている、というほうが、近い。
当てはまらない、で、止める。それで、十分だった。
四服目を、点てた。
湯を、注いだとき、湯の落ちる音が、三服目のときよりも、低い気がした。鉄瓶の中の、湯の量が、減ってきたから、かもしれない。減ると、注ぐ角度が、わずかに、変わる。角度が変わると、落ちる音が、変わる。音が変わると、点てている自分の、耳の構えが、変わる。
耳の構えが変わると、茶筅の、振り方の、間が、変わる、気がした。気がした、というのは、自分でも、はっきりとは、わからない、ということだった。
四服目は、いままでで、いちばん、整って、見えた。整って見えた、というのは、自分の主観だった。見ている人が、いない。だから、整って見えた、というのは、私の中で、起きたこと、だった。
私の中で、起きたことは、私の所作の、薄い層の中に、混ざる。混ざって、次の所作の、土台になる。
上達、という言葉を、ふと、思った。茶道で、上達、という言葉は、あまり、使わない。岡野先生も、上達、と言ったことは、たぶん、ない。「整ってきた」「深まった」「変わった」、こういう言葉を、使う。
上達、というのは、下から上に、はっきり、登っていく、という感じがする。階段を、一段、上がる、ような。けれど、千一回目から千二回目への、わずかな、ずれは、階段では、ない。
平らな床の上を、ただ、歩いていくような、所作の繰り返しのなかで、ある日、ふっと、自分の、足の置き方が、少しだけ、変わっていることに、気づく、という感じ。気づいたときには、もう、変わっている。気づく前から、たぶん、変わっていた。
意識して、変えようとしたところは、たぶん、変わらない。意識せずに、繰り返したところが、いつのまにか、変わっている。
これが、上達、というものとは、違う、何か、なのかもしれない。違う、で、止める。
五服目を、点てた。鉄瓶の湯が、ちょうど、最後の一服分くらいだった。
五服目の所作は、四服目とも、三服目とも、たぶん、同じではなかった。けれど、同じ、ではない、ということを、五服目の途中では、考えなかった。考えずに、点てた。
飲んだ。
飲み終わってから、思った。同じお茶を、五回、点てた。一回ごとに、わずかに違った。違ったけれど、五回とも、私が点てた、お茶だった。
馴染ませた、馴染んだ、馴染んでいる。動詞の、語尾が、変わる。語尾が変わるあいだに、千回が、過ぎていた。
道具を、片付ける。茶筅を、湯ですすぎ、立てておく。茶碗を、清める。茶杓を、ふく。棗の蓋を、確かめて、閉じる。鉄瓶の中の、残った湯を、捨てる。
片付けの所作も、毎回、微妙に違うのだろう。違うけれど、千回続けてきた、片付けだった。和室を、借りた時の状態に、戻す。戻したつもりで、和室を出る。
戻した、と、思っているけれど、たぶん、完全には、戻っていない。私が、五服点てたあとの和室は、点てる前の和室とは、何かが、違う。空気の、湿り方が、違うかもしれない。畳に、私の、座っていた跡が、ほんの少し、残っているかもしれない。
違うまま、和室を出る。違うまま、明日も、稽古に来る。
同じお茶を、明日も、何回か、点てる。点てるあいだに、わずかに、違う。違いながら、続く。同じ、ということの、薄い幅のなかに、違いが、毎回、入っている。それで、十分だった。
→ v2(書き直し):同じお茶を、何回
→ 辛口レビュー:v1の問題点と改善方針
→ 次話:道具の、しまい方(茅野のことばのメモ #2)
← 関連:話しかけない(茅野のトロッコ問題シリーズ最終話)
← 関連:茅野のトロッコ問題シリーズの種明かし
← 関連:所作の中で(茅野のトロッコ問題シリーズ #1)
← シリーズ目次に戻る
本作は、茅野のシリーズ番外編「ことばのメモ」の一作。茶道のお手前で、同じ動作を繰り返す。けれど一回として、同じ瞬間はない。千を超えた繰り返しのなかの、薄い揺らぎを、五服のあいだに、観察する。「同じ」を英語で言い換えようとして、どの単語にも、当てはまらない、と確かめる。上達、という言葉を、自分の所作には、当てはめない。意識せずに繰り返したところが、いつのまにか、変わっている、という観察。徳倫理の「性向の習慣化」を、断定せず、薄く、所作のなかに、漏らす番外編。(本作は第一稿。批判ページと第二稿あり。)