凍らせない、で、応える
蓮見と、金曜の三限、もう一度——蓮見のトロッコ問題シリーズ #7(最終話)

蓮見、高校二年、三組。水曜の寺務所で吉田さんにお茶を出した日から二日経った、金曜の朝。木曜は静かに過ぎた。朝の境内、教室の授業、放課後、夜のお勤め。何かが束に加わったかどうかは、自分でははっきりしなかった。気がつくと、金曜の朝になっていた。

金曜の朝の境内

五時半に目覚ましで起きて、作務衣に着替えて、境内に出た。父はもう山門の方を掃き始めていた。月曜と同じ段取りで、僕は本堂側から掃いた。

金曜の朝の枯葉は、月曜のときよりも少しだけ多かった。今週の前半に風があった日があって、桜の若葉のあいだから古い枝が落ちてきていた。竹箒の音が、一週間と同じリズムで、コンクリートに当たる。

父は何も話さなかった。僕も何も話さなかった。月曜の朝食で「なんで住職を続けてるの」と聞いた話は、もう四日前のことになっていた。話の続きはなかった。父も、続ける理由を、四日のあいだに何度も考えていたわけではないだろう。父にとっては「手に、馴染んだ」が、続けるという行為そのものの中に、いつもある。

地蔵の前を通ると、月曜の田中さんの娘さんの花は、もうほとんど枯れていた。次の月曜まであと三日。三日後にはまた新しい花が来る。今週の花は、今週のあいだだけ、地蔵の前にいた。

朝のお勤め

掃き掃除のあと、本堂で朝のお勤め。父の読経の声と、蝋燭の小さな火と、線香の煙。一週間ぶりの、金曜の朝の本堂。

読経のあいだ、頭の中で、ここ一週間の場面が、ゆっくり並んだ。先週の月曜に亡くなった檀家のおじいちゃん、土曜の三回忌の四人の遺族、日曜の祖父の過去帳、月曜の田中さんの娘さん、火曜のイケダの十六歳の犬、水曜の吉田さんの「同じ主人なのに毎日違う」。これらが、僕の中で、隣に置かれていた。

並んでいるそれぞれが、固有だった。ひとつをほかのひとつに代える、ということが、できない種類の固有だった。並んでいるけれど、どれも一段の上で並んでいるのではなく、別々の高さで、別々の温度で、隣り合っていた。

応えを組み立てる、ということは、できなかった。組み立てる、というのは、これらを一段に揃える作業で、揃えると、それぞれの固有性がぼやける。揃えない、まま、教室に持っていく、というのが、たぶんいまの僕にできることだった。

学校に向かう

朝食を食べて、制服に着替えて、自転車で家を出た。山門を出るときに、地蔵の方をもう一度見た。枯れた菜の花が、朝の光に照らされていた。

自転車を漕ぎながら、頭の中で、いくつかのことを試した。「答えは、五人を救うです」と言って終わるか、それとも、お寺の感覚を、ぽつぽつ並べるか。組み立てない、まま、ぽつぽつ並べる、ほうが、たぶん自分には合っている。組み立てると、嘘になる。父が「言葉にすると嘘っぽくなる」と言ったとおりだった。

けれど、何も言わない、というのも、応えにならない。先週の僕は何も言わなかった。今週は、何かを言う番だった。

言うけれど、組み立てない。これが、今日の方針だった。

三限の前

一限と二限はふつうに過ぎた。二限の終わりのチャイムが鳴って、休み時間が来た。クラスのいくつかが、すこしざわついた。「今日トロッコ問題、答えだっけ」「先週なんだっけ、五人と一人」「あ、それな、迷うんだよなあ」。

イケダが僕の方を振り返った。

「蓮見、お前、答え用意してきた?」

「用意は、してない」

「用意なしで答えられんの?」

「答えられないかもしれない」

「マジか。俺もない。なんとなく『五人かな』って言って終わるつもり」

「うん、それでいいと思う」

イケダは「お前、なんか余裕だな」と笑って、自分の机に向き直った。

余裕、というのとは、たぶん違っていた。組み立てていない、というのと、余裕がある、というのは、別の状態だった。けれど、それを説明する間に、三限のチャイムが鳴った。

鈴木先生

教室のドアが開いて、鈴木先生が入ってきた。先週と同じ、平らな声と、いつもの白いシャツ。テキストを教卓に置いた。

「先週の続きです。トロッコ問題、考えてみましたか」

クラスは軽く頷いた。

先生は何人かを当てた。前のほうの男子から、窓側の女子、後ろの席の男子、と続いた。

「五人を救うのが、まあ、合理的だと思います」

「迷ったまま、結局答えが出ない、という感じです」

「橋から押すのは、感覚的には無理です」

イケダが当てられた。

「五人かな、と思います。でも、自分が引いたっていうのは、引っかかります」

クラスはぽつぽつと、先週と似たような答えを並べた。三組らしい、議論というより独り言の重なり。

先生はひとつひとつ丁寧に受け止めて、別の生徒に振った。

そして僕の方を見た。

「蓮見さんは、どうですか」

立ち上がる

立ち上がった。クラスの視線がこちらに向いた。

「答えは、たぶん『五人を救います』になります」

「うん」と先生は短く頷いた。

「けれど、そこに至るまでの考え方を、すこしお話してもいいですか」

「はい、どうぞ」

「うちは小さなお寺で、副住職の父と、先代の住職の祖父がいます。週末は法事のお参りに本堂の隅で座っていることが多いです」

クラスの何人かが、そういえば、というような顔をしていた。蓮見の家がお寺だ、ということは、三組ではあまり知られていなかった。中学が違うクラスメイトが多くて、家のことを話す機会がなかった。

「先週、檀家の方が亡くなって、月曜にお通夜があったんです。そのとき、棺のまわりに五人くらいの遺族が並びました。トロッコ問題の『五人と一人』は、お寺で見ていると、棺の中の一人と、棺のまわりの五人で、しょっちゅう、別の形で起きていました」

「五人と一人」

「ええ。けれど、そのときの『五人』は、五人それぞれが、亡くなったおじいちゃんと別の関係を持っていて、別の悲しみを抱えていました。『五人』とまとめると、その別々の関係が見えなくなる。お寺の感覚だと、『五人』は、五つの別の流れの集まりで、ひとつの単位ではないんです」

「うん」

「土曜には別の家の三回忌があって、二年前に亡くなったおばあさんを、ご家族の四人が、それぞれ別の形で抱えていました。同じおばあさんが、四人それぞれの中で、四つの違う形で続いていました。御祖父さんは『形にならない二年』、お嬢さんは『笑って思い出せる二年』、お孫さんは『写真と少しずれた顔』。同じ一人が、四つの形で生きていました」

「同じ一人が、四つの形で」

「ええ。日曜に祖父と話したんです。祖父は五十年お寺で導師をしてきました。『五人と一人を比べる、ということは、たぶん一度もしたことがない』と祖父は言いました。比べるのは外から見ている人がする作業で、中にいる人は比べることができない、と」

「祖父さんが、そう言われた」

「ええ。比べる、というのは、距離が必要な作業で、線路の中にいる人にも、その家族にも、その距離が、たぶん取れない」

毎日、まとめ直す

クラスは静かになっていた。誰もノートを取っていなかった。先生も教卓のテキストの上に手を置いたまま、こちらを見ていた。僕は少し息を整えて、続けた。

「水曜には、認知症のご主人を看ていらっしゃる檀家の方がお寺に来られて、お茶を出しながらお話したんです。その方が『同じ主人なのに、毎日違う』とおっしゃいました」

「同じ主人なのに、毎日違う」

「ええ。同じ家の同じ食卓に、いつもの主人に見える日と、別人に見える日が、交互に来る。けれど、家族はその同じ主人を、同じ主人として続けていく。これが、家族の側の、毎日のまとめ直しなんだそうです」

「まとめ直し」

「ええ。同じ人を同じ人として続けていく、というのは、自然に起きるのではなくて、家族が毎日、能動的にまとめ直している作業です」

「うん」

「これらを並べたとき、トロッコ問題の『五人』『一人』も、固定された数ではなくて、それぞれの家族のまとめ直しの、ある一瞬の途中の像、というふうに見えてきます。線路の上で停止した像は、家族の側がまだまとめ直しを続けている、その途中の写真にすぎない」

「途中の写真」

「ええ。写真を比べる、というのが、教室の問いです。写真を比べる練習として、たぶん、必要だと思います。けれど、お寺で見ているのは、写真ではなくて、写真の前後に続いている、家族の流れの方です」

「両方を見ているんですね」

「両方を見ています。けれど、教室のいまの場面では、お寺の感覚を、写真の隣に置かせてもらえると、ありがたいです」

「答えは、『五人を救います』。けれど、その『五人』『一人』は、家族の流れの中の人たちで、比べる、ということが、お寺の感覚ではしっくりこない、というのが、僕の応えに近いと思います」

そこまで言って、自分の中で、応えがいったん終わった、という感じがあった。組み立てたわけではない。並べただけだった。並べた束を、教室の温度の中に、ぽつぽつ置いた。それで終わり。

先生は頷いた。

「蓮見さん、ありがとう。座ってください」

椅子に座った。心臓が軽く鳴っていた。

先生のまとめ

先生はクラス全体に向かって話し始めた。

「蓮見さんの立場は、仏教倫理、または無常・縁起、と呼ばれる考え方に近いです。流れを凍らせないで、流れのまま受け取る、という立場です」

「先週の東さんの相対主義/文脈主義とも、少し関連しています。東さんは『文脈ごとに応答を選ぶ』、蓮見さんは『流れを凍らせない』。両者は別の方向の立場ですが、固定された答えに距離を置く、という点では、似ています」

先生は黒板に小さく六つの言葉を書いた。義務論、功利主義、徳倫理、ケアの倫理、相対主義、仏教倫理。

「これで六つの立場が並びました。一組の小川さんは義務論、二組の森田さんは功利主義、二組の茅野さんは徳倫理、四組の中島さんはケアの倫理、五組の東さんは相対主義/文脈主義、そして三組の蓮見さんは仏教倫理。一クラスにひとり、それぞれの立場で考えている生徒がいる、という結果になりました」

「これらの立場のどれが正しい、ということは、たぶんありません。それぞれの立場が、それぞれの場面で、ふさわしい応えの形を持っています」

「倫理は結論だけではなく、結論にたどり着くまでの考え方の形が、本体です。みなさんは、自分はどの立場に近いか、考えてみると面白いかもしれません」

授業の終わりのチャイムが鳴った。

廊下で

三限が終わって、休み時間になった。クラスのざわめきが戻ってきた。

イケダが机の向こうから振り返った。

「お前、すげえな。お寺の話、教室で言えるんだ」

「いや、出てきちゃった、というだけ」

「準備してきてないって言ってたじゃん」

「準備はしてない。出てきたのは、たぶん、一週間のあいだに頭の中に並んでた束だ」

「束?」

「うん、いろんな場面の束。お寺で見たり、お父さんお祖父さんと話したり」

「ふうん。お前んち、お寺だったんだ」

「言ってなかった?」

「初めて聞いた」

カワノが横から「諸行無常の家」と冗談ぽく言って、二人で軽く笑った。蓮見も少し笑った。火曜の昼休みに諸行無常の冗談をしたカワノが、まさか今日の僕の応えと地続きになるとは、たぶん思っていなかっただろう。

けれど、三組の温度の中で、蓮見の家がお寺だ、ということは、いつもの冗談の素材として、たぶん吸収されていく。それでよかった。

帰り道

放課後、自転車で家に帰った。山門をくぐって、地蔵の前を通った。月曜の菜の花は、もう完全に枯れていた。竹筒の水も少し濁っていた。月曜の朝に、田中さんの娘さんが新しい花を持ってくる。たぶん、その朝の前に、僕か父が竹筒の水を替える。

境内に父はいなかった。本堂か、寺務所か、檀家のところに出ているのだろう。

住居でジャージに着替えて、本堂に行った。父はいなかった。蝋燭台の灰を整えて、線香の燃え残りを片付けた。

香炉の灰の中に、何百本、何千本の線香が、形を失いながら混ざっていた。今日炊いた線香も、明日には、形を失って灰の中に混ざっていく。それぞれの線香は、炊いている十数分のあいだ、固有の形と煙を持つ。けれど、燃え終わると、灰の中で、ほかの何千本と隣り合って、見分けがつかなくなる。

これが、お寺の感覚だった。固有のものは、確かに固有のままで、しばらくのあいだ、ある。やがて、流れの中に戻っていく。戻ったあとも、なくなるのではなくて、灰の中で、別の形で続いている。

金曜の三限で僕が言った言葉も、たぶんそれと似ている。教室で言ったその瞬間は、僕の言葉として、固有の形があった。けれど、教室を出ると、聞いた人それぞれの中で、別々の形に変わっていく。形を失ったあとも、聞いた人の中で、別の形で続いていく。続いていくかもしれないし、続かないかもしれない。続かなくてもいい。線香も、灰の中で見分けがつかなくなって、それでよかった。

夜、自分の部屋でベッドに寝そべって、天井を見ていた。一週間が、頭の中で並んだ。

先週の金曜の三限のトロッコ問題から、今日の三限まで、ちょうど七日。七日のあいだに、月曜の告別式の記憶、土曜の三回忌、日曜の祖父の過去帳、月曜の朝の地蔵の花、火曜の昼休みの十六歳の犬、水曜の吉田さんの「毎日違う」が、束になって、頭の中に置かれた。

束を組み立てたわけではない。組み立てない、まま、ぽつぽつ、教室で並べた。並べたものを、聞いた人それぞれの中で、どう続いていくかは、僕にはわからない。続かない人もいるだろう。ぽつりとどこかに残る人もいるだろう。続き方は、それぞれの人の流れの中で決まる。

父が言っていた「言葉にすると嘘っぽくなる」も、今日の僕の応えに、たぶん少しは当てはまっていた。教室の温度に翻訳した瞬間に、お寺の感覚は、わずかに嘘っぽくなった。けれど、嘘っぽいまま、応えるしかない場面もある。完全に伝えられないことを、わかった上で、ぽつぽつ並べる。それが、今日の僕にできることの全部だった。

祖父が「やめる理由がなかったから」五十年続けてきたのと、父が「手に、馴染んだ」から続けているのと、僕がいま、続けるかやめるかをまだ決めていないのとで、三代の続け方は、それぞれ違う。違ったままでいい。違ったまま、流れていけば、それで続いていく。

金曜の三限のトロッコ問題に対して、僕の応えは、こういう形だった。凍らせない、で、応える。流れを止めずに、流れのまま、ぽつぽつ言葉を置く。置いた言葉も、流れの中で形を変えていく。固定された答えにはならない。固定されない答え、というのが、お寺の感覚での応え方だった。

来週の月曜には、田中さんの娘さんが、また地蔵に花を置きに来る。父と境内を掃く。本堂の朝のお勤めをする。火曜には学校で、また何かが起きる。水曜にも木曜にも金曜にも、流れは続く。流れの中で、応えが必要な場面が来れば、また束から、ぽつぽつ、出てくる。

窓の外で、本堂の屋根がうっすら見えた。離れの方では、祖父が灯りを消すころだった。寺務所の方では、母がお盆の手紙書きを、たぶん明日も続ける。家のそれぞれの作務が、それぞれの流れで続いていた。

僕も、その流れの中の、ひとりだった。

蓮見のトロッコ問題シリーズ・完

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← シリーズ #2:二年前
← シリーズ #1:たまたま、五人
← 関連:火曜の三限、もう一度(アヤのトロッコ問題シリーズ最終話、本作のサブタイトルと対称)
← 関連:揺らぎは、似ていた(ジュンのトロッコ問題シリーズ最終話)
← 関連:話しかけない(茅野のトロッコ問題シリーズ最終話)
← 関連:俺は、そこにいた(中島のトロッコ問題シリーズ最終話・木曜の三限、もう一度)
← 関連:隣に、置いて、答える(東のトロッコ問題シリーズ最終話・月曜の三限、もう一度)
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本作はシリーズ第7話、最終話。金曜の三限、トロッコ問題の二回目。一週間で頭の中に束ねた六つの場面(先週の告別式、土曜の三回忌、日曜の祖父の過去帳、月曜の地蔵の花、火曜の十六歳の犬、水曜の吉田さんの「毎日違う」)を、組み立てない、ままで、教室にぽつぽつ並べる。「答えは『五人を救います』。けれど、その『五人』『一人』は、家族のまとめ直しの途中の像で、比べることがお寺の感覚ではしっくりこない」。鈴木先生が六つの倫理を黒板に並べる——義務論(アヤ)・功利主義(森田)・徳倫理(茅野)・ケアの倫理(中島)・相対主義/文脈主義(東)・仏教倫理(蓮見)。一クラスにひとり、それぞれの立場で考えている生徒がいる。アヤの「考え続ける」、ジュンの「広がる」、茅野の「続く」、中島の「いる」、東の「立ち上がる」、そして蓮見の「凍らせない、で、応える」——六つの倫理、六つの動詞、六つの時間性。シリーズ群の五角構造が六角に拡張する。

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。登場人物・場面はフィクションです。