東、高校二年、五組。月曜の三限、現代文。隣の席のカナが、わたしの机の端をこつんと指で叩いた。「ペン、貸して」とは言わなかった。指で叩いてから、わたしの筆箱のほうに目をやった。
わたしは黒のボールペンをひとつ取って、カナの机に滑らせた。
「すみません」とカナは小さく言った。
その「すみません」が、なぜか、引っかかった。三限が終わって、四限になって、お昼になっても、まだ頭の隅に残っていた。
カナは、わたしに対して、ふだんは「ありがとう」と言う。「ごめん」と言うこともある。今日に限って、「すみません」だった。声は小さくて、語尾が少し下がっていた。先生の声がちょうど被ったから、誰にも聞こえなかったかもしれない。わたしの耳にだけ届いた、四音。
「ありがとう」でも「ごめん」でもなくて、「すみません」だった。それが引っかかった。
購買でサンドイッチを買うとき、おばさんに「すみません、これください」と言った。これは注意を引く「すみません」だった。声は普通の大きさだった。語尾も下がらなかった。
おばさんは「はい、二百円ね」と言って、サンドイッチを袋に入れた。
同じ四音が、温度の違うやり方で、別の場面に置かれている。それは、考えてみれば、毎日のことだった。今日に限ってカナの「すみません」が引っかかったのは、購買のおばさんへの「すみません」とは違う重さを、四音のなかに薄く乗せていたからだ、と思った。
カナの「すみません」のなかには、たぶん、「ペンを借りるという、こんな小さなことで、わたしの集中を切ってしまった」という、ささやかなお詫びのレイヤーが、ひとつ、あった。「ありがとう」では、それが拾えない。「ごめん」だと、重すぎる。「すみません」が、ちょうど、その小ささを運んでいた。
放課後、カナと校門を出るところまで、いつも通りに歩いた。「お疲れ」と言い合って別れた。駅までの道で、ふっと、英語にしたらどうなるか、考えてみた。
「Sorry」だと、お詫びとして重い。Sorry は、ぶつかった、足を踏んだ、というぐらいの場面に使う。ペンを借りるのに Sorry は、たぶん使わない。
「Thanks」なら軽いが、お詫びのレイヤーが落ちる。落ちるというより、最初から入っていない。英語の「Thanks」は、感謝だけを単体で運ぶ言葉で、お詫びを混ぜる構造を持っていない。
カナの「すみません」のなかにあった「集中を切ってしまった、ささやかなお詫び」は、英語のひと言には、たぶん入らない。Sorry, thanks と二語繋げると形は近づくけれど、二語で言わないと出ない、ということが、ひと言の四音とはもう別のものだった。
家に着いたら、お向かいのおばさんが、玄関先で母と話していた。みかんを一袋、持ってきてくれていた。母が「すみません、いつも」と言って、おばさんから袋を受け取った。
母の「すみません」は、お礼の「すみません」だった。「ありがとう」ではなくて、「すみません」。お礼を言うのに、お詫びの形を借りている。「もらってばかりで、申し訳ない」という、薄いお詫びを、お礼の前に滑り込ませている。
これも、英語の Thank you だけでは、たぶん拾えない。Oh, you shouldn't have と言えば近いが、これはアメリカでは少し古風で、母の世代の英語にはあるかもしれないが、わたしが小学校で聞いた範囲では、ほとんど耳にしなかった。ハッケンサックの隣家のミセス・ローガンは、母にレモンを渡すたび、ただ「Here you go」と笑って、母が「Thank you」と返して、それで終わっていた。お詫びの薄い影は、その玄関先には、いなかった。
みかんの袋を受け取った母は、もう一度「すみません、お茶でも」と言って、おばさんを家に上げようとした。おばさんは「ううん、急ぐから」と笑って、帰っていった。
夜、机の前で英語の宿題を広げていたら、また三限のカナの「すみません」が、頭の隅に戻ってきた。
カナの四音と、母の四音と、わたしが購買で言った四音。同じ言葉が、別の重さで、一日のあいだに何度か通り過ぎている。引っかかったのは、カナのだった。たぶん、声が小さかったから。語尾が下がっていたから。先生の声に被って、わたしの耳にだけ届いたから。
「ありがとう」とも「ごめん」とも違う、四音のあいだの、薄い場所。そこにカナが何を乗せていたのか、本人にも、たぶん、はっきりとは分からない。「すみません」と口が動いて、四音が出てきて、ペンを取って、それで三限の続きが始まった。それだけのことだった。
それだけのことが、夜まで残った。
明日もまた、カナはわたしの机を指で叩くかもしれない。叩いたら、わたしはまたペンを滑らせる。カナがそのときに「ありがとう」と言うか、「ごめん」と言うか、「すみません」と言うかは、たぶん、その日の声の小ささと、先生の声の被りかたと、ペンの貸され方で、ふっと決まる。
四音のあいだの、薄い場所のことを、明日のわたしは、もう考えていないかもしれない。今日のうちに、引っかかったぶんだけ、考えた。それで、たぶん、十分だった。
英語に訳せないものを、訳さないでおく、というほどのことでもなかった。訳す前に、まず、四音が、わたしの耳に届いていた。それを、夜まで持ち歩いた。それだけだった。
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本作は東のシリーズ番外編「ことばのメモ」シリーズ第2話の書き直し版(v2)。v1の「七回数えてみた」というメタな枠組みと、七場面の英訳箇条書きを撤去し、月曜の三限にカナがペンを借りた時の「すみません」一つを核に据えた。「ありがとう」でも「ごめん」でもない、四音のあいだの薄い場所——それが今日に限って引っかかった、という入り方。購買のおばさん、玄関先の母、ハッケンサックのミセス・ローガンの三場面を、カナの引っかかりを解くための薄い参照点として配置した。結語は「隣に、置いておく」を使わず、「夜まで持ち歩いた、それだけだった」で締めた。