編集部メモ
本ページは、七話で完結した 『所作の中で』から『話しかけない』までの茅野のトロッコ問題シリーズの設計を、書き手側から開示するものである。アヤのシリーズの種明かし、ジュンのシリーズの種明かしと並ぶ、第三の裏側の地図である。
三つのシリーズを読み終えた読者には、本ページが、最後の楽屋裏として届くだろう。先に七話を読んでから戻ってきてもらえると、二度目の読みの入口が開く。
茅野のシリーズは、アヤ(義務論)とジュン(功利主義)の二シリーズが完結したあとに、始まった。きっかけは、読者の問いだった:
「次は徳倫理でいきたい。2組でジュンから認知されていない生徒を主人公にして」
この問いが、シリーズの構造を、決定的に変えた。アヤとジュンの二項対立——「答えを出さない/出す」「義務論/功利主義」——は、緊張感のある構造だが、同時に、対立に縛られていた。第三軸を立てると、緊張は、三角形の安定に、転位する。
徳倫理は、その第三軸として、最も適していた。アヤの「正解は出ない」も、ジュンの「正解は出る」も、どちらも「正解探し」という前提を共有している。徳倫理は、「正解探し」自体を、別の角度から見直す。「答えを出すか出さないか」ではなく、「日々の繰り返しの中で、自分が、どんな人になっていくか」が、徳倫理の関心である。
これは、アリストテレスの hexis——習慣化された性向——の伝統に立っている。同時に、日本の文化(茶道、武道、書道、礼儀作法)と、深く親和する立場でもある。書き手は、徳倫理を、アリストテレスの解釈ではなく、日本の高校生のリアルな日常——茶道部の稽古——に重ねて、立ち上げる方針を、最初から、決めていた。
茅野というキャラクターには、いくつかの設計上の意図が、織り込まれている。
シリーズは、徳倫理を、五つの次元で、徐々に拡張していく形で、組まれている。
| 話 | 場面 | 次元 | 核言語化 |
|---|---|---|---|
| #1 | 倫理の授業/茶道部の稽古/自宅 | 内 | 型を繰り返す、繰り返した型が自分を作る |
| #2 | 夜の台所、母にお茶を点てる | 外(家族) | 自分のための稽古と、誰かのための一服が、地続き |
| #3 | 母方の祖母の家 | 時間(縦) | すり切れたあとに、芯だけが、残る |
| #4 | 夏休みの和室、同期シズク | 横(対話) | 目指すことと、受け入れること、二つの稽古の入り口 |
| #5 | 商店街の和菓子屋「松風堂」 | 領域拡張 | 同じを続けるために、毎回、違うを選ぶ |
| #6 | お盆、親戚十人にお茶 | 一期一会×時間 | 四十年止めても、芯は残る、別の場所で結び直される |
| #7 | 二学期の教室 | 結語 | 続くことが、たどり着いたということ |
内→外→時間→横→領域→交差点→結語、という五次元の拡張は、徳倫理が、自分の中だけに閉じない、という一貫したテーマで、貫かれている。
七話のあいだに、茅野の中で、増えていった語彙——シリーズが残した徳倫理の道具箱:
注意深く読むと、これらの語彙は、すべて、動詞か、動詞由来の形容語彙である。アヤの「届く」「受け取る」、ジュンの「決まる」「整える」と同じく、茅野の語彙も、状態ではなく、動きとして、徳を、捉えている。
徳倫理は、しばしば、静的な性向として描かれるが、本シリーズは、徳を、繰り返される動きとして、立ち上げている。動きの繰り返しが、性向を、作る。性向は、止まっているものではなく、動き続けているものである。
本シリーズが、アヤとジュンの二シリーズに、第三軸として加わったことで、三シリーズの全体は、三角構造を獲得した。
| アヤ | ジュン | 茅野 | |
|---|---|---|---|
| 立場 | 義務論 | 功利主義 | 徳倫理 |
| 起点 | 「数にしたくない」 | 「答えは、出る」 | 「型を、繰り返す」 |
| 軸 | 何が正しいか | 何が結果として最善か | どう生きるか |
| 結語 | 納得しないまま、考え続けます | 合理性の幅は、広がる | 続くことが、たどり着いたということ |
| 他者との関係 | ミウとの共同探究/ジュンとの偶然の出会い | ハルへの分析/アヤとの揺らぎの交換 | 森田・アヤに、話しかけない |
とくに最後の行——他者との関係——が、三シリーズの最も重要な差異点である。
三シリーズが、三人の出会いで合流する、というのは、文学的な王道である。書き手も、当初、茅野シリーズの最終話を、文化祭での三人合流場面で、書こうと考えていた。けれど、読者の指示——「森田とアヤとの交流はしない。茅野の頭の中で交流するのは良い」——によって、設計が変わった。
変わった結果、シリーズは、より徳倫理的に、なった。徳倫理は、関係を結ばないことも、選択する。話しかけない、ということが、徳の、ひとつの形である。三人が、別々のまま、それぞれの場所で続ける、という光景が、シリーズの結語として、立ち上がった。
最終話 kayano-07『話しかけない』は、シリーズの最も静かな閉じ方である。
二学期の最初の月曜日。教室の窓側、後ろから二番目の席で、茅野が、教室の前のほうに座っている森田を、観察する。話しかけてみよう、と一瞬思う。けれど、立ち上がらない。立ち上がらないことを、自分の選択として、引き受ける。
その理由を、茅野は、頭の中で、丁寧に言語化する:
「森田は、自分の、即答が、誰かの、稽古の、きっかけになった、ということを、知らなくても、生きていける。森田の、即答は、森田自身の、繰り返しの、結果として、出たもの。私の、稽古は、私自身の、繰り返しの、結果として、深まったもの。二人の、繰り返しは、別々に、進んでいる」
「もし、私が、森田に、話しかけたら、二人の、別々の繰り返しが、ひとつの、繰り返しに、混ざりはじめるかもしれない。混ざる、ということが、悪いこと、ではない。けれど、混ざる、ことを、選ぶ前に、別々に、深める時間が、もっと、必要なのかもしれない」
これは、社交的な遠慮や、内向性の言い訳では、ない。徳倫理の、積極的な選択である。
そして、茅野は、頭の中で、隣のクラスのアヤさんのことも、考える:
「知らない、という関係が、悪いこと、ではなかった。知らないまま、それぞれの場所で、稽古を、続ける、というのも、ひとつの、関係の、形だった」
これが、茅野シリーズの、最も独特な発見である。アヤとジュンの両シリーズは、「他者と出会うこと」を、関係の前提としていた。茅野は、「他者と出会わないこと」も、関係の一形態として、立てる。
関係は、出会いだけで、成立するものでは、ない。出会わないまま、お互いに、別の場所で、続ける、というのも、関係である。これが、徳倫理の、最も深い場所、なのかもしれない。
本シリーズで、書き手が個人的に挑戦したことが、ひとつある。茅野を、男性として確定して書ききること。
ジュンのシリーズの種明かし(jun-tane)に、書き手の備忘『男性を魅力的に書けない』への参照を、書いた。書き手は、男性キャラクターを、立ち上げにくい、という自覚があった。打開策として「男性として確定して書ききった一人称独白」が、未着手の課題として、明示されていた。
茅野は、この課題への、書き手の応答である。茅野は、性別を曖昧にしないで、男性として書いた。茶道部の男子という、ステレオタイプを覆す配置で、書いた。一人称「私」、文体は丁寧、所作的、自己懐疑的だが、押しつけがましくない。これらの設定は、書き手が、男性キャラクターを、新しい温度で、立ち上げる試みだった。
うまく書けたかどうかは、書き手には、最終的には、わからない。けれど、書きにくい、と感じていた領域に、書ききった、という事実は、書き手の中に、残った。残ったことが、書き手の、これからの稽古の、芯に、なる。
これは、シリーズ内のテーマと、書き手の現実が、重なった、唯一の場所でもある。
ジュンのシリーズの種明かし(jun-tane)で、書き手は、シリーズの限界として、統計的差別の問題を、明示した。「数学研究会の女子(ハルカ・ミナ)が、目立たない」「議論を主導するのは男性、という無意識のステレオタイプが、すり抜けていく」という自覚である。
茅野シリーズでは、この自覚を、別の角度から、扱っている。
男性(茅野、和菓子屋の店主、お盆のおじさん、岡野先生)と、女性(シズク、母、祖母)が、ほぼ同数登場し、それぞれが、独立した徳倫理の主体として、立っている。これは、書き手が、ジュンのシリーズの限界を、茅野シリーズで、補正する試みでもあった。
とはいえ、茶道部=女性が多い、というステレオタイプも、書き手は、利用してはいない(むしろ茅野は男子)。一方で、和菓子屋の店主を男性、岡野先生を「先生」(性別不明示)にした、という細部もある。完全には、ステレオタイプから自由ではないが、意識的に、配置している。
本シリーズで、書き手が最も伝えたかったことは、ひとつである:
徳は、続けることである。
正解を出すこと(功利主義)でも、正解の不在に納得しないこと(義務論)でも、ない。続けること、繰り返すこと、繰り返した結果として、自分が、誰かに、なっていくこと。これが、徳倫理の核であり、本シリーズが、最後にたどり着いた場所だった。
続ける、というのは、地味な行為である。即答するジュンも、職員室に駆け込むアヤも、それぞれ、目立つ行為だった。茅野は、目立たない。茅野は、毎日、和室で、お茶を、点てている。点てる、というのは、誰の目にも、留まらない、繰り返しの、行為である。
けれど、繰り返しの先に、芯が、残る。お祖母ちゃんが、五十年の稽古で、芯を、残したように。お盆のおじさんが、四十年点てていなくても、芯が、身体に、残っていたように。和菓子屋の店主が、九十年続く店の、所作で、芯を、生きているように。
芯は、見えない。見えないけれど、ある。それぞれの人の中に、ある。アヤの納得しなさにも、ジュンの合理性にも、茅野の所作にも、それぞれの形で、ある。
「揺らぎは、似ていた」(jun-07)「形は、違うままで、いい」(jun-07)に対して、茅野シリーズの結語は、「続くことが、たどり着いたということ」(kayano-07)である。続ける、ということが、たどり着く、ということ。これは、形容矛盾のように、見える。けれど、徳倫理にとって、続けることと、たどり着くことは、地続きである。
三シリーズの結語は、別の言葉で、同じ場所を、指している、はずである。
三シリーズは、ここで、すべて、完結した。けれど、シリーズ群の世界線は、続けようと思えば、続けられる。
これらは、書き手の道具箱の中に、残されている。いつか、書く価値が出てきたら、書く。書かなくても、シリーズは、ここで、十分に、閉じている。
本シリーズと、アヤのシリーズと、ジュンのシリーズの、三つすべてを読み終えた読者には、以下の楽しみが、待っている。
三シリーズは、別々のシリーズとして書かれたが、同時に、ひとつの大きな絵の、三枚の絵として、機能している。どの絵から見ても、他の二枚が、新しい光で、立ち上がる、設計になっている。
立場が、違う三人が、別々の場所で、別々の形で、続けている。続けている、ということが、共通している。共通しているのは、続ける、という動詞だけ。けれど、それで、十分なのかもしれない。
これが、三シリーズが、最後に、読者と、交わしたい、応答である。
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← アヤのシリーズ最終話:火曜の三限、もう一度
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← 関連:男性を魅力的に書けない(書き手の備忘・茅野はこの打開策の実装でもある)
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