アヤ、高校二年。サカモト・ミユの親友。クラスでは彼女を「サカモト」と呼ぶ人がほとんどだが、私だけは、二人のときに「ミユ」と呼ぶ。なぜそうなったのか、最近、ふと思い出した。中学のころ、図書室で。
夜、ベッドの上で天井を見ている。今日、駅の改札前で、ミユと別れた。「いつでも」「いつでも」と言い合って、それぞれ反対方向に歩いていった。
歩きながら、なぜか、中学のころのことを思い出した。ミユがまだ、私にとって「サカモト」だった頃のこと。それから、サカモトが「ミユ」になった日のこと。
もう、四年くらい前のことになる。記憶は、編集されている。覚えていることだけを、選んで、並べて、自分の頭の中で、整える。整えたあとの一枚が、本当の出来事と、たぶん、半分くらいは、ずれている。それでも、整えたほうの一枚を、私は、覚えている。
中学二年の、たぶん、十一月くらいだった。私は図書室の窓際の席で本を読んでいた。何の本だったかは、覚えていない。覚えていないということは、たぶん、たいして好きな本ではなかったのだろう。
図書室のドアが開く音がして、「あ、いた」と声がした。顔を上げたら、サカモトがいた。同じクラスの、よく喋る、目立つ子。男女問わず、いつも誰かと話している。私とは、それまで、ほとんど話したことがなかった。
サカモトは私の前まで来て、「先生から借りた本、誰に返したらいいか、分かんなくて」と言った。私は、図書委員ではない。サカモトは、たぶん、私のことを、誰かと勘違いしていた。
「私、図書委員じゃないよ」と言ったら、サカモトは「あ、ほんと?」と言って、それから、しばらく、私の顔を見ていた。
「じゃ、これ、一緒に返してくれない?」
と、サカモトは言った。勘違いに気づいたあとなのに、なぜか、頼んできた。
「いいよ」と私は言った。
本当のことを言うと、なぜそう答えたのか、自分でもよく分からなかった。たぶん、断る理由が、すぐには思いつかなかったから。
図書室から職員室までは、廊下を二つ曲がる。たぶん、五十メートルくらい。歩きながら、サカモトはずっと喋っていた。今日の数学のテスト、給食のグラタン、隣のクラスの誰かのこと。
私は「うん」「ね」「あー」と相槌を打った。それしか、できなかった。サカモトの話の速度に、私は、ついていけなかった。だから、相槌だけを、返した。
サカモトは、私が相槌しか打っていないことに、気づいていたと思う。気づいていながら、喋り続けた。
職員室の前で、サカモトは私から本を一冊受け取って、自分の本と一緒に、先生に返した。先生は何かを言って、サカモトは「はーい」と答えた。
職員室から出てきたサカモトは、私を見て、「ありがと」と言った。
「いえいえ」と私は言った。
そのまま別れるのかと思ったら、サカモトは、廊下の窓のところで立ち止まった。私も、なんとなく、立ち止まった。
「なんで、私のこと、知ってる感じだったの?」
と、サカモトは聞いた。
「知らないけど」と私は答えた。
「じゃ、なんで、ついてきたの?」
「頼まれたから」
「私のこと、嫌じゃない?」
「嫌、なに?」
「私、うるさいって、よく言われる」
「うるさい? かな?」
「うるさいよ。みんなそう言う」
「私、聞いてただけ」
「聞いて、よかった?」
と、サカモトは聞いた。
私は、少し考えてから、「私、あんまり喋らないから、ちょうどよかった」と言った。
サカモトは、しばらく、黙った。窓の外で、誰かがサッカーボールを蹴る音がした。
「じゃ、明日も話す?」
と、サカモトは聞いた。
「いいよ」と私は答えた。
これが、たぶん、私たちの始まりだった。
中学三年の、たぶん、五月くらいだった。私たちは、もう毎日のように一緒にいた。私は相変わらず「サカモト」と呼んでいた。クラスのみんなも「サカモト」と呼んでいた。
ある日の放課後、二人で、いつもの帰り道を歩いていたとき、サカモトが、ふと、立ち止まって、言った。
「アヤ」
「うん」
「私のこと、ミユって、呼んでくれない?」
「ミユ」
「他の人が、私のこと、サカモトって呼ぶからさ。ミユって呼んでくれる人、ひとりくらい、いてもいいかなって」
「いいよ、ミユ」
と私は言った。
サカモトは、ふっと笑った。それから、「ありがと」と言った。
「何が」と私は言った。
「何かは、分かんないけど」
と、サカモトは言った。私は「いつでも」と言った。サカモトは「いつでも」と返した。
そのときは、それが何のことを言っているのか、私はよく分かっていなかった。たぶん、サカモトも、よく分かっていなかった。それでも、四つの言葉が、その場で、自然に並んだ。
あれが、たぶん、私たちの「いつでも」の始まりだった、と、いま思う。
天井には、何も書かれていない。
ミユのことを、私は、よく知っていると思う。よく知っていると思っているけれど、本当のところは、たぶん、半分くらい知っていて、半分くらい知らない。半分本当、半分嘘。それでも、ミユは私の親友で、たぶん、これからも、ずっと、そうである。
なぜ親友になったのか、と、自分に問うてみる。答えは、ひとつではない。
サカモトが、私を、図書委員と勘違いしたから。勘違いに気づいたあとも、頼んできたから。私が、相槌を打つのが得意だったから。サカモトが、喋り続けてくれたから。サカモトが、「うるさい」と言われるのを、私には言わなかったから。
たぶん、こういう小さなことが、いくつも、重なった。
ひとつだけ言えるとすれば、私たちはお互いに、相手にとってちょうどよかった、ということだ。サカモトは私に喋らせてくれた——ではなくて、私の沈黙を許してくれた。私はサカモトに「うるさい」と言わなかった——ではなくて、サカモトの言葉の量を、ただ受け取った。
許す、という言葉は、すこし強すぎる。受け取る、という言葉のほうが、近い。
受け取る、ということが、できる人と、できない人がいる。私とミユは、お互いを受け取れる人だった。それだけのことが、四年たっても、続いている。
明日もまた、駅の改札前で、別れるのだと思う。「いつでも」「いつでも」と言って、それぞれ反対方向に歩いていく。
反対方向に歩いていけるのは、お互いの方向が、はっきりしているからだ。私の方向と、ミユの方向は、違う。違うまま、私たちは、たぶん、ずっと、お互いの方向を確認し続ける。
天井には、まだ、何も書かれていない。書かれていないままで、いい。
→ 続編:親が、知り合いだった(同じ頃の現在編、世代交差)
→ 別シリーズ:先生、納得がいきません(トロッコ問題シリーズ #1、アヤと倫理の授業)
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