中島、高校二年、四組。「うん」を、夜、数えてみた、あの日の、つづき。同じ日とは、限らない。別の日の、別の場面で、今度は「だいじょうぶ」が、何度か、出ていた。出ていたな、と、また、夜に、思い出した。
「うん」のときは、応えだけだった。今度の「だいじょうぶ」は、応えのなかでも、もう少し、複雑な動きを、している、らしい。
「風邪、だいじょうぶ?」と、母が言った。
昨日、夜中に、二回、咳をした。母は、隣の部屋で、聞いていたらしい。
「だいじょうぶ」と、俺は答えた。
これは、状態を、伝える「だいじょうぶ」だった。実際、熱はない。喉も、痛くない。咳が、二回、出ただけ。だから、「だいじょうぶ」と、返した。
母は、「そう」と、言って、味噌汁を、よそった。「そう」のあとに、何か、続けるかと、思ったけれど、続けなかった。続けなかった、ということは、母の側でも、たぶん、確認は、終わった。「だいじょうぶ」が、母のところに、届いて、確認の輪を、閉じた。
朝の「だいじょうぶ」は、こちらの状態を、相手に、渡す音だった。渡しても、相手が、それを、判定しないで、受け取ってくれる、ということが、わかっていると、出やすい。母は、判定をしない。判定をしないで、確認の輪を、閉じてくれる。だから、こっちは、嘘も、つかない。
カズが、隣に来て、「ノート、見せて、だいじょうぶ?」と、言った。
カズの「だいじょうぶ?」は、確認だった。許可を、求めている。「うん」とも、「いいよ」とも、答えられたけれど、出てきたのは、「だいじょうぶ」だった。
「だいじょうぶ」と、俺は、ノートを、机の上に、出した。
これは、許可の「だいじょうぶ」だった。「いいよ」より、薄い。「いいよ」だと、こっちが、ちゃんと、判定して、許可を、出している、感じになる。「だいじょうぶ」は、判定の手前で、止まる。「問題ない」を、ちょっとだけ、伝える音。許可、というよりは、障害物が、ない、ということを、こちらの側から、報告する。
カズは、「サンキュ」と、言って、ノートを、写し始めた。「だいじょうぶ」が、カズの、「だいじょうぶ?」と、ぴったり、噛み合った。同じ五音が、こちらは、確認、こちらは、許可、として、機能した。
練習が終わって、用具室で、ボールを、しまっていた。ヤマモトが、「中島さん、これ、運びますね」と、防具の入った、箱を、持ち上げようとした。重い箱だった。
「だいじょうぶ?」と、俺は、聞いた。
これは、確認の「だいじょうぶ?」だった。運べるか、を、聞いている。
「だいじょうぶです」と、ヤマモトが、答えた。
ヤマモトの「だいじょうぶです」は、状態の報告だった。運べる、と、伝えている。
同じ五音が、こちらの口から出るときは、確認の問い、ヤマモトの口から出るときは、状態の応え、として、機能していた。問いと、応えで、形が、違う。けれど、音は、同じ。
箱を、ヤマモトが、運んでいくのを、見送りながら、もう、ひとつ、聞いてみたくなった。「あの『だいじょうぶ』、ほんとに、だいじょうぶ?」と。聞かなかった。聞いたら、ヤマモトの、最初の「だいじょうぶ」を、こっちが、判定したことに、なる。判定しないで、受け取る。「うん」のときに、覚えた、応え方の、続きだった。
休み時間、隣の席のやつが、机の上に、ペットボトルを、置いていた。お茶の、ペットボトル。半分くらい、残っていた。
「もう、いらないんだけど、飲む?」と、隣の席のやつが、言った。
俺は、「だいじょうぶ」と、答えた。
これは、断りの「だいじょうぶ」だった。「いらない」を、直接は、言わない。「いらない」だと、相手の、申し出を、否定する、ことになる。「だいじょうぶ」は、こっちの状態を、伝えるだけ。「自分のは、足りている」とか、「いま、喉が、渇いていない」とか、そういうのを、薄く、含む。
隣の席のやつは、「そっか」と、言って、ペットボトルを、鞄に、戻した。
断ったけれど、隣の席のやつの、申し出を、否定したことには、なっていない、はずだった。「だいじょうぶ」が、申し出と、こちらの状態の、あいだに、薄く、立って、両方を、傷つけないで、終わらせている。
断りの「だいじょうぶ」は、たぶん、いちばん、よく使う「だいじょうぶ」だ。コンビニで、レジ袋を、聞かれたとき。家で、おかわりを、聞かれたとき。授業で、追加のプリントを、配られたとき。「いりません」より、「だいじょうぶ」のほうが、薄くて、出やすい。
家に帰って、リビングで、妹が、ソファに、寝そべっていた。テレビは、ついていなかった。
「だいじょうぶ?」と、俺は、聞いた。
妹は、目を、開けて、「だいじょうぶだよ」と、言った。
「だいじょうぶだよ」の、「だよ」が、薄く、強かった。「だよ」がないと、ただの、状態の報告。「だよ」が、つくと、相手を、安心させようと、している。
「ちょっと、疲れただけ」と、妹は、続けた。
俺は、「うん」と、返した。「だいじょうぶ」とは、返さなかった。妹の「だいじょうぶだよ」を、こっちが、また、「だいじょうぶ」で、受けると、五音が、二重に、なって、薄まる気が、した。「うん」で、受け取った、ということだけ、返した。
妹の「だいじょうぶだよ」は、自分への「だいじょうぶ」も、半分、混ざっている、気が、した。疲れた、と、言いながら、自分に、だいじょうぶ、と、言い聞かせている。それを、兄に、聞こえる声で、出している。聞こえる声で、出すと、自分のなかで、それが、ちょっと、固まる、という、ことがある、らしい。
夜、自分の部屋で、机に、向かった。明日、英語の、小テストがある。範囲を、開いて、読み始めた。半分まで来て、ふっと、不安に、なった。覚えきれていない単語が、何個か、ある。
「だいじょうぶ」と、俺は、自分のなかで、言った。
これは、自分への「だいじょうぶ」だった。誰に、向けても、いない。声には、出さない。頭の中で、薄く、五音が、流れた。
覚えきれていない単語が、ある、という事実は、変わらない。「だいじょうぶ」と、言ったからといって、急に、覚えるわけでも、ない。けれど、不安が、ちょっと、薄くなった。薄くなった、というのが、正確に、何が、起きたのかは、わからない。たぶん、「不安が、ある」ということを、自分で、認めて、それを、五音で、いったん、横に、置いた。横に、置いたから、また、単語の、暗記に、戻れた。
自分への「だいじょうぶ」は、自己鎮静、というやつ、らしい。授業で、聞いたか、本で、読んだか、忘れた。内容は、覚えていないけれど、五音は、出ていた。出ていて、それが、自分を、薄く、支えた。
「うん」のときと、同じように、英訳を、試みた。今日も、倫理のプリントの、裏に、書き出した。
母への「だいじょうぶ」は、"I'm fine" だった。状態の報告として、わりと、まっすぐ、訳せる。
カズへの「だいじょうぶ」は、"That's all right" あたりだった。許可、に、近いけれど、許可、より、薄い。
隣の席のやつへの、断りの「だいじょうぶ」は、"No, thanks" だった。これは、断り、として、はっきり、している。「だいじょうぶ」より、輪郭が、強い。日本語の側の、薄さは、英語に、移すと、消える。
三つ、訳して、やめた。妹の「だいじょうぶだよ」と、自分への「だいじょうぶ」は、訳さなかった。訳しにくかった、というよりは、訳すと、別のものに、なってしまう、気が、した。
「うん」のときと、似ていた。一語が、別々の場面で、別々の機能を、薄く、運んでいる。英語に、移すと、ひとつの場面、ひとつの機能、しか、拾えない。残りが、こぼれる。こぼれるけれど、こぼれても、いい。元の五音は、こぼれないで、こっちの口に、残る。
ベッドに、寝そべって、天井を、見ていた。今日の「だいじょうぶ」は、書き出してみたら、六つ。母に、カズに、ヤマモトに、隣の席のやつに、妹に、自分に。
状態の報告、許可、確認の問い、断り、相手への安心、自分への鎮静。同じ五音が、ぜんぶ、別の働きを、していた。「うん」のときも、似ていたけれど、「だいじょうぶ」のほうが、機能の、幅が、広い。「うん」は、応えだけ。「だいじょうぶ」は、問いにも、応えにも、自分にも、向く。
「うん」のとき、判定しないで、受け取る、というのが、何の倫理なのかは、わからない、と、書いた。「だいじょうぶ」も、たぶん、似た場所に、ある。「だいじょうぶ」は、状態を、薄く、伝える。伝えて、相手の、判定を、待たない。相手の、「だいじょうぶ?」も、こちらの、判定を、求めていない。状態の、軽い、確認。確認の輪を、閉じて、また、別のことに、戻る。
関係が、ちょっとずつ、続いている、というのが、こういう五音の、繰り返しの、上に、たぶん、ある。介入しないで、見捨てない。判定しないで、受け取る。「だいじょうぶ?」と、聞いて、「だいじょうぶ」と、返す。それで、確認の輪が、閉じる。閉じても、関係は、続く。明日、また、「だいじょうぶ?」と、聞かれたら、また、「だいじょうぶ」と、返す。
窓の外で、街灯が、ひとつ、灯った。
「だいじょうぶ」と、俺は、自分のなかで、もう一度、言った。
今日が、終わる、という、事実を、自分に、返す音。「うん」のときの、最後の「うん」と、ほぼ、同じ場所に、ある音。けれど、ちょっとだけ、違う。「うん」は、事実を、受け取る。「だいじょうぶ」は、その事実に、薄く、保証を、つける。今日が、終わる。終わっても、だいじょうぶ。明日も、たぶん、ある。たぶん、ある、ということに、五音だけ、薄く、被せる。
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本作は中島のシリーズ番外編「中島のことばのメモ」第二作。前作「『うん』のいくつか」と同じ夜の作法で、今度は「だいじょうぶ」を数える。母への状態の報告、カズへの許可、ヤマモトへの確認の問いと応え、隣の席のやつへの断り、妹への相手の安心、自分への鎮静——同じ五音が、別々の場面で、別々の機能を、薄く、運んでいる。英訳を三つだけ試みて、妹と自分の分は、訳さない。「だいじょうぶ?」と聞いて「だいじょうぶ」と返す、確認の輪が閉じても関係は続く、というケアの倫理の核が、五音の上で、もう一度、別の形で立ち上がる。「うん」と並ぶ、中島の応えの最小単位。(本作は第一稿。批判ページと第二稿あり。)