中島、高校二年、四組。火曜の昼休み、隣の席のやつが教室に来ていた。今週は、月曜から、来ていた。机の上に、コンビニのパンの袋が置いてあった。袋は半分ひらいていて、中身は、半分残っていた。
隣の席のやつが、ぽつりと「昨日、よく寝られた」と言った。
俺は「うん」と返した。
「うん」は、自分でも、出るとは思っていなかった。
正確には、「うん」が出る前に、別のことばが、頭のなかで一瞬、立ち上がっていた。「よかったな」と、「そうか」と、「眠れない日もあるよな」。三つくらいが同時にちらついて、どれを出すか決まらないまま、口は先に動いた。決まらないまま動いた口から、「うん」が出た。
出たあと、隣の席のやつは、続きを言わなかった。「昨日、よく寝られた」だけで、話を終えた。窓の外で、四階の渡り廊下を、別のクラスの誰かが走っていく音がした。
「うん」と返したら、ふつう、相手は続きを話す。「うん」は、続きを引き出す相づちだ、と、たぶん中学校のころに国語の授業で習った気がする。聞いてるよ、続けて、という意味の音。
けれど、隣の席のやつは続けなかった。続けなかったということが、その場で、すこし、わかりにくかった。「うん」を、相づちとして受け取らなかった、ということなのか。それとも、「よく寝られた」をそれだけで完結している、と本人が思っていて、こちらの「うん」は、続きを引き出すためじゃなく、ただ受け取るためだけに出ていた、と、隣の席のやつのほうが、こちらより先に気づいていたのか。
たぶん後者だった。後者だった、と思うのは、隣の席のやつが、「うん」のあと、こちらを見なかったからだった。続きを話したいときの人は、相手の顔を、ちらっと見る。隣の席のやつは、机の木目を見ていた。木目を見たまま、コンビニのパンの袋を、また半分閉じた。
「うん」は、続きを引き出さない「うん」だった。引き出さなかったのは、こちらが意図して引き出さなかったわけじゃない。引き出さなかったのは、たぶん、相手が引き出されなかったからだった。出した側ではなく、受け取った側が、その「うん」の働きを決めた。
「うん」のあと、何か付け足したくなった。「眠れない日もあるよな」を、出しそびれたまま、口のなかに残っていた。出すか、と一瞬迷った。
出さなかった。出すと、「昨日、よく寝られた」を、その手前にあるはずの「眠れない日が続いていた」のほうに、こちらが引き戻すことになる。隣の席のやつが、よく寝られた一日のほうを差し出してきたなら、こちらは、よく寝られた一日のほうを、そのまま受け取るのが、たぶん正しかった。
正しかった、というのは、強い言葉だった。正しかったというより、それが、いま、ここで、こちらができることだった。眠れない日もある、ということを、こっちが知っていることは、隣の席のやつもたぶん知っている。知っていることを、わざわざ言葉にして渡し直すと、隣の席のやつは、その言葉を受け取り直すための仕事を、もう一回しなくちゃいけない。仕事を増やすのは、たぶん、違った。
それで、「うん」のあと、何も付け足さなかった。付け足さなかった「うん」が、机のあいだに、しばらく、薄く、転がっていた。
五限のチャイムが鳴った。隣の席のやつは、パンの袋をリュックに入れた。袋の中身は、結局、半分残ったままだった。
俺は、自分の弁当箱を、机の引き出しにしまった。しまうときに、もう一度、「眠れない日もあるよな」が、口のなかにちらっと戻ってきた。戻ってきたけれど、五限の英語のテキストを開いたら、消えた。
「うん」は、出してしまえば、口のなかに残らない言葉だった。残らないから、何度でも出る。何度でも出るから、自分でも、いつ、どの「うん」を、誰に、出したのか、覚えていない。
覚えていないけれど、覚えていない「うん」が、毎日、隣の席のやつとのあいだに、何回か、転がっている。転がったまま、誰にも片付けられないで、机のあいだの空気のなかに、薄く、いる。それが、続けることに、たぶん、なっている。
水曜の朝、教室の入り口で、隣の席のやつが先に来ていた。机のところで、リュックから、教科書を出していた。
俺は、「おはよう」と言った。
隣の席のやつは、こちらを見て、「うん」と言った。
こちらの「うん」じゃなくて、向こうの「うん」が返ってきた。返ってきた「うん」は、たぶん、「おはよう」の応答として出ていた。けれど、その「うん」のなかに、昨日の昼休みの「うん」が、ちらっと、薄く、混ざっている気がした。混ざっている、というのは、こちらの聞き取りで、隣の席のやつが意図したかどうかは、わからない。わからないけれど、あの「うん」は、続いていた。昨日、机のあいだに転がしたまま片付けなかった「うん」を、向こうが、朝、こちらに返してきた、ような気がした。
気がしただけで、そのまま、自分の席に座った。鞄を置いて、教科書を出した。隣の席のやつは、もう、ノートを開いていた。
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本作は中島のシリーズ番外編「ことばのメモ」第一作の書き直し版(v2)。v1の七場面同音並列、機能命名構文(「これは○○の『うん』だった」)、英訳セクション、夜の机の独り言での結尾——を撤去。代わりに、火曜の昼休みに隣の席のやつに返した「うん」一回を、深く見る。続きを引き出さなかった「うん」、付け足さなかった「うん」、机のあいだに転がしたまま片付けなかった「うん」。結尾は夜ではなく、翌朝の教室の入り口で、向こうの「うん」が返ってくる場面で閉じる。一回の「うん」が、時間をまたいで、もう一度、別の口から出てくる、その続き方。