五年ぶりに、英語で
東と、ジェイコブからのメッセージ——東のトロッコ問題シリーズ #2

東、高校二年、五組。月曜の三限のトロッコ問題から、一日経った、火曜の夜。九時すぎ。お風呂を上がって、自分の部屋で、机に、座っていた。日本史の、ノートを、広げかけて、まだ、ペンを、握っていなかった。スマホが、机の隅で、短く、振動した。

通知

振動の音は、二回、続いた。LINE では、なかった。インスタの、ダイレクトメッセージの、通知音。LINE と、インスタは、振動の長さが、少し、違う。耳が、勝手に、覚えている。

スマホを、手に、取った。画面に、名前が、出ていた。ローマ字。Jacob R.

しばらく、画面を、見ていた。

名前を、読んでも、すぐには、誰の名前か、頭の中で、像が、結ばなかった。Jacob という名前の人を、何人か、知っている。アメリカでは、ふつうの名前。日本に、戻ってから、ジェイコブ、という日本語の音で、その名前を、発音したことは、たぶん、五年間、一度も、ない。

R. の頭文字を、しばらく、見ていた。それで、思い出した。Rosenberg。ニュージャージーの、ハッケンサックの、公立小学校の、五年生の、クラスメイト。即答する子だった。「Five! Of course five!」と、トロッコ問題に、似た、社会の授業の問いに、笑いながら、答えた、子。

そのジェイコブが、いま、わたしのインスタに、メッセージを、送ってきていた。

短いメッセージ

メッセージを、開いた。

hey azuma!! is this you?? long time no see, i found u from kelsey's followers. how r u??

小文字。感嘆符が、二つ。rare で、uyouKelsey は、たぶん、ケルシー、ハッケンサックの小学校の、別のクラスメイト。彼女とは、Facebook で、薄く、繋がっていた。インスタでは、繋がっていなかった、はず。けれど、ケルシーの、フォロワーの、リストから、ジェイコブが、わたしを、見つけたらしい。

ジェイコブは、いま、十六歳か、十七歳。アメリカの、ハイスクールの、たぶん、ジュニアか、シニア。彼の、いまの英語は、わたしが、五年生のときに、聞いた英語より、少し、違う、はず。十一歳の、英語と、十六歳の、英語は、同じではない。

わたしの、いまの英語は、五年前と、少し、違う。日本の、中学と、高校で、英語の授業を、受けてきた。学校の英語は、文法的で、形式的で、教科書的だった。ジェイコブの、こういう、軽い、十代の、SNSの英語に、答えるための、英語は、教科書には、ほとんど、出てこなかった。

書きかけて、止まる

メッセージ欄に、指を、置いた。

Hey Jacob」と、打って、止まった。

!」を、足すか、迷った。一つ、足した。「Hey Jacob!

そのあとが、出てこなかった。

何を、書こうか、頭の中で、考えた。

It's been so long」は、たぶん、いい。けれど、その後、何を、続けるか。「I'm doing well」「I'm in high school in Tokyo now」「How are you?」。これらの、断片が、頭の中に、浮かんだ。けれど、繋ぎ方が、思い出せなかった。

正確に言うと、繋ぎ方を、頭では、知っていた。学校の英語の授業で、何度も、書いた、形式的な、文章は、すらすら、書けるはず、だった。「It has been a long time since we last met. I am currently attending high school in Tokyo. I hope you are doing well.」と、教科書的な英語で、書くなら、書ける。

けれど、これを、ジェイコブに、送ると、たぶん、ずれる。ジェイコブの、「hey azuma!!」と、わたしの、教科書的な英語の間には、文脈の、深い、ずれが、ある。ずれた英語で、応えると、ジェイコブは、たぶん、戸惑う。または、わたしが、もう、五年前の、わたしでは、ないことを、すぐに、見抜く。

見抜かれて、悪いわけじゃ、ない。事実、わたしは、もう、五年前の、わたしじゃ、ない。

けれど、最初の、一通の、メッセージで、それを、距離として、突きつけるのは、わたしも、たぶん、したくなかった。

送る

しばらく、画面を、見ていた。

結局、こう、書いた。

Hey Jacob! Wow, it's been forever. Yes, it's me 😊 I'm in high school in Tokyo now. How are you?

絵文字を、入れるか、入れないか、迷った。入れた。日本のスマホの、絵文字は、Apple のもので、たぶん、ジェイコブの画面でも、似た顔で、表示される。

Wow」は、若い感じが、出ているか、自分でも、わからなかった。教科書には、出てこない単語。けれど、SNSでは、ふつう、なはず。

It's been forever」は、「It's been so long」と、迷って、こちらに、した。「forever」のほうが、軽くて、誇張的で、十代の、SNSらしい、気がした。

送信ボタンを、押した。

送ってから、画面を、見つめた。送る前は、書く、ということに、集中していた。送ってから、書いた英語が、本当に、いまの、わたしの英語、なのか、急に、自信が、なくなった。

たぶん、いまの、わたしの英語、で、合っている。けれど、五年前の、わたしの英語、では、ない。五年前のわたしは、こんなに、迷いながら、書いて、いなかった、はず、だった。

既読、と、返信

既読が、ついた。

三十秒くらい、何も、来なかった。

それから、こう、来た。

tokyo!! that's so cool. i'm a junior now, taking honors lit. we just started reading the stranger by camus, kinda heavy but i like it. how's japan?

The Stranger」。カミュの、『異邦人』。タイトルだけは、知っていた。日本語訳の、文庫本を、母が、本棚に、持っていた。けれど、まだ、読んでいなかった。英語版で、読む、というのが、十六歳の、ジェイコブの、感覚なのかもしれない。

How's Japan?」と、ジェイコブは、聞いていた。

Japan is good.」と、書きかけて、止まった。

Japan」を、ひとつの、塊として、答えるのは、たぶん、嘘になる。日本は、塊では、ない。わたしは、東京の、ある区の、ある高校の、五組の、机の前に、いる。母は、リビングで、テレビを、見ている。父は、まだ、会社。妹は、いない、ひとりっ子。これが、いまの、「Japan」だった。

けれど、これを、英語で、ジェイコブに、書くのは、たぶん、ずれる。ジェイコブの「How's Japan?」は、本気で、日本の、現在の、ありようを、聞いている、わけじゃ、ない。挨拶の、続きの、軽い、問いだった。それに、本気で、答えると、たぶん、重すぎる。

軽さに、軽さで、応える。

こう、書いた。

Japan is great! Cherry blossoms just ended. I haven't read Camus yet but my mom has it on her shelf. Maybe I should pick it up. Junior year sounds intense — what's your school like now?

送信した。

Cherry blossoms just ended」と、書いたあと、これは、ステレオタイプだろうか、と、一瞬、思った。日本=桜、というのは、いちばん、ありふれた、外側からの、像。けれど、いま、ほんとうに、桜は、終わったばかりで、街路樹には、緑の若葉が、出始めていた。事実を、書いた。事実を、書いただけ、なのに、ステレオタイプに、近づく、という、不思議な、ずれが、あった。

事実が、ステレオタイプと、一致する、こと、もある。一致しても、事実は、事実、だった。

ハンナのことも

ジェイコブからの、二通目を、待っているあいだに、頭の中で、ハンナのことを、思い出した。

ハンナは、ジェイコブと、同じ、五年生のクラスにいた。彼女は、よく、ジェイコブを、揺さぶった。「But what if the one person is your mom?」と、聞いた、あの子。

ハンナとは、繋がっていなかった。インスタを、見ても、ハンナの名前は、フォロワーにも、フォローしている人にも、出てこなかった。Facebook でも、見つけたことが、なかった。ハンナは、SNSを、あまり、使わない子なのかもしれない。または、ほかのSNSを、使っているのかもしれない。または、ハンナは、ハンナで、別の、生活を、していて、わたしの知らない、繋がり方を、している、のかもしれない。

ハンナと、ジェイコブが、いまも、同じ高校に、いるか、わからなかった。ハッケンサックの、公立小学校から、上がった、子どもたちは、たぶん、地区の、ハイスクールに、進んだ。ハンナも、ジェイコブも、たぶん、同じハイスクール。けれど、ハイスクールは、人が、多いから、五年生のときの、関係が、続いているとは、限らない。

ジェイコブから、ハンナのことを、聞こうかと、一瞬、思った。「How is Hannah doing?」と。

けれど、聞かなかった。

聞かない、ことを、選んだ。

聞くと、ジェイコブは、たぶん、答える。けれど、答えは、ジェイコブから見た、ハンナ、になる。それは、いまの、ハンナ、ではない。ハンナを、知りたかったら、ハンナに、直接、聞くしかない。けれど、ハンナとは、繋がっていない。繋がっていない、ということは、たぶん、ハンナの、いまの文脈に、わたしが、入れていない、ということだった。

入れない場所を、無理に、入ろうと、しない。これも、たぶん、文脈を、見比べる、ということの、ひとつの形だった。

ジェイコブの、二通目

ジェイコブから、二通目が、来た。

school's busy lol. lots of homework, sat prep, all that. you should def read camus when u can. it's about a guy who doesn't fit in anywhere. i kinda relate haha. anyway gtg, dinner. nice talking to u!!

A guy who doesn't fit in anywhere」。

I kinda relate haha」。

haha」が、軽くて、けれど、軽くないものを、軽く、している、感じだった。ジェイコブは、たぶん、自分のことを、半分、笑いながら、半分、本当のこととして、書いていた。

五年前の、ジェイコブは、即答する子だった。「Five! Of course!」。彼の、即答は、迷いの、なさから、来ていた。誰にも、合わせない、自分の、答え方が、はっきり、している、子だった。

いまの、ジェイコブは、「doesn't fit in anywhere」を、自分のことのように、感じている。即答できる場所が、ハイスクールには、あんまり、ないのかもしれない。または、即答すること、自体が、自分を、他人と、ずらす、ことに、なる、ということに、彼は、気づいたのかもしれない。

五年で、ジェイコブも、変わっていた。

Gtg, dinner」と、彼は、書いた。Got to go。話を、切り上げる。挨拶として、自然な、終わり方だった。

わたしは、こう、返した。

Enjoy dinner! Thanks for reaching out, this made my day 😊 Take care!

送って、画面を、閉じた。

夜、もう一度

ベッドに、横になって、天井を、見ていた。

ジェイコブとの、五分くらいの、メッセージのやり取りを、頭の中で、もう一度、辿った。

五年前の、ニュージャージーの、教室の、ジェイコブと、いまの、東京の、わたしの部屋の、スマホの中の、ジェイコブは、別の、ジェイコブだった。同じ名前で、同じ顔で、同じ家に、たぶん、住んでいる、ジェイコブだけれど、五年で、彼の、文脈は、変わっていた。

わたしの文脈も、変わっていた。五年前のわたしは、ジェイコブと、同じ教室で、同じ問いを、聞いていた。同じ、と感じていた。いまのわたしは、別の教室で、別の問いを、別の言語で、聞いている。同じ、ではない。

同じ、ではないけれど、繋がっていない、わけでも、ない。インスタで、軽く、メッセージを、交わせる、くらいには、繋がっている。深く、繋がっている、わけでは、ない。けれど、繋がっていない、わけでも、ない。

こうした、中間の、繋がり方が、たぶん、文脈を、見比べる、ということの、別の形、だった。

月曜の、トロッコ問題で、わたしは、アメリカの、五年生の教室と、日本の、五組の教室を、並べて、見比べていた。あれは、空間の、見比べ方、だった。

火曜の、夜の、ジェイコブとの、メッセージで、わたしは、五年前の、ジェイコブと、いまの、ジェイコブを、並べて、見比べた。これは、時間の、見比べ方、だった。

空間の、文脈と、時間の、文脈。両方が、文脈だった。両方を、並べて、見比べる。それが、わたしに、できることの、ひとつ、だった。

見比べた、結果として、わかったことが、あった。

文脈は、固定されていない。アメリカ、と、日本、という二つの塊で、世界を、切り分けて、それぞれの中で、答えが、違う、という話では、ない。アメリカの中にも、五年で、変わっていく、ジェイコブが、いる。日本の中にも、毎日、変わっていく、五組のクラスメイトが、いる。文脈は、塊では、なく、流れだった。流れている、その都度の、応答を、見比べる。

これが、たぶん、わたしの、応え方の、芯になる、はずだった。

How's Japan?」と、ジェイコブは、聞いた。「Japan is great!」と、わたしは、答えた。これは、嘘では、ない。けれど、本当でも、ない。「Japan」は、塊じゃ、ない。けれど、その、軽い、挨拶の、文脈で、「Japan is great!」と、答える、ということが、ふさわしい、応答だった。

ふさわしさ、というのが、たぶん、文脈の、芯だった。

明日も、月曜の、トロッコ問題の、続きが、頭の中に、ある。鈴木先生が、「次回までに、自分なりに、考えてみてください」と、言った。次回は、来週の月曜の三限。それまでに、何かを、考える。考える、というのは、文脈を、見比べる、ということ。見比べる先に、たぶん、答えが、出てくる。出てこなくても、見比べた、ということは、残る。

残る、ということが、たぶん、応答の、形だった。

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【東のトロッコ問題シリーズ予告】
本作はシリーズ第2話。火曜の夜、五年ぶりに、ニュージャージーの旧友ジェイコブから、インスタの DM が来る。「hey azuma!!」と、軽い英語。返信を書きかけて、止まる。教科書的な英語と、十代のSNSの英語の、ずれ。送って、来た、二通目で、ジェイコブは、カミュの『異邦人』を、「I kinda relate haha」と、軽く、自分に、引きつけて、書いていた。五年で、ジェイコブも変わり、わたしも変わった。文脈は、空間(アメリカ/日本)だけではなく、時間(五年前/いま)にも、ある。文脈は、塊ではなく、流れである、という発見。中島の「いる」と対称的な、東の「並べて、見比べる」。

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。登場人物・場面はフィクションです。