たまたま、五人
蓮見と、金曜の三限、お寺の感覚で——蓮見のトロッコ問題シリーズ #1

蓮見、高校二年、三組。家は街の小さな浄土真宗のお寺。父は住職で、祖父は先代の住職、引退したいまも本堂の脇の離れに住んでいる。母は寺務所で檀家の対応をしている。僕は副住職の長男ということになるが、お寺を継ぐかどうかはまだ決めていない。決めなくていい、と父は言うが、決めなきゃいけない日はいつか来るのだろうとは思う。

金曜の三限

金曜の三限は倫理だった。鈴木先生は五組では月曜、一組では火曜、二組では水曜、四組では木曜、三組では金曜の三限に倫理を教える。週の最後、五日連続で同じ単元を別のクラスで繰り返している、ということになる。

今日の単元はトロッコ問題。鈴木先生がプリントを配って、いつも通りの平らな声で状況を読み上げた。線路、トロッコ、五人、一人、レバー。

「考えてみてください」と先生は言った。

三組は比較的おとなしいクラスで、議論というよりは独り言の重なりに近い反応が、ぱらぱらと出た。「五人かな」「迷う」「自分が引くのは、ちょっとな」「家族なら違うかも」。

僕は何も言わなかった。考えていなかったわけではない。考えていた。けれど、考えていることがトロッコ問題そのものとは少しずれているところにあった。

頭の中で立ち上がっていたのは、お寺の本堂の、線香の匂いだった。

先週の月曜

先週の月曜の夜、檀家のひとりが亡くなった。八十六歳のおじいちゃん。もう何年も家で寝たきりだった。火曜にお通夜、水曜に告別式。父が導師を務めて、僕も本堂の隅で経を唱えた。お寺の長男としてそういう場に出る回数は、年に十回くらいはある。

水曜の告別式、棺の中におじいちゃんがひとり横たわっていて、棺のまわりに遺族が立っていた。息子さん、息子さんのお嫁さん、お孫さんが二人、それから親戚のおばさんがひとり。五人だった。

たまたま五人だった。もう少し親戚が来ていたら六人だったし、お孫さんのうちのひとりが受験で来られなければ四人だった。「五人」というのは、その日のその時間に、たまたまその数だった、というだけの数字だった。

いま、教室で配られているプリントの「五人」も、たぶん同じだ。問題の作者がたまたま「五人」と書いた。書いた人が「四人」と書けば四人だったし、「八人」と書けば八人だった。「五人」は固定された数ではない。問題の中では固定されているように書かれているが、実際の場面では、五人は移ろう。

線香の匂い

本堂の線香の匂いは、葬儀のあいだじゅう続いていた。お焼香のときに、遺族のひとりひとりが順番に立ち上がって、棺の前に来て、香をつまんで、香炉に落とした。

順番が来たときの遺族の表情は、五人それぞれ違っていた。息子さんは静かに泣いていた。息子さんのお嫁さんは下を向いていた。お孫さんのひとりは涙ぐんでいて、もうひとりは無表情だった。親戚のおばさんは何かをぶつぶつとつぶやいていた。

五人が並んでいる、けれど五人は塊ではない。それぞれの一人が、おじいちゃんとの別の関係を生きていて、別の悲しみを抱えていた。「五人」とまとめると、その別々の関係と悲しみが、見えなくなる。

そして、棺の中のおじいちゃんも、ひとりではあったけれど、ひとりだけで死んだのではない。八十六年のあいだに、たくさんの人と関わって、その関わりの末に、そこに横たわっていた。「一人」というのも、塊で見ると、その人の八十六年が見えなくなる。

「五人と一人」の問いは、五人を五人としてまとめて、一人を一人としてまとめて、その上で比べる、という問いの立て方だった。お寺の感覚では、まとめる、ということが、最初から、少し違う。

流れる

父はお経を読みながら、ときどき短い法話を挟む。先週の告別式でも、短く話していた。

「故人は八十六年生きられました。八十六年のあいだに、たくさんの方と縁を結ばれて、その縁の積み重ねの末に、いま、この本堂に、こうして皆さまと一緒におられます。皆さまもまた、それぞれの縁の積み重ねで、きょうここにおられます」

父はいつも、こういう短い話を、葬儀でも法事でも、繰り返す。聞き慣れている話だった。けれど、聞き慣れているからといって、頭を素通りするわけではない。きょうの三限で、僕の頭の中に、この話がふっと戻ってきた。

縁の積み重ね。それぞれの場所から流れてきて、たまたまこの場面で交わる。交わったあとは、それぞれの場所に流れていく。

トロッコ問題の「五人」も、たぶん流れの中の人たちだった。それぞれが別の場所から来て、たまたま線路の上にいて、別の場所に行こうとしていた。「一人」も同じく、別の場所から来て、別の場所に行こうとしていた。問題は、その流れを、ある瞬間で凍らせて、五人と一人を比べさせる。凍った瞬間に、「五人を救う」「一人を救う」の二択が立ち上がる。

けれど、凍らせる前の流れに目を向けると、選択は、二択ではなくなる。流れている人たちは、その瞬間の前にも別の場所にいたし、その瞬間のあとも別の場所に行く。その「前」と「あと」を見ない、ということが、問題の前提になっている。

その前提が、お寺の感覚では、少し、嘘っぽく感じられた。

当てられない

鈴木先生は何人かを当てて、答えを聞いた。当てられた生徒はそれぞれ自分の答えを述べた。「五人を救うのが、まあ、合理的かなと思います」「迷ったまま、どっちも、選べない、という感じです」「橋から押すのは、感覚的に無理です」。

先生は丁寧にひとつひとつの答えを受け止めて、別の生徒に振った。クラスの議論はゆっくり進んだ。三組は議論が燃え上がるタイプではなく、ぽつぽつと小石を置いていくような進み方をする。

僕は当てられなかった。当てられなくてほっとした、わけではない。当てられたら何を答えるか、頭の中で何度か試してみた。けれど、まとまらなかった。

「五人と一人を凍らせて比べる、という前提が、僕の家の感覚とずれています」と答えても、たぶん通じない。「凍らせるって、どういうこと?」と聞き返されて、そこからお寺の話を始めるのは、金曜の三限の四十五分の中では、長すぎる。

かといって「五人を救います」と答えるのは、自分の中ではしっくりこない。しっくりこないのに合わせて答えるのは、嘘になる。

結局、何も言わない、というのが、いまの僕にできる応え方だった。

授業の終わりが近づいた。鈴木先生は「次回までに、自分なりに考えてみてください」と言って、プリントを机の上に残させた。三組の次回は、来週の金曜。一週間ある。

帰り道、お寺で

放課後、自転車で家に帰った。家といっても本堂と寺務所と住居がひとつの敷地にある。山門をくぐって自転車を置いて、住居のほうから入った。

本堂のほうから線香の匂いがしてきた。父が夕方のお勤めをしている時間だった。

住居でジャージに着替えてから、本堂の脇の作務に出た。掃き掃除、香炉の灰の整理、ろうそく台の磨き。土曜と日曜は法事が多いので、金曜の夕方に下準備をすることが多い。

父が本堂から出てきて、僕の手元を見た。

「きょうは早いな」

「金曜だから」

「ああ、明日の法要ね。よろしく」

父は寺務所のほうに歩いていった。それで会話は終わった。父との会話はだいたいこのくらいの長さで、長くて三、四往復くらいで終わる。

香炉の灰を整理しながら、頭の中でトロッコ問題のプリントが、もう一度立ち上がった。線路、五人、一人、レバー。

香炉の灰の上に、線香の燃え残りが、ちょこんと立っていた。それを灰ならしで均すと、灰の上に新しい線が描かれた。線が描かれた、その瞬間の灰の表情と、線が描かれる前の灰の表情は違っていた。けれど、どちらも灰だった。線を描いただけで、灰そのものが変わったわけではない。

トロッコ問題のレバーも、線を描く道具に似ているのかもしれない、と思った。レバーを引くと、線路の上の景色が変わる。けれど、線路の上にいる人たちが流れの中にいる、という事実は変わらない。

夜、自分の部屋でベッドに寝そべって、天井を見ていた。明日は土曜で、午前中に三回忌の法要が一件、午後に四十九日が一件入っている。父の読経の脇で、僕も本堂の隅に座る。

金曜の三限のことを、もう一度、頭の中で並べてみた。

五人と一人。線路、トロッコ、レバー。鈴木先生のいつもの平らな声。クラスメイトの「五人かな」「迷う」のぽつぽつとした応答。

そして先週の告別式。棺の中の、おじいちゃん。棺のまわりの五人の遺族。線香の匂い。父の短い法話。「縁の積み重ねで、きょうここにおられます」。

これらが、僕の頭の中では地続きだった。地続きなのに、教室では、地続きの話として出すのが難しい。教室の文脈では、トロッコ問題は線路の上の問題で、お寺の話は別の場所の話だった。

けれど、僕にとっては、本当は同じ問いだった。「五人と一人」を凍らせて比べる、という問いに対して、お寺の感覚は、「凍らせない」と応える。凍らせないで、流れの中で、それぞれの一人を、それぞれの五人を、見続ける。それが、僕の家の感覚だった。

一週間後の金曜までに、これを言葉にできるかどうかは、わからない。言葉にしないまま、来週の三限に座る、ということもありうる。言葉にできてもできなくても、流れは続く。来週の三限のあとも、土曜の法要のあとも、線香は炊かれて、燃え尽きて、灰になる。

窓の外で、本堂の屋根の輪郭が、夜空にうっすら浮かんでいた。父の作務衣の音が、住居の廊下からかすかに聞こえた。

→ 次話:二年前(土曜の三回忌、蓮見のトロッコ問題シリーズ #2)
← 関連:先生、納得がいきません(一組のアヤ。義務論、納得しないまま考え続ける)
← 関連:答えは、出る(二組の森田。功利主義、即答する)
← 関連:所作の中で(二組の茅野。徳倫理、所作を続ける)
← 関連:おはよう(四組の中島。ケアの倫理、目の前の人に応える)
← 関連:日本では(五組の東。相対主義/文脈主義、文脈を見比べる)
← 関連:アヤのトロッコ問題シリーズの種明かし
← 関連:ジュンのトロッコ問題シリーズの種明かし
← 関連:茅野のトロッコ問題シリーズの種明かし
← 関連:中島のトロッコ問題シリーズの種明かし
← 関連:東のトロッコ問題シリーズの種明かし
← シリーズ目次に戻る

【蓮見のトロッコ問題シリーズ予告】
本作はシリーズ第1話。蓮見は三組の高校二年、副住職の長男、家は街の小さな浄土真宗のお寺。金曜の三限、倫理の授業でトロッコ問題を聞きながら、頭の中に本堂の線香の匂いと、先週の告別式の場面が立ち上がる。棺の中のおじいちゃんと、棺のまわりの五人の遺族。「五人」も「一人」も、たまたまその数で、流れの中の人たち。トロッコ問題は五人と一人を凍らせて比べる問いだが、お寺の感覚では「凍らせない」が応えになる。アヤの義務論、ジュンの功利主義、茅野の徳倫理、中島のケアの倫理、東の相対主義/文脈主義に対して、蓮見は「縁起/無常」を立てる、第六のトロッコ問題シリーズ。

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。登場人物・場面はフィクションです。