東、高校二年、五組。日曜の夕方、台所で、母が冷蔵庫の前に立っていた。一昨日の煮物が、小さなタッパーのなかに、まだ少し残っていた。母は蓋を開けて、においを確かめて、それから、ふっと、口にした。「もったいないなあ」。
結局、母はそれを、温め直して、夕食の小鉢にした。煮物は、二日ぶんの時間を引きずったまま、わたしの茶碗の隣に、置かれた。
そのあと、自分の部屋で、ふっと考えた。「もったいない」は英語でなんと言うんだろう。これも、たぶん何度か考えて、答えが出ないまま終わってきた問いだった。
「What a waste」。これがいちばんよく出てくる。捨てるのは無駄だ、というレイヤーは拾える。けれど、母が冷蔵庫の前で言った「もったいないなあ」のなかには、無駄とは別の何かがあった。煮物を作った時間、煮物を煮た火、煮物が二日間冷蔵庫のなかで待っていた時間。そういうものが、捨てるという行為で、ぜんぶ消えてしまう、という感じ。「waste」はそこまで含まない。
「It's a shame to throw away」。これは少し近い。「捨てるのは惜しい」。けれど、これは「惜しい」のレイヤーで、母の言った「もったいない」の、もう少し奥にある「申し訳ない」のような感じには、届かない。
「Precious」や「sacred」。これは奥のレイヤーには触れる。けれど、煮物のタッパーに「sacred」を当てると、たぶん英語ネイティブは戸惑う。神聖な煮物、という発想は、英語の生活感のなかには、たぶんない。
どの英訳も、ひとつのレイヤーは拾うけれど、別のレイヤーが落ちる。お疲れ様のときと、すみませんのときと、似た構造だった。
ハッケンサックの小学校に通っていたころのことを、ふっと思い出した。
ホストファミリーの家で、夕食の残りが、わりと普通にゴミ箱に入っていった。マッシュポテトが半分残った皿、チキンの骨に少し肉がついたままのもの、サラダの食べ残し。ホストマザーは、それをスクレイパーで皿からこそげ落として、ゴミ箱に流し込む。手際がよくて、ためらいがなかった。
友達のジェイコブの家に泊まったときも、同じだった。お母さんが「You don't have to finish it」と笑って言って、皿を下げて、残りを捨てた。残すことは、悪いことじゃなかった。むしろ、無理に食べるほうが、変だ、という空気があった。
そのころのわたしは、それを「アメリカ的」と呼んで、なんとなく受け入れていた。日本に戻ってから、母が冷蔵庫の前で「もったいない」と言うのを聞くたびに、ハッケンサックのゴミ箱のことが、薄く重なる。
ホストマザーは、たぶん「waste」のレイヤーは持っていた。食べ物を捨てるのは、無駄。それは知っていた。けれど、煮物が二日間冷蔵庫で待っていた時間に、申し訳なくなる、という感じは、たぶん持っていなかった。持っていなかった、というより、その感覚を呼ぶ言葉が、英語の生活のなかに、あまり置かれていなかった。
母方の祖母の家に行くと、もうひとつ別の温度の「もったいない」がある。
祖母は、包装紙をきれいにたたんで取っておく。お菓子の缶を、何かを入れる用に取っておく。新聞紙を畳んで、何かに使う用に積んでおく。ボロボロになったタオルを、雑巾にする前に、もう一段階、何かに使う。
祖母の「もったいない」は、母の「もったいない」よりも、もう少しゆっくりしている。物が、まだ使える、という時間を、できるだけ伸ばす。物のなかに、まだ残っている時間を、最後まで引き出そうとする感じ。
祖母が「もったいない」と言うとき、英語にするのは、もっと難しい。「It's still useful」だと、機能の話になりすぎる。祖母の「もったいない」は、機能の話だけじゃない。物が、まだそこにある、ということそのものへの、軽い敬意のようなものが、混ざっている。仏壇のお線香を上げるときの手の動きと、包装紙をたたむ手の動きが、わたしには、なんとなく似て見えることがある。
物に、薄く魂のようなものが宿っている、という感覚。それが祖母の「もったいない」のいちばん奥にある。母の「もったいない」のなかにも、たぶん、薄く流れている。わたしの「もったいない」のなかにも、たぶん、ある。
倫理の授業で、鈴木先生が、ワンガリ・マータイの話をしたことがある。月曜の三限。ケニアの環境活動家で、ノーベル平和賞をもらった人。日本に来たときに「もったいない」という言葉に出会って、これを世界に広げよう、と言った。
それ以来、「MOTTAINAI」は、英語の辞書にも、たまに載る。「The MOTTAINAI campaign」と、英語の文章のなかに、ローマ字で出てくる。reduce, reuse, recycle に respect を加えた四つのRを、ひと言で表す日本語、という説明とともに。
面白いと思ったのは、英語に「もったいない」のひと言訳がない、ということが、英語側でも、たぶんわかっていた、ということだった。だから訳さずに、ローマ字のまま借りた。tsunami や karaoke と、似たやり方で。
けれど、英語に入った MOTTAINAI は、たぶん、母が冷蔵庫の前で言った「もったいないなあ」の、ぜんぶのレイヤーは引き受けていない。MOTTAINAI は、環境のスローガンとして、英語のなかで、とても便利な位置に着いた。reduce, reuse, recycle, respect の R を束ねる旗印として、機能している。
母の「もったいないなあ」のなかにある、煮物が二日間冷蔵庫で待っていた時間への、軽い申し訳なさ。祖母の「もったいない」のなかにある、物に薄く宿る何かへの、ゆっくりした敬意。そういう温度は、MOTTAINAI という旗印には、たぶん、完全には入りきらなかった。
言葉が国際化する、ということは、ぜんぶのレイヤーが運ばれる、ということではなかった。いちばん強いレイヤーが、いちばん運びやすい形で、海を渡る。残りのレイヤーは、たぶん、もとの言語のなかに、置いて行かれる。
「もったいない」のなかには、たぶん、こういうレイヤーが、薄く重なっている。
母が冷蔵庫の前で言った「もったいないなあ」は、たぶん、上の三つくらいが、薄く混ざっていた。祖母が包装紙をたたみながら言う「もったいない」は、四つめがいちばん濃くなる。鈴木先生が授業で紹介した MOTTAINAI キャンペーンは、いちばん下の、五つめがいちばん前に出る。
同じ六音が、相手と場面によって、レイヤーの濃淡を変える。英語に訳すときは、その時の濃淡に合わせて、別の英語表現を選ぶ必要がある。けれど、選んだ瞬間に、他のレイヤーは、薄くなって、消える。
訳せないことばは、訳せないままで、置いておく。
「もったいない」は、英語のひと言には、たぶん入らない。MOTTAINAI として海を渡ったあとも、もとの六音のなかに残った濃淡は、日本語のなかで、煮物のタッパーの隣や、祖母の包装紙の隣で、薄く続いている。
続いている、ということが、たぶん、「もったいない」がいちばん大事にしているレイヤーかもしれない、と、ふっと思った。物が背負ってきた時間を、ぷつんと切らずに、もうちょっと、隣に、置いておく。言葉も、たぶん、それと似ている。訳しきれない言葉を、訳しきれないままで、もうちょっと、隣に、置いておく。
母が小鉢に盛った煮物を、わたしは夕食で食べた。二日まえの味が、ちょっと深くなっていた。深くなった、という言い方も、たぶん、英語にするのは、難しい。
→ 第二稿:もったいない、を、訳しかけて(v2・書き直し)
→ 第一稿への辛口レビュー
→ 次話:お互い様、の、温度(東のことばのメモ #4)
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← 関連:隣に、置いて、答える(東のシリーズ最終話)
← 関連:東のシリーズの種明かし
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本作は東のシリーズ番外編「ことばのメモ」シリーズ第3話。日曜の台所で母が冷蔵庫の前で言った「もったいないなあ」をきっかけに、英訳を試してみる。「What a waste」「It's a shame to throw away」「precious」「sacred」——どれもひとつのレイヤーは拾えるが、別のレイヤーが落ちる。ハッケンサックのゴミ箱で、夕食の残りが普通に捨てられていた記憶。祖母の包装紙をたたむ手のなかにある、もう少しゆっくりした「もったいない」。倫理の授業で鈴木先生が紹介したワンガリ・マータイと MOTTAINAI キャンペーン。言葉が国際化するときに運ばれるレイヤーと、もとの言語に置いて行かれるレイヤー。物が背負ってきた時間を、ぷつんと切らずに、もうちょっと隣に置いておく、という感じ。(本作は第一稿。批判ページと第二稿あり。)