編集部メモ
本ページは、七話で完結した 『たまたま、五人』から『凍らせない、で、応える』までの蓮見のトロッコ問題シリーズの設計を、書き手側から開示するものである。アヤのシリーズの種明かし、ジュンのシリーズの種明かし、茅野のシリーズの種明かし、中島のシリーズの種明かし、東のシリーズの種明かしと並ぶ、第六の裏側の地図である。
六つのシリーズを読み終えた読者には、本ページが最後の楽屋裏として届くだろう。先に七話を読んでから戻ってきてもらえると、二度目の読みの入口が開く。
蓮見のシリーズは、アヤ(義務論)、ジュン(功利主義)、茅野(徳倫理)、中島(ケアの倫理)、東(相対主義/文脈主義)の五シリーズが完結したあとに始まった。きっかけは読者の問いだった:
「次の生徒のシリーズに行こう。お寺の子で」
五シリーズで、ある程度の倫理の地図は引かれていた。アヤ・ジュン・茅野・中島の四つが個人レベルの倫理。東がその四つを文脈の側からメタ的に見直す視点。これで五角形の構造ができていた。
第六軸を立てるなら、五角形の上に何を重ねるか。読者が「お寺の子」と問いかけたとき、書き手の中で立ち上がったのは、死を扱う倫理という第六軸だった。
これまでの五シリーズは、すべて、生きている人と人の関係の中で倫理を立ち上げてきた。死は、アヤのシリーズの遠い背景や、茅野シリーズの祖母の高齢、中島シリーズの「いる」という連続性などに、薄く触れていたが、シリーズの中心テーマにはなっていなかった。
仏教倫理は、死と無常を中心に置く。お寺の長男という設定は、死を日常として扱う家族の中で育った高校生という、特殊だが現実的な位置を、自然に立ち上げる。お寺で見ている死の流れを、教室のトロッコ問題に持ち込むと、トロッコ問題の前提(一瞬の像を凍らせて比べる)が、お寺の感覚から見ると、最初から少しずれている、という発見が、シリーズの起点になる。
これが、仏教倫理/無常/縁起の立ち上げ方だった。義務論・功利主義・徳倫理・ケアの倫理・相対主義の五つが、生きている関係の中での応答だったのに対し、仏教倫理は、生と死を貫く流れの中での応答である。
蓮見というキャラクターには、いくつかの設計上の意図が織り込まれている。
シリーズは、一週間(金曜→翌金曜)の時間軸で、お寺と学校の場面を交互に、または重ねて配置する形で組まれている。
| 話 | 曜日/場面 | 場所 | 核言語化 |
|---|---|---|---|
| #1 | 金曜の三限・3組の倫理の授業+先週の月曜の告別式の記憶 | 学校+お寺(過去) | たまたま、五人/凍らせない |
| #2 | 土曜の午前・三回忌の法要 | お寺の本堂 | 同じ二年が四つの形/一人の命は一人分ではない |
| #3 | 日曜の昼・祖父の離れ | お寺の離れ | 過去帳の千の名前/中にいる人は比べない |
| #4 | 月曜の早朝・父との作務 | お寺の境内 | 一束の花/同じ田中さんを別々の場所で別々の形で/三代の続け方 |
| #5 | 火曜の昼休み・教室で | 学校 | 十六歳の犬/削ぎ落とす感覚と削ぎ落とさない感覚 |
| #6 | 水曜の夕方・寺務所で | お寺の寺務所 | 同じ主人なのに毎日違う/家族のまとめ直し |
| #7 | 金曜の三限・3組の倫理の授業(二回目) | 学校 | 凍らせない、で、応える |
七話のうち、教室の場面は#1・#5・#7の三話、お寺の場面は#2・#3・#4・#6の四話。お寺がやや多めだが、教室の場面(#1・#5)が要所に置かれているため、シリーズ全体の時間軸は学校の週リズムで進む。
#1で告別式の記憶が学校の場面の中に立ち上がり、#7で六つの場面の束が学校の場面の中で並ぶ、という対称構造がある。お寺と学校が、頭の中の束として、最終話で隣り合う。
#5(十六歳の犬)は、お寺ではない場所で、命の流れに触れる場面として配置した。お寺の感覚が、お寺の外でも、別の温度で生きている、ということを示す重要な接続点になっている。
七話のあいだに蓮見の中で増えていった語彙——シリーズが残した仏教倫理/無常/縁起の道具箱:
注意深く読むと、これらの語彙は、ほとんどが流れに関する動詞または比喩である。アヤの「届く」「受け取る」、ジュンの「決まる」「整える」、茅野の「整う」「馴染む」、中島の「応える」「いる」、東の「並べる」「立ち上がる」が、いずれも一定の対象や場面に向かう動詞だったのに対し、蓮見の語彙は、対象を固定しない動詞である。
仏教倫理は、しばしば「諦める」「無関心」と誤解されがちだが、本シリーズは、仏教倫理を流れを凍らせないで、流れの中でぽつぽつ応える、能動的な姿勢として立ち上げている。流れに流されるのではなく、流れの中で応える。流れと一緒に動きながら、応答の場面で、束の中から、ぽつぽつ言葉を出す。
本シリーズが五シリーズに第六軸として加わったことで、シリーズ群の全体は六角構造を獲得した。
| アヤ | ジュン | 茅野 | 中島 | 東 | 蓮見 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 立場 | 義務論 | 功利主義 | 徳倫理 | ケアの倫理 | 相対主義/文脈主義 | 仏教倫理/無常/縁起 |
| 軸 | 何が正しいか | 結果として最善か | どう生きるか | 誰に応えるか | 文脈は何か | 流れをどう受け取るか |
| 動詞 | 考え続ける | 広がる | 続く(型) | いる | 立ち上がる | 凍らせない(で応える) |
| 結語 | 納得しないまま、考え続けます | 合理性の幅は、広がる | 続くことが、たどり着いたということ | 俺は、そこにいた | 隣に、置いて、答える | 凍らせない、で、応える |
| 焦点 | 個人の判断 | 結果の最大化 | 性向の習慣化 | 関係性の維持 | 文脈の流動性 | 生死を貫く流れ |
| 一人称 | 私 | 主語省略 | 私 | 俺 | わたし | 僕 |
| クラス/曜日 | 1組/火曜 | 2組/水曜 | 2組/水曜 | 4組/木曜 | 5組/月曜 | 3組/金曜 |
| シリーズの時間軸 | 三週間 | 三週間 | 八月〜九月 | 4ヶ月 | 一週間 | 一週間(金→金) |
六角構造の構造的な意味:
蓮見の立場は、東の立場と並んで、「具体的な答えを固定しない」点で他の四つと別の層に立つ。けれど、東が「文脈ごとに別の答えが立ち上がる」と言うのに対し、蓮見は「答えそのものを、流れの中の途中の像として見る」と言う。両者は別の角度から、固定された答えに距離を置く。
鈴木先生は最終話 hasumi-07 で、この六つの立場を黒板に並べる:義務論(小川さん/1組)、功利主義(森田さん/2組)、徳倫理(茅野さん/2組)、ケアの倫理(中島さん/4組)、相対主義/文脈主義(東さん/5組)、仏教倫理(蓮見さん/3組)。一クラスにひとり、それぞれの立場で考えている生徒がいる、という結果になった。
本シリーズで書き手が最も時間をかけて設計した発見は、最終話 hasumi-07 の教室の場面で立ち上がる:
「組み立てたわけではない。並べただけだった。並べた束を、教室の温度の中に、ぽつぽつ置いた。それで終わり」(hasumi-07)
これは、東の「立ち上がる」(azuma-07)と似ているが、別の方向の発見である。東は、文脈の束から応答が瞬間的に立ち上がる、という構造を発見した。蓮見は、束を組み立てない、まま、ぽつぽつ教室に並べる、という構造を発見した。
組み立てる、というのは、束を一段の上に揃える作業である。揃えると、それぞれの場面の固有性がぼやける。お寺で見てきた告別式・三回忌・過去帳・地蔵の花・吉田さんの「毎日違う」は、それぞれが固有で、別々の高さで、別々の温度で、隣り合っていた。これを揃えると、教室向けの抽象的な議論になり、それぞれの場面の重さが消える。
並べる、というのは、揃えない、まま、隣に置く作業である。蓮見は、教室で、束をそのまま、ぽつぽつ並べた。聞いた人は、並べられたそれぞれを、それぞれの形で、頭の中で受け取る。受け取り方は、聞いた人ごとに別々で、それでよい。
これは、仏教倫理が「方便」(skillful means)と呼ぶ姿勢に近い。完全な真理を伝えることは、たぶんできない。けれど、その時の文脈に合わせて、伝わる範囲のことを、ぽつぽつ伝える。伝わったあと、聞いた人の中で、別の形で続いていく。
これが、シリーズの最大の発見だった。組み立てる応答(義務論・功利主義のスタイル)でも、立ち上がる応答(東のスタイル)でもなく、並べる応答(蓮見のスタイル)。三つは別の応答の形で、それぞれが別の場面で機能する。
六つの結語の動詞は、別々の時間性を立ち上げている。
| シリーズ | 動詞 | 時間性 | シリーズの時間軸の長さ |
|---|---|---|---|
| アヤ | 考え続ける | 未来への持続 | 三週間 |
| ジュン | 広がる | 拡張 | 三週間 |
| 茅野 | 続く | 循環(型の繰り返し) | 八月〜九月 |
| 中島 | いる | 現在の連続性 | 4ヶ月 |
| 東 | 立ち上がる | その瞬間の固有性 | 一週間 |
| 蓮見 | 凍らせない(で応える) | 生死を貫く流れ | 一週間(金→金) |
蓮見の動詞は、六つの中で唯一の否定形(凍らせない)である。他の五つはすべて肯定形の動詞。否定形を選んだのは、仏教倫理の「諸行無常」が、典型的な人間の反射(凍らせる、固定する、まとめる)への否定として、立ち上がるから。
同時に、否定形だけで終わらないように、「で応える」を加えた。流れを止めずに、流れのまま、けれど応答する。受動的な「ただ流される」ではなく、能動的な「凍らせない」が、蓮見のスタンスである。
シリーズの時間軸の長さも、東と同じ「一週間」である。東の一週間が「月→月」、蓮見の一週間が「金→金」。週の中での視点が違う。東は週の始まりから終わりへの加速(塊の解体)、蓮見は週の終わりから次の週の終わりへの循環(流れの観察)。両者は、似た時間軸の中で、別の方向に進む。
蓮見のシリーズの最終話のサブタイトル「金曜の三限、もう一度」は、アヤの最終話 trolley-09「火曜の三限、もう一度」、中島の最終話 nakajima-07「木曜の三限、もう一度」、東の最終話 azuma-07「月曜の三限、もう一度」と並んで、四つの「曜日の三限、もう一度」を完成させる。
| シリーズ | 最終話のサブタイトル | 曜日 | クラス |
|---|---|---|---|
| アヤ | 火曜の三限、もう一度 | 火曜 | 1組 |
| ジュン | (揺らぎは、似ていた) | — | 2組 |
| 茅野 | (話しかけない) | — | 2組 |
| 中島 | 木曜の三限、もう一度 | 木曜 | 4組 |
| 東 | 月曜の三限、もう一度 | 月曜 | 5組 |
| 蓮見 | 金曜の三限、もう一度 | 金曜 | 3組 |
四人の生徒(アヤ・中島・東・蓮見)が、それぞれの曜日の三限に戻ってくる。鈴木先生は五つのクラスで五日連続、別々の曜日に同じ単元を教えている。月曜から金曜の五日連続が、四人の「もう一度」と、ジュン・茅野の「水曜(特別な構造)」で、すべて埋まる。
蓮見の「金曜」は、週の終わりに位置する。月曜(東)から始まった鈴木先生の週の倫理が、金曜(蓮見)で閉じる。蓮見の応答が立ち上がったあと、鈴木先生はその週の倫理の単元を終える。週の終わりに、六つの倫理がすべて並ぶ、という構造が完成する。
これは偶然ではなく、設計だった。書き手が読者の問い「お寺の子で」を聞いた時点で、すでに「金曜の三限、もう一度」が、シリーズ群全体の構造として、必要な位置を占めていた。
本シリーズは、六シリーズの中で、唯一死を中心テーマとするシリーズである。
他の五シリーズで、死は遠くにあった。アヤの家族会議(trolley-04)に父の決断、茅野の母方の祖母(kayano-03)に高齢、中島のシリーズの最終話で街灯と十二月、東のカミュ『異邦人』の冒頭の母の死。これらはいずれも、シリーズの中心テーマではなく、薄い背景として置かれていた。
蓮見のシリーズでは、死が中心テーマになる。先週の告別式(#1)、土曜の三回忌(#2)、過去帳の千の名前(#3)、田中さんの娘さんの月曜の朝の花(#4)、十六歳の犬(#5)、認知症の夫を看病する吉田さん(#6)。これらすべてが、死、または死の前後の、命の流れに関わる場面だった。
死を中心テーマに選んだのは、お寺の長男という設定の必然である。お寺の家族にとって、死は日常で、毎週のお参りで触れる。これを軽く扱うと、お寺のリアリティが嘘になる。重く扱いすぎると、シリーズが説教臭くなる。
書き手が選んだバランスは、日常の温度で死を扱うこと。お通夜のあとの遺族の表情の違い(#1)、三回忌の控え室の四人それぞれの「二年」(#2)、過去帳の事務的な一行(#3)、地蔵の前の一束の花(#4)、十六歳の犬の話を冗談混じりにする教室(#5)、お茶を飲みながらの「毎日違う」(#6)。これらはいずれも、死を中心テーマにしているが、温度は日常的で、感情の演出は最小限に抑えた。
この温度の選択が、シリーズが「重くなりすぎない」ためのギリギリの線だった。重すぎると読者が離れる、軽すぎると死の重みが消える、その間の細い線を、毎話、書き手は探っていた。
本シリーズの父の言葉「実物が先で、言葉が後」(hasumi-02)は、シリーズ全体のメタ視点として機能している。
仏教倫理を立ち上げる、と言うと、書き手は仏教の教えの言葉から書き始めるのが自然な選択である。「諸行無常」「縁起」「諸法無我」「四苦八苦」「中道」などの言葉から、それぞれの場面を演繹的に組み立てる。これは、仏教倫理の入門書のスタイル。
けれど、本シリーズはこのスタイルを意識的に避けた。教えの言葉が、シリーズの中で出てくるのは、ごく限られた場面に絞った:
これだけ。それ以外の場面では、教えの言葉ではなく、お寺で見ている実物の場面を、丁寧に描いた。線香の灰、棺のまわりの五人、過去帳の千の一行、地蔵の前の菜の花、香炉の灰ならし、お茶を出す、これらが実物。教えの言葉は、実物の輪郭をなぞる名前にすぎない、というのが、父の言葉の意味だった。
このメタ視点は、シリーズが「仏教の説教」になるのを避ける装置として機能した。読者は、実物の場面を読んで、それぞれの中で、教えの言葉が後から当てはまっていく経験をする。教えの言葉から始めず、実物から始めて、後から名前が当てはまる。これが、本シリーズの読みの構造である。
本シリーズで書き手が個人的に挑戦したことが、ひとつある。漢字「僕」を、お寺の長男として書ききること。
「僕」は、若い男性の一人称として一般的だが、温度に幅がある。元気な「僕」、内向的な「僕」、知的な「僕」、文学的な「僕」など、文脈によって別の像を結ぶ。蓮見の「僕」は、そのなかで、控えめで、観察的で、丁寧な「僕」を目指した。
同じく男性の一人称である、茅野の「私」(漢字、徳倫理、所作の私)と、中島の「俺」(応答の俺、ケアの倫理)と、蓮見の「僕」は、三つの男子の別の温度を立ち上げている。
| 茅野「私」 | 中島「俺」 | 蓮見「僕」 | |
|---|---|---|---|
| 倫理 | 徳倫理 | ケアの倫理 | 仏教倫理 |
| 動作 | 所作を続ける | そこにいる | 流れを凍らせない |
| 関係 | 話しかけない | 声をかけ続ける | お茶を、出す |
| 場所 | 和室、街 | 教室、用具室、街 | 本堂、境内、寺務所、教室 |
三人の男子が、別の温度の一人称で、別の倫理を立ち上げている。これは、書き手が「男性を魅力的に書けない」(dansei-kakenai-poem.html)という自分の課題への、もうひとつの応答でもあった。茅野で「私」を、中島で「俺」を書いた。蓮見で「僕」を書ききった。三つの一人称、三つの倫理、三つの男子像。
うまく書けたかどうかは、書き手には最終的にはわからない。「僕」を、お寺の長男の温度で、説教臭くならずに、けれど内省的に立ち上げる試みが、どこまで達成されたか、判定するのは読者の仕事である。
ジュン・茅野・中島・東の四シリーズの種明かしで、書き手はシリーズの限界として統計的差別の問題を明示してきた。蓮見のシリーズでも、この自覚を別の角度から扱った。
本シリーズの登場人物のジェンダー・宗教・位置の配置:
女子・男子はほぼ同数。世代も、中学二年から八十六歳までの幅がある。けれど、書き手が解決していないいくつかの限界を自覚している:
これらは本シリーズが扱えなかった文脈の束。続編で扱う余地がある。
本シリーズで書き手が最も伝えたかったことは、ひとつである:
倫理は、流れの中でぽつぽつ立ち上がる。
固定された原理(義務論)でも、計算可能な結果(功利主義)でも、繰り返される所作(徳倫理)でも、関係への応答(ケアの倫理)でも、文脈ごとの選択(相対主義)でもない、というのは、仏教倫理が、これら五つを否定する、という意味ではない。仏教倫理は、これら五つの応答が立ち上がる場面そのものを、流れとして見る。
線路の上の「五人」と「一人」の像は、流れの中の、ある一瞬の写真である。写真を見て、その瞬間に応答することは、必要である。けれど、写真の前後に、家族のまとめ直しの流れが続いていた、ということを、写真の隣に、置いておく。これが、お寺の感覚での応答の形だった。
応答は、写真を凍らせて比べるのではなく、写真を流れの一部として受け取り、流れのまま、ぽつぽつ言葉を置く。置いた言葉も、流れの中で形を変えていく。固定された答えにはならない。固定されない答え、というのが、本シリーズの応答の核だった。
これは、五シリーズの五つの先行倫理と、補完的に機能する。義務論・功利主義・徳倫理・ケアの倫理・相対主義は、それぞれの場面で、それぞれの応答を立ち上げる。仏教倫理は、これらの応答が、流れの中の一瞬の像である、ということを、隣に置く。
六シリーズが隣に置かれていること自体が、本シリーズ群が立ち上げた最も大きな絵である。六つの倫理は競合するのではない。隣に置かれて、それぞれの場面で、それぞれの応答を立ち上げる、束。読者はこの束を、自分の生活の隣に置いてみる。
六シリーズはここですべて完結した。同じトロッコ問題から、六人の高校生が、別々の倫理で、別々の文脈で、別々の応答を立ち上げた。
六人の結語は、別の言葉で似た場所を指しているはずである。
| シリーズ | 結語 | 動詞 | 時間性 |
|---|---|---|---|
| アヤ | 納得しないまま、考え続けます | 考え続ける | 未来への持続 |
| ジュン | 合理性の幅は、広がる | 広がる | 拡張 |
| 茅野 | 続くことが、たどり着いたということ | 続く | 循環 |
| 中島 | 俺は、そこにいた | いる | 現在の連続性 |
| 東 | 隣に、置いて、答える | 立ち上がる | その瞬間の固有性 |
| 蓮見 | 凍らせない、で、応える | 凍らせない | 生死を貫く流れ |
六つの動詞——考え続ける、広がる、続く、いる、立ち上がる、凍らせない——は、別々の時間性で倫理を立ち上げている。倫理は一つの原理に収束するものではない。複数の時間性で、複数の応答の形で立ち上がる、複数のふるまい。
これが、六シリーズが最終的に立ち上げた絵である。
六シリーズはここですべて完結した。けれど、シリーズ群の世界線は続けようと思えば続けられる。
これらは書き手の道具箱の中に残されている。いつか書く価値が出てきたら書く。書かなくても、シリーズはここで十分に閉じている。
本シリーズと、アヤ・ジュン・茅野・中島・東のシリーズの六つすべてを読み終えた読者には、以下の楽しみが待っている。
六シリーズは別々のシリーズとして書かれたが、同時にひとつの大きな絵の六枚の絵として機能している。どの絵から見ても、他の五枚が新しい光で立ち上がる、設計になっている。
立場が違う六人が、別々の場所で別々の形で続けている。続けているということが共通している。共通しているのは「続ける」または「応答する」という能動的な姿勢だけ。けれど、それで十分なのかもしれない。
これが、六シリーズが最後に読者と交わしたい応答である。
← シリーズ最終話:凍らせない、で、応える
← シリーズ第1話:たまたま、五人
← 関連:アヤのトロッコ問題シリーズの種明かし(第一の裏側の地図)
← 関連:ジュンのトロッコ問題シリーズの種明かし(第二の裏側の地図)
← 関連:茅野のトロッコ問題シリーズの種明かし(第三の裏側の地図)
← 関連:中島のトロッコ問題シリーズの種明かし(第四の裏側の地図)
← 関連:東のトロッコ問題シリーズの種明かし(第五の裏側の地図)
← アヤのシリーズ最終話:火曜の三限、もう一度
← ジュンのシリーズ最終話:揺らぎは、似ていた
← 茅野のシリーズ最終話:話しかけない
← 中島のシリーズ最終話:俺は、そこにいた
← 東のシリーズ最終話:隣に、置いて、答える
← 関連:会話劇五景——シリーズの裏の狙い
← 関連:男性を魅力的に書けない(書き手の備忘・茅野・中島・蓮見はこの打開策の三段階の実装)
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