蓮見、高校二年、三組。土曜の午後、離れの祖父の机のうえに、祖父の使い古した数珠が一本、置いてあった。祖父は縁側で茶を飲んでいて、机の前は無人だった。襖が半分開いていて、僕はそこから中を見ていた。机の端に、輪が、ゆるく崩した形で置かれていた。
近づいて、見た。玉は黒檀の、よく磨り減ったやつだった。長年、祖父の手のなかで擦られて、ひとつひとつに、わずかに艶のずれがあった。
玉と玉が触れ合っているところでは、糸は見えない。玉が玉の影に、糸を完全に隠している。輪をたどっていくと、玉の連なりだけが目に入る。糸は、ない、と言ってもいいくらい、見えない。
けれど、ところどころ、玉と玉が離れている箇所があった。置いた拍子にそうなった、というふうの離れ方。離れたところでは、糸が、白っぽい線になって、玉と玉のあいだに、渡っていた。糸は、見えるのではなくて、玉のあいだの空白として、見えていた。
人差し指の先で、玉をひとつ、横にずらしてみた。ずらしたら、隣のあいだに、糸が、もう一段、見えた。さらに隣を押すと、そちらも糸を出した。押した玉だけ動かしているつもりが、輪のなか全体が、わずかに、応じていた。
輪は、どこか一点だけが動く、ということが、できない造りだった。一点を押すと、糸を介して、玉のほうが、勝手に応じる。指の側から見ると、糸は触っていない。玉しか触っていない。それなのに、糸の感触が、玉越しに、伝わってくる。
祖父がお勤めのあいだ、片手で数珠を繰る、その動作を、僕は本堂の隅で何百回と見てきた。祖父は、玉を数えていた、というよりは、玉のあいだの糸の長さを、ひとつずつ、指で確認していた、と言ったほうが近いのかもしれない、と、いま輪を押してみて、思った。
玉のあいだの糸を、近くから見ると、繊維が少しだけ毛羽立っていた。飛び出している繊維の一本に、机の蛍光灯が当たって、ほんの数ミリ、銀色に光った。光ったあとで、また鈍い白に戻った。糸は、全体としてはまだ束ねられていたが、束ねられている内側で、繊維のいくつかは、もう束ねられている時間を、長く生きすぎていた。
輪のなかで、特に細く見える箇所が、一か所あった。親玉に近いあたり。両側から押される力で、糸がそこだけ、ぎゅっと締まって、束の太さが、ひとまわり細く見えた。指の腹で、その細い箇所を、本当に軽く、押してみた。押してはいけない、という別の感触が、すぐに頭のなかに立ち上がった。
去年の夏、本堂で、檀家のお年寄りの数珠の糸が切れたことがあった。お焼香の順番を待っているあいだに、ふっ、と力が抜けたように、輪が崩れた。輪の形がほどけた、というのではなくて、玉がいっぺんに、畳のうえに、散らばった、ということだった。
玉は、思ったよりずっと遠くまで転がった。父はお経を止めずに、片手で僕に合図して、僕が屈んで、玉を拾い集めた。集めながら、糸の側のことを、考えていた。
糸は、切れる前まで、輪のかたちを保っていた。保っていたあいだ、糸は、ぜんぶの玉を、つないでいた。つないでいる、ということが、糸の働きだった。働きが、見えないところで続いていた。切れた瞬間に、働きが「あった」ということが、初めて、見える形になった。
糸は、ある、というかたちでは、見えにくい。糸は、なくなった、というかたちで、いちばんはっきり、見える。畳のうえに散らばった玉のひとつひとつは、糸が、ない、ということを、玉の側から、訴えていた。連続性は、続いているあいだは透明で、断たれて初めて、その輪郭を、玉のあいだの距離として、地のうえに描く。
背後で、祖父の咳払いが聞こえた。襖の隙間に立って、こちらを見ていた。
「触ったか」
「指で、玉を、ひとつだけ、ずらしました」
祖父はゆっくり座って、数珠を片手にゆるく握って、しばらく黙っていた。それから、こちらを見ずに言った。
「ここの糸、もう、長いんだ」
新しいうちは短いはずの糸の繊維が、使い込まれて伸び、束のなかでたわんでいる、ということを言っているのだ、と、少し遅れて、わかった。祖父の言い方は、いつもこういう短さで、こちらが追いつくのを、待っている。
「替えないんですか」
「いつかは、替える」
祖父は数珠を机に戻した。戻すとき、輪のかたちが、僕が崩したかたちとは別の崩れかたで、置かれた。同じ輪が、置く人によって別のかたちで崩れる、というのが、可笑しかった。
祖父は立ち上がって、襖を半分閉めた。「触ってもいいから、引っ張るな」とだけ、襖の向こうから言って、足音は本堂のほうに遠ざかっていった。
引っ張ると、糸の長さが伸びる。伸びると、玉のあいだの空白が広がって、糸の見える部分が増える。けれど、見える部分が増えるその過程の途中で、いま細くなっている箇所が、たぶん、耐えきれずに切れる。連続性を、はっきり見ようとして引っ張ると、見ようとしたその力で、連続性のほうが、終わる。
糸を見るためには、糸を引っ張ってはいけない。玉の影のあいだに、薄く渡っているままで、見ないままに、見るしかない。祖父はたぶん、長年のあいだに、その見ないままに見る、という距離を、手の癖のなかに、入れている。
玉をひとつ、もう一度だけ、ほんの少しだけ、人差し指で、横にずらした。ずらしてから、すぐに、戻した。糸は、また、玉の影に、引っ込んだ。
→ v2:数珠の、糸(書き直し)
→ 辛口レビュー:v1の問題点と改善方針
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本作は蓮見のシリーズ番外編「蓮見のことばのメモ」第三作。土曜の午後、離れの祖父の机のうえに置かれた使い古した数珠を、祖父が席を外しているあいだ、襖の隙間から、そして近寄って、観察する。玉と玉のあいだの空白の幅のぶんだけ、糸は姿を見せ、玉が触れ合っているところでは糸は完全に隠れる。糸は「ある」かたちでは見えにくく、「なくなった」かたちでもっとも見える。去年の夏、本堂で檀家のお年寄りの数珠の糸が切れて、玉が畳のうえに散らばった瞬間、糸の働きが「あった」ということが、初めて見える形になった。連続性は、続いているあいだは透明で、断たれて初めて、その輪郭を、玉のあいだの距離として地のうえに描く。"rosary"/「数珠」、どの語も玉の側を指していて、糸の側はどの言語でも、語のなかから少し隠れる。祖父は「ここの糸、もう、長いんだ」と短く言って、「触ってもいいから、引っ張るな」とだけ残して、襖の向こうへ去る。引っ張ると、見ようとしたその力で連続性のほうが終わる。糸を見るためには、玉のあいだに薄く渡っているままで、見ないままに、見るしかない。#1#2 で扱った「同居」「薄い時間」が、ここでは「見えないまま、ある」という別の構造として、玉と糸の幾何のなかで観察される。(本作は第一稿。批判ページと第二稿あり。)