編集部メモ
本ページは、七話で完結した 『おはよう』から『俺は、そこにいた』までの中島のトロッコ問題シリーズの設計を、書き手側から開示するものである。アヤのシリーズの種明かし、ジュンのシリーズの種明かし、茅野のシリーズの種明かしと並ぶ、第四の裏側の地図である。
四つのシリーズを読み終えた読者には、本ページが、最後の楽屋裏として届くだろう。先に七話を読んでから戻ってきてもらえると、二度目の読みの入口が開く。
中島のシリーズは、アヤ(義務論)、ジュン(功利主義)、茅野(徳倫理)の三シリーズが完結したあとに、始まった。きっかけは、読者の問いだった:
「次に別の倫理観の生徒を出すとしたらどんな生徒?」
三シリーズは、それぞれ独立した倫理観を立てていたが、共通点がひとつ、あった。すべて、個人レベルの倫理だった。アヤの「私が、納得できるか」、ジュンの「結果として、合理的か」、茅野の「私の、所作が、整っているか」——主語は、すべて「私」。動詞は、すべて、自分の中で完結する。
第四軸を立てるなら、ここを、ずらす必要があった。「私」だけでは、捉えきれない、もうひとつの倫理。それが、ケアの倫理だった。
ケアの倫理(ギリガン、ノディングス)は、「正しさ」を、抽象的な原理ではなく、関係性の中で立ち上がるものとして、捉える。目の前の、特定の他者に、応える。応え続ける。判定を下さず、聞き続ける。原理の適用ではなく、関係の維持。
この立場は、三シリーズが共有していた「個人で考える」「個人で続ける」という前提を、別の角度から、ずらす。中島の動詞は、「考える」でも「広がる」でも「続ける」でもなく、「応える」「いる」「続ける(関係として)」になる。
中島というキャラクターには、いくつかの設計上の意図が、織り込まれている。
シリーズは、ケアの倫理を、五つの関係領域で、徐々に拡張していく形で、組まれている。
| 話 | 場面 | 関係領域 | 核言語化 |
|---|---|---|---|
| #1 | 木曜の三限・教室の隣の席 | クラスメイト | 大きな介入と、放っておく、のあいだに、続ける、がある |
| #2 | 用具室、バスケ部の後輩 | 部活の縦の関係 | 答えを出さないことも、応えになる/「うん」「分からない」 |
| #3 | リビング、妹と、隣のおばあちゃん | 家族と、家族の見る場所 | ケアは独占しない、分担もしない、それぞれの動線で見る |
| #4 | 夜のLINE、翌朝の空席 | 関係の双方向性 | 「かも」を約束に変換しない、たまたま、というのが関係の本当の形 |
| #5 | 通学路、犬の散歩のおじさん | 街の他人 | 見ていなかった人が、見えるようになる/決めなくても、続いていく |
| #6 | 休み時間、隣の席のやつの謝罪 | 受け取り方 | 第三の応え方/結果と、続けたことを、結びつけない |
| #7 | 十二月の木曜の三限 | 結語 | 俺は、そこにいた/続けることが、いること |
個人→部活→家族→双方向→街→受け取り→結語、という拡張は、ケアの倫理が、自分の中だけに閉じない、また、特定の関係に固着しない、という一貫したテーマで、貫かれている。
とくに、#3「家族の、別々の動線」と、#5「街の他人」は、ケアの倫理が、しばしば批判される「身内びいき」「特定の関係への偏り」を、構造的に、ずらす設計になっている。中島のケアは、独占せず、分担もせず、自分の生活の動線で、たまたま、見える相手に、応える。
七話のあいだに、中島の中で、増えていった語彙——シリーズが残したケアの倫理の道具箱:
注意深く読むと、これらの語彙は、すべて、関係動詞か、関係副詞である。アヤの「届く」「受け取る」、ジュンの「決まる」「整える」、茅野の「整う」「馴染む」が、自分の中で完結する動詞だったのに対し、中島の語彙は、必ず、相手を、想定している。
ケアの倫理は、しばしば、感情的なもの、共感的なもの、として描かれるが、本シリーズは、ケアを、関係動詞の繰り返しとして、立ち上げている。動詞の繰り返しが、関係を、保つ。関係は、感情の問題ではなく、繰り返しの問題である。
本シリーズが、三シリーズに、第四軸として加わったことで、シリーズ群の全体は、四角構造を獲得した。
| アヤ | ジュン | 茅野 | 中島 | |
|---|---|---|---|---|
| 立場 | 義務論 | 功利主義 | 徳倫理 | ケアの倫理 |
| 起点 | 「数にしたくない」 | 「答えは、出る」 | 「型を、繰り返す」 | 「隣の席が、空いている」 |
| 軸 | 何が正しいか | 何が結果として最善か | どう生きるか | 誰に応えるか |
| 動詞 | 考え続ける | 広がる | 続く(型) | 応える/いる |
| 結語 | 納得しないまま、考え続けます | 合理性の幅は、広がる | 続くことが、たどり着いたということ | 俺は、そこにいた |
| 焦点 | 個人の判断 | 結果の最大化 | 性向の習慣化 | 関係性の維持 |
| 他者との関係 | ミウとの共同探究/ジュンとの偶然 | ハルへの分析/アヤとの揺らぎの交換 | 森田・アヤに、話しかけない | 目の前の人に、声をかけ続ける |
とくに最後の二行——焦点と他者との関係——が、四シリーズの最も重要な差異点である。
茅野が「話しかけない」を選んだのに対して、中島は「話しかける/声をかけ続ける」を、選ぶ。両者は、逆方向の選択である。けれど、両方とも、それぞれの倫理観として、正しい。徳倫理は、自分の所作を深めるために、関係を、ある距離で保つ。ケアの倫理は、関係を絶やさないために、繰り返し、声をかける。
四シリーズが、別々のシリーズとして書かれたが、同時に、ひとつの大きな絵の、四枚の絵として、機能している。どの絵から見ても、他の三枚が、新しい光で、立ち上がる、設計になっている。
本シリーズで、書き手が、最も時間をかけて、設計した場面が、ある。第6話 nakajima-06『謝らなくて、いい』の、休み時間の、五分の対話である。
隣の席のやつ:「最近、来てなくて、ごめん」
中島:「謝らなくて、いい」「ふつうに、来て、ふつうに、また、おはよう、と、言うだけだから、こっちは」
これは、書き手が、ケアの倫理の独自性を、最も明確に、立ち上げた場面である。一般に、謝罪に対する応えは、「受け取る(許す)」か「受け取らない(拒否する)」の、二択で、考えられる。けれど、ケアの倫理では、両方とも、関係を、歪める。
「許す」は、相手を、「申し訳ないことをした」と、確定させる。これは、相手の責任感を、こちらが、固定する、ということだった。「拒否する」は、相手の動きを、消す。これも、関係を、断ち切る。
第三の応え方は、両方を、ずらす。「謝らなくて、いい」は、謝罪を、否定しない(「謝罪は、要らない」とは言わない)。同時に、許可も、与えない。「ふつうに、来て、ふつうに、おはよう」は、続ける、ということを、伝える。続ける、というのは、責めない、特別扱いしない、という二重の否定を、ひとつの肯定文で、表現する。
これが、ケアの倫理の、独自の応え方である。判定でも、許しでも、拒否でも、ない。続ける、ということで、応える。続ける、ということが、関係そのものに、なる。
この場面の設計に、書き手は、最も時間をかけた。台詞の、ひとつひとつ、語尾の、ひとつひとつを、何度も、削った。削った結果、残ったのが、上記の、短い言葉だった。
本シリーズの、もうひとつの核は、第7話の、最後のほうに、置かれている:
「これらは、それぞれ、それぞれの場所で、それぞれの理由で、起きたり、起きなかったり、している。俺の、続けたこと、とは、たぶん、ほとんど、関係がない。」(nakajima-07)
隣の席のやつが、十一月の終わりから、ほぼ毎日、来るようになった。これは、中島が、続けた結果、なのか。中島は、それを、自分の手柄、にしない。「続けたから、来るようになった」というのは、押しつけだ、と、中島は、考える。
この、結果を、自己の手柄に、変換しない、という性向は、ケアの倫理の、しばしば見落とされる、しかし、最も大事な、特徴である。ケアは、しばしば、「相手のためにやってあげる」という、自己肯定の、装置に、なりやすい。けれど、それは、ケアではなく、自己の、ナルシシズムである。
本物のケアは、結果が、起きても、起きなくても、こちらの、続けることが、変わらない。結果が、起きたら、それは、相手のところに、起きる。結果が、起きなくても、こちらの、続けたことは、こちらの中に、残る。
「結果と、こちらの続けたことを、結びつけない」(nakajima-06)は、シリーズ全体の、倫理的な背骨に、なっている。これが、中島が、ヒロイックではない、理由でもある。中島は、誰も、救わない。中島は、ただ、いる。いることが、自分の、応え方の、すべて。
最終話 nakajima-07『俺は、そこにいた』は、シリーズの、すべての場面を、振り返る、構造になっている。
十二月の木曜の三限。鈴木先生の倫理の授業。トロッコ問題は、ずっと前に、終わっている。中島は、ノートの上で、シャープペンを、止めて、頭の中で、四ヶ月の、いくつかの「そこ」を、思い出す。
これらの、六つの「そこ」が、最終話の中で、ふっと、並ぶ。中島は、それぞれの場面で、何かを、決定的に、したわけじゃ、なかった。隣の席のやつを、教室に戻したわけじゃ、ない。ヤマモトを、レギュラーに押し上げたわけじゃ、ない。妹のおばあちゃんを、ゴミの日に、間違えなくさせた、わけじゃ、ない。
けれど、中島は、いた。それぞれの「そこ」に、いた。いた、というのは、「その場面に、自分の、身体と、意識を、置いていた」ということ。
そして、構造的に重要なのが、この最終話のサブタイトル「木曜の三限、もう一度」が、アヤの最終話 trolley-09「火曜の三限、もう一度」と、対称になっていること、である。アヤは、火曜の三限——一組の倫理の授業——に、最初の場面に、戻ってくる。中島は、木曜の三限——四組の倫理の授業——に、戻ってくる。鈴木先生は、四つのクラスで、別々の曜日に、同じ単元を、教えている。四つのクラスの、四人の生徒が、別々の曜日に、別々の倫理を、立ち上げた。
この時間割の構造が、四シリーズ全体の、隠れた、骨組みである。
本シリーズの、最も繊細な設計は、茅野シリーズとの、対比にある。両者とも、男子。両者とも、苗字のみ。両者とも、目立たない。両者とも、続けることに、徳を見る。けれど、続ける、の、対象が、違う。
| 茅野(徳倫理) | 中島(ケアの倫理) | |
|---|---|---|
| 続けるのは | 型・所作・自分の稽古 | 関係・応答・声かけ |
| 森田に対して | 話しかけない | (中島の関係外) |
| 隣の席が空いていたら | (茅野の関係外) | 明日もおはよう、を続ける |
| 後輩に「向いてない」と言われたら | (茅野の関係外) | 「うん」「分からない」と応える |
| 結果の解釈 | 続けることが、たどり着いたということ | 結果と、続けたことを、結びつけない |
| 焦点 | 自分の中の芯 | 相手のところの動き |
茅野は、自分の所作を、深めるために、続ける。続けた結果、自分が、誰かに、なっていく。中島は、関係を、絶やさないために、続ける。続けた結果、相手のところで、何かが、起きるかもしれないし、起きないかもしれない。起きたものを、自分の手柄に、しない。
両者は、補完的である。徳倫理が、自分の中に、芯を作る。ケアの倫理が、関係の、糸を、保つ。両方が、それぞれの場所で、必要である。書き手は、両者を、同じ性別(男子)の、違う倫理として、隣に、置いた。これは、男子の倫理の、複数性を、示す試みでもあった。
本シリーズで、書き手が個人的に挑戦したことが、もうひとつ、ある。「俺」を、押しつけがましくない、温度で、書ききること。
「俺」は、男子的な一人称の、ステレオタイプの代表である。横柄、断定的、自己中心的——書き手は、「俺」を、こうしたステレオタイプから、引き剥がしたかった。茅野シリーズで、男子(茅野)の「私」を、所作的・自己懐疑的に書いた。中島シリーズで、男子の「俺」を、応答的・自己抑制的に書く。両方が、男子の、別の温度である。
中島の「俺」は、短い文を、好む。長い解説を、避ける。「うん」「分からない」「おう」「お疲れ」——これらの、最小単位の応答が、中島の、語彙の、中心である。長く語ることを、選ばない。長く語ること自体が、押しつけになる、という、書き手の自覚が、中島の文体に、織り込まれている。
うまく書けたかどうかは、書き手には、最終的には、わからない。「俺」を、新しい温度で、立ち上げる、という試みが、どこまで、達成されたか、判定するのは、読者の仕事である。
ジュンのシリーズの種明かし(jun-tane)で、書き手は、シリーズの限界として、統計的差別の問題を、明示した。茅野シリーズでは、シズク・母・祖母、という女性キャラクターを、独立した徳倫理の主体として、配置することで、補正を、試みた。
中島シリーズでは、ケアの倫理が、しばしば、女性的なものとして、ステレオタイプ化される、という問題を、別の角度から、扱った。
男子(中島、犬の散歩のおじさん)と、女子(妹、母)と、性別不明示(ヤマモト、隣の席のやつ)が、ほぼ同数登場する。それぞれが、ケアの動線を、自分の生活の中に、持っている。ケアは、誰か特定の性別の、特権ではなく、誰もが、自分の動線で、行うものだ、という前提が、本シリーズには、織り込まれている。
「ケアは独占しない、分担もしない」(#3)は、シリーズ内のテーマとしても、書き手の、ジェンダー的な自覚としても、機能している。
本シリーズで、書き手が最も伝えたかったことは、ひとつである:
ケアは、いることである。
大きな決定(功利主義)でも、原理への忠実(義務論)でも、所作の深まり(徳倫理)でも、ない。いること、続けて、いること、相手の、目の前に、いて、続けること。これが、ケアの倫理の核であり、本シリーズが、最後にたどり着いた場所だった。
いる、というのは、地味な行為である。即答するジュンも、職員室に駆け込むアヤも、毎日お茶を点てる茅野も、それぞれ、見える行為だった。中島は、見えない。中島は、毎朝、隣の席に、いる。隣の席が、空いていても、いる。空いていなければ、おはよう、と、言う。これだけ。
けれど、いることの、繰り返しの先に、関係が、ある。隣の席のやつが、ぽつぽつ、来るようになる。ヤマモトが、明日も、練習に、来る。妹が、おばあちゃんを、見続ける。犬の散歩のおじさんが、「いい朝ですね」と、声をかけてくる。これらは、中島が、決めて、起こした、わけじゃ、ない。中島は、ただ、いた。いた結果、関係が、続いた。
四シリーズの結語は、別の言葉で、同じ場所を、指している、はずである。
| シリーズ | 結語 | 動詞 |
|---|---|---|
| アヤ | 納得しないまま、考え続けます | 考え続ける |
| ジュン | 合理性の幅は、広がる | 広がる |
| 茅野 | 続くことが、たどり着いたということ | 続く(型) |
| 中島 | 俺は、そこにいた | いる/続ける(関係) |
四つの動詞——考え続ける、広がる、続く、いる——は、別々の動詞だが、すべて、止まっていない。すべて、現在進行形である。倫理は、状態ではなく、動きの繰り返しである、という共通の前提が、四シリーズを、貫いている。
四シリーズは、ここで、すべて、完結した。けれど、シリーズ群の世界線は、続けようと思えば、続けられる。
これらは、書き手の道具箱の中に、残されている。いつか、書く価値が出てきたら、書く。書かなくても、シリーズは、ここで、十分に、閉じている。
本シリーズと、アヤのシリーズと、ジュンのシリーズと、茅野のシリーズの、四つすべてを読み終えた読者には、以下の楽しみが、待っている。
四シリーズは、別々のシリーズとして書かれたが、同時に、ひとつの大きな絵の、四枚の絵として、機能している。どの絵から見ても、他の三枚が、新しい光で、立ち上がる、設計になっている。
立場が、違う四人が、別々の場所で、別々の形で、続けている。続けている、ということが、共通している。共通しているのは、続ける、という動詞だけ。けれど、それで、十分なのかもしれない。
これが、四シリーズが、最後に、読者と、交わしたい、応答である。
← シリーズ最終話:俺は、そこにいた
← シリーズ第1話:おはよう
← 関連:アヤのトロッコ問題シリーズの種明かし(第一の裏側の地図)
← 関連:ジュンのトロッコ問題シリーズの種明かし(第二の裏側の地図)
← 関連:茅野のトロッコ問題シリーズの種明かし(第三の裏側の地図)
← アヤのシリーズ最終話:火曜の三限、もう一度
← ジュンのシリーズ最終話:揺らぎは、似ていた
← 茅野のシリーズ最終話:話しかけない
← 関連:会話劇五景——シリーズの裏の狙い
← 関連:男性を魅力的に書けない(書き手の備忘・茅野と中島はこの打開策の実装でもある)
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