中島、高校二年、四組。十二月の、第二週。トロッコ問題の授業から、四ヶ月が経っていた。今日も、木曜の三限、倫理。鈴木先生が、別の単元を、教えている。窓の外の光は、夏よりも、ずっと、低く、教室の壁に、斜めに、差していた。
木曜の三限は、ずっと、倫理だった。九月から、十二月まで、毎週、同じ時間に、鈴木先生が、教室に、来る。トロッコ問題の単元は、もう、ずっと前に、終わっていた。今日は、別の、哲学者の話を、している。耳で、聞きながら、頭の中では、別のことを、考えていた。
隣の席は、隣の席のやつで、埋まっていた。十一月の終わり頃から、ほぼ毎日、来るように、なった。隣の席のやつは、ノートを、丁寧に、取っていた。鈴木先生の話を、まじめに、聞いている、ように、見えた。
俺は、ノートを、開いてはいたけれど、シャープペンの先は、止まっていた。
頭の中で、四ヶ月の、いくつかの場面が、ふっと、立ち上がっていた。
九月の、最初の頃、隣の席は、よく、空いていた。空いているまま、丁寧に、空いている、ということを、俺は、見ていた。明日の朝も、おはよう、と言うことを、自分に、思い出させて、教室を、出た。あの朝、俺は、そこにいた。
九月のある日の放課後、用具室で、ヤマモトが、「向いてないと、思うんですよね」と、言った。俺は、即答できなくて、「分からない」と、答えた。あの夕方、俺は、そこにいた。
九月の終わりの、金曜の夜、リビングで、妹が、「隣のおばあちゃん、ゴミの日、間違えてた」と、言った。俺は、自分が、見ていなかった、ということに、気づいた。あの夜、俺は、そこにいた。
十月の、日曜の夜、隣の席のやつから、LINE が来た。「明日、行けるかも」。俺は、「おう」と、返した。翌朝、隣の席は、空いていた。あの月曜の朝、俺は、そこにいた。
十月の、火曜の朝、通学路の、二つ目の角で、犬の散歩のおじさんが、立ち止まっていた。俺は、初めて、おはようございます、と、言った。あの朝、俺は、そこにいた。
十一月の、水曜の、休み時間、隣の席のやつが、「最近、来てなくて、ごめん」と、言った。俺は、「謝らなくて、いい」と、答えた。あの五分、俺は、そこにいた。
これらの「そこ」が、頭の中に、並んでいた。並んでいる、というよりは、ばらばらに、ぽつぽつ、立ち上がっていた。
四ヶ月のあいだ、俺は、いろんな「そこ」に、いた。
いた、というのが、何を、したか、ということとは、たぶん、違う。何かを、決定的に、したかというと、何も、していない。隣の席のやつを、教室に、戻した、わけじゃない。ヤマモトを、レギュラーに、押し上げた、わけじゃない。隣のおばあちゃんを、ゴミの日に、間違えなくさせた、わけじゃない。犬の散歩のおじさんと、深い友達に、なった、わけじゃない。
これらは、それぞれ、それぞれの場所で、それぞれの理由で、起きたり、起きなかったり、している。俺の、続けたこと、とは、たぶん、ほとんど、関係がない。
関係がない、というのは、しかし、無駄だった、ということでも、ない。
俺は、いた。それぞれの「そこ」に、いた。いた、というのは、その場面に、自分の、身体と、意識を、置いていた、ということだった。置いていた、ということが、できた、というのは、たぶん、続けていたから、だった。続けていなかったら、その場面に、いる、ということが、できなかった。
続けることが、いること、だった。
いることが、できれば、何かが、その場面で、起きるかもしれないし、起きないかもしれない。起きたものを、自分の手柄、にしない。起きなかったものを、自分の責任、にしない。ただ、いる。いることだけを、続ける。
これが、四ヶ月のあいだに、俺の中に、ぼんやり、立ち上がってきた、応え方の、形だった。
鈴木先生の声が、教室の、前のほうから、聞こえてきた。
「倫理は、答えを、出すことだけが、目的では、ありません」と、先生は、言っていた。「考え続けること、行動を続けること、相手の話を、聞き続けること——どれも、倫理的な、生き方の、ひとつの形です」
俺は、シャープペンを、軽く、握った。
「相手の話を、聞き続けること」というのが、自分の中で、ふっと、引っかかった。
これまで、俺は、たぶん、聞き続けてきた。隣の席のやつの、空席を。ヤマモトの、「向いてない」を。妹の、「ゴミの日、間違えてた」を。LINE の、「明日、行けるかも」を。犬の散歩のおじさんの、「あ、どうも」を。隣の席のやつの、「ごめん」を。
これらは、聞いた、というよりは、ただ、目の前に、置かれていた言葉や、光景、だった。聞き続ける、というのは、その場に、いて、それらを、受け取る、ということだった。
受け取る、というのは、判定もせず、解釈もせず、ただ、そこに、いる、ということだった。
授業が、終わって、放課後になった。バスケ部の練習は、今日は、休み。冬休み前の、テスト勉強の期間で、部活が、短くなっていた。
教室を、出る前に、隣の席のやつに、「お疲れ」と、軽く、声をかけた。
「お疲れ」と、隣の席のやつも、答えた。
それだけ、だった。
校門を、出て、いつもの、通学路を、駅のほうに、歩いた。十二月の、夕方の、低い光が、商店街の、看板に、当たっていた。
二つ目の角に、犬の散歩のおじさんが、いた。夕方の散歩で、すれ違うのは、めずらしかった。
「こんばんは」と、俺は、言った。
「あ、どうも」と、おじさんは、答えた。
軽く、頭を、下げ合って、お互い、すれ違った。
俺は、駅のほうに、おじさんは、犬と、家のほうに。
家に、着いた。リビングに、妹が、いた。テレビを、見ながら、ミカンを、食べていた。
「お帰り」と、妹は、言った。
「ただいま」と、俺は、答えた。
「お母さんは?」
「お買い物。お父さんは、たぶん、まだ、会社」
俺は、ミカンを、ひとつ、ボウルから、取って、自分の部屋に、戻った。机に、ミカンを、置いて、ベッドに、寝そべった。天井を、見ていた。
家族が、家の中で、それぞれの、見る場所を、見ている。妹は、テレビと、近所の、おばあちゃん。母は、買い物の動線で、たぶん、別の、誰か、または、何か。父は、会社で、また別の、見る場所。俺は、教室と、部活と、通学路。
四人が、別々の場所を、見ていて、家の中で、すれ違っている。すれ違っているけれど、家族、として、続いている。
続いている、ということだけが、家族の、形だった。続いていることが、それぞれの、いる場所を、保証している。
夜、ベッドで、天井を、見ていた。明日も、木曜じゃないけれど、学校に行く。隣の席のやつが、いるかもしれない、いないかもしれない。ヤマモトが、部活に、来るかもしれない、来ないかもしれない。犬の散歩のおじさんが、いつもの角に、いるかもしれない、いないかもしれない。
どれも、たぶん、ある。たまたま、ある。たまたま、ないかもしれない。たまたま、ある日が、続いていけば、それは、続いている、ということになる。
四ヶ月、俺は、いた。これからも、たぶん、いる。「いる」というのは、続ける、ということだった。続けることだけが、できる。続けることが、いる、ということだった。
俺の、応えは、それだけ、だった。それだけで、十分か、と聞かれると、たぶん、十分。十分じゃ、ないかも、しれない。十分かどうかを、判定するのは、たぶん、こちらの、仕事じゃない。十分かどうかは、それぞれの、相手のところで、たぶん、決まる。
こちらは、いる。続ける。それだけ。
明日も、いる。明後日も、いる。来週も、来月も、来年も、たぶん、いる。続けたい、という気持ちが、強い、わけじゃない。やめる、理由が、ない、というだけ。やめる理由が、ないから、続いていく。続いていくことが、たぶん、応えの、形だった。
窓の外で、街灯が、ひとつ、灯った。
俺は、そこにいた。
これからも、たぶん、そこにいる。
中島のトロッコ問題シリーズ・完
← 前話:謝らなくて、いい(中島のトロッコ問題シリーズ #6)
← シリーズ #5:毎朝、すれ違う
← シリーズ #4:明日、行けるかも
← シリーズ #3:見ていない場所
← シリーズ #2:うん
← シリーズ #1:おはよう
← 関連:火曜の三限、もう一度(アヤのトロッコ問題シリーズ最終話、本作のサブタイトルと対称)
← 関連:揺らぎは、似ていた(ジュンのトロッコ問題シリーズ最終話)
← 関連:話しかけない(茅野のトロッコ問題シリーズ最終話)
→ 種明かし:中島のシリーズの種明かし——七話で何を書こうとしたか
← 関連:アヤのシリーズの種明かし
← 関連:ジュンのシリーズの種明かし
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本作はシリーズ第7話、最終話。十二月の木曜の三限、倫理の授業の最中に、中島は四ヶ月のいくつかの「そこ」を思い出す。隣の席が空いていた朝、用具室、リビング、夜の部屋、通学路、教室の休み時間。「俺は、そこにいた」が複数の場面を貫く。鈴木先生の「相手の話を、聞き続けること」が響く。家族は、別々の見る場所を持つ集まり。続けることが、いること。アヤの「納得しないまま、考え続けます」、ジュンの「合理性の幅は、広がる」、茅野の「続くことが、たどり着いたということ」、そして中島の「俺は、そこにいた」——四つの倫理が、それぞれの形で、続いていく。