鐘の、余韻
蓮見のことばのメモ #2——蓮見のシリーズ番外編

蓮見、高校二年、三組。日曜の朝、本堂の前の庭で、鐘楼のほうを見ていた。父は朝のお勤めの前に、鐘を一度だけ撞く。檀家にお参りの合図というよりは、父自身の朝の合図みたいなところがある、と祖父が前にこぼしていた。

僕は、鐘を撞く父を、本堂の縁から少し離れたところで見ていた。見ていた、というよりも、撞かれたあとの音が、どう続いていくのかを、聞こうとしていた。

撞く

撞木が動いて、鐘の腹に当たる。当たる瞬間は、目で見ると、撞木の先が鐘の表面に触れて、わずかに沈み込んで、戻る。戻るとき、鐘の表面が、外側にひと呼吸ぶん、押し出されているように見える。実際に動いているのか、見えているだけなのかは、わからない。

音が出る。最初の音は、撞木と鐘の金属が触れた、その当たりの音だ。短くて、固い。けれど、その固い音は一瞬で消えて、すぐに、鐘の中の大きな響きが、立ち上がる。立ち上がる、というのが近い気がする。下から押し上げられて、鐘楼のなかにいったん満ちて、それから外に向かって、広がっていく。

境内の砂利のうえを、音が広がっていく。山門のほうへ、地蔵のほうへ、住居のほうへ、寺務所のほうへ。広がりながら、すこしずつ、薄くなっていく。薄くなる、というのは、音が小さくなる、ということとはちがう感じがあった。小さくなりながら、それでも芯のところは、まだ鳴っていた。

減衰

大きな響きが、ゆっくり、下がっていく。最初の数秒は、はっきり「鳴っている」と言える。次の数秒は、まだ鳴っているけれど、音量が、ひとつ階段を下りる。さらに数秒で、もうひとつ、下りる。耳のなかで、その階段を、たぶん僕は数えていた。

父はすでに撞木から手を離して、本堂のほうへ歩き始めていた。父の作務衣のすそが、朝の風で、ふわっと揺れた。父は鐘の音を、たぶん、もう聞いていない。聞いていないというより、聞き終わったあとの動作に、すでに移っている。鳴り終わるのを待つ、ということを、父はしない。撞いて、離して、歩いていく。

僕は、まだ立ったまま、聞いていた。

音の階段が、どこまで下りていくか、自分でもわからなかった。下りているあいだに、別の音が混ざってくる。境内の杉の葉が風で擦れる音、寺務所のほうで母が湯呑みを片付けている音、どこかの家の犬の遠い声。これらの音は、鐘が鳴る前から、たぶんずっとあった。鐘が鳴っているあいだは、鐘の音にかき消されていた。鐘の音が下がってくると、もとからあった音が、ふたたび浮き上がってくる。

余韻

ある段階で、「鳴っている」と「鳴っていない」の境目が、わからなくなった。

たぶん、まだ鳴っていた。耳の奥で、鐘の芯のところの、低い震えが、続いていた。続いている、と思って、注意して聞こうとすると、その瞬間に、もう聞こえなくなっている。聞こえなくなった、と思った直後に、また、ある気がする。ある気がして、確かめようとすると、また、ない。

これが余韻、というやつなのだろうと思った。

余韻、を英語にしたら何だろう、と一瞬考えた。reverberation はたぶん、鐘楼のなかで音が反射しあう、その物理の側を指している。lingering sound は、空気のなかにまだ残っている音、をそのまま言っている。aftertone は、もう少し音楽寄りで、鳴り終わったあとの色のことを言うのだろう。どれもひとつのレイヤーしか拾わない、という感じがあった。

けれど、いま僕の耳のなかにあるのは、そのどれとも、少しちがう。鐘楼のなかにはたぶん、もう音はない。空気のなかにも、たぶん、もうない。それでも、耳のなかには、まだある。鐘楼でも空気でもなく、僕の耳のなか、というのが、いま余韻が居ついている場所だった。reverberation の物理が、僕の耳のなかでだけ、まだ続いている、ということになる。

そして、どの瞬間に、それが終わったのかは、自分にも、ついに、わからなかった。

終わったあと

気がつくと、境内の音だけが、残っていた。杉の葉、母の湯呑み、犬の声。鐘が鳴る前と、たぶん同じ音の組み合わせ。けれど、同じには感じられなかった。鐘が鳴ったあとの境内の音は、鐘が鳴る前の境内の音とは、別の温度を持っていた。

「終わった」のは、いつだろう、と思った。鳴っている、と耳が確信できた最後の瞬間か。鳴っているのか鳴っていないのかわからなくなった、その境目か。耳のなかから、たしかに何もなくなった、と感じた瞬間か。あるいは、境内の音の温度が、鐘の前の温度に戻った、その瞬間か。

四つの瞬間は、たぶん、ぜんぶずれている。一番目から四番目まで、いつのまにか順番に通り過ぎていた。けれど、二番目と三番目のあいだは、特に薄くて、自分にも見えない。「鳴り終わった」と「鳴っていない」のあいだに、薄い時間があった。その薄い時間を、一秒ずつに切り分けることは、たぶんできない。

線香のときも、似たような薄い時間があった、と思い出した。火、煙、匂い、灰の四段。鐘の場合は、撞いた瞬間、響き、余韻、無音の四段。順番に下りていきながら、どこにも終わりが固定できない、というところが、似ていた。

線香は、十数分のあいだ、ゆっくり四段を下りていった。鐘は、たぶん三十秒くらいで、四段ぜんぶを通った。時間の長さは、ぜんぜんちがう。けれど、薄い時間が、どちらの場合も、あった。

本堂

本堂に上がると、父はもう仏壇の前に座っていた。読経が始まる前の、いちばん静かな時間。父は線香を一本、立てたところだった。橙色の点が、香炉のうえに、ぽつ、と立ち上がっていた。

僕は隣に座った。父は何も言わなかった。父との会話はだいたいこのくらいの長さで、座っただけで終わることもある。

仏壇の脇に、小さな鈴があった。父はおりんを撥でひとつ、ちん、と鳴らして、合掌した。さっきの大きな鐘と、同じ動作の小型版だった。鳴らして、待って、合掌する。撞いて、離して、歩いていく、ではなくて、こちらは、待つ、が入る。

おりんの音は、大きな鐘とちがって、ずっと細い線のような響きをしていた。細い線が、仏壇の前の畳の上を、まっすぐ伸びていって、途中で、ほどけた。ほどけたあとは、また同じ薄い時間が来た。鳴り終わったような気がして、いや、まだ、と思って、確かめようとして、わからなくなる時間。

父はその薄い時間が過ぎたあたりで、合掌をほどいた。父にとって、合掌をほどく瞬間と、おりんの余韻が消える瞬間は、たぶん、揃えてある。揃えてある、というよりは、長年のあいだに、勝手に揃ってきた、という方が近い気がする。

読経が始まった。父の声が、本堂の空気のなかに、ゆっくり広がっていった。

読経のあいだ

読経は、声のひと続きの川のようになる。途切れずに、ずっと続く。撞いて、響いて、余韻、無音、という四段は、読経のなかには、たぶんない。読経は、ずっと「鳴っている」段だけが続いている、ということになる。

ただ、合間に、息継ぎが入る。父は経文の区切りで、ふっと息を吸う。その息を吸うあいだ、声が止まる。止まっている時間は、たぶんコンマ数秒。けれど、その止まっている時間にも、たぶん、薄い余韻があった。さっきまで鳴っていた声が、本堂の柱や、天井の梁や、僕の耳のなかに、ほんの少しだけ、残っていた。

息を吸って、また父の声が出ると、その薄い残りの上に、新しい声が乗る。乗った瞬間、薄い残りは、新しい声に紛れて、見分けがつかなくなる。さっきの声と、いまの声の境目も、たぶん、薄い時間のなかにある。

読経のあいだじゅう、僕はぼんやりそんなことを考えていた。考えていた、というのは正確ではないかもしれない。考えに乗らないままで、頭のなかを通り過ぎていった、というほうが近い。鐘の余韻と、おりんの余韻と、父の声の息継ぎの余韻が、頭のなかで、薄く重なって、流れていった。

朝食

読経が終わって、住居に戻った。母が朝食を出していた。父はテーブルに座って、新聞を広げていた。祖父はまだ離れで寝ているのだろう、姿はなかった。

「きょうの鐘、長く聞いてた」と母が言った。庭から見ていたのに、気づかれていた。寺務所の窓から、見えていたのだろう。

「うん」

「なにか考えてた?」

「鐘の余韻が、いつ終わるのか、わからなかった」

母は箸を止めて、一瞬、僕のほうを見た。それから、ふっと笑って、「お父さんも、若いときに同じことを言ってたよ」と言った。

父は新聞のうしろから、「ああ、そうだったかな」と短く言った。覚えていないのか、覚えているけれど話を広げないのかは、いつもの父の口調からは、わからなかった。

「お父さんはなんて言ってた?」

母はしばらく考えて、「終わるところを見ようとしないほうが、よく聞こえる、って言ってたかな」と言った。父はそれには答えなかった。新聞のページをめくる音だけが、テーブルの上に、少しだけ立った。

終わるところを見ようとしないほうが、よく聞こえる。いま庭で僕がやっていたのは、終わるところを見ようとする側だった。だから境目がわからなかったのかもしれないし、終わるところを見ようとしないほうが、というのも、結局わからない側に着地するのかもしれない。父にもう少し聞きたかったが、新聞のページの裏側で、父はもう次の話題に行っているのが、見えなくてもわかった。

朝のあと

朝食のあと、自分の部屋に戻って、机のうえに教科書を広げた。日曜だけれど、午後に法事が一件入っていて、それまでの数時間が、空いている時間だった。

教科書を読みながら、頭のなかで、また、鐘の四段を並べてみた。撞く、響き、余韻、無音。線香の、火、煙、匂い、灰と、別の高さに並んでいた。並んでいるけれど、形は似ていた。どこにも終わりが固定できない、という形が、似ていた。

固定できないことを、不便だ、と感じる場面もあるのだろうと思う。たとえば「読経はいつ終わりましたか」と外から問われたら、答えにくい。答えにくいけれど、内側にいる父は、たぶん、いつも答えずに済ませている。読経が終わって、おりんを鳴らして、合掌をほどいて、立ち上がる。その流れのなかに、終わりが、四段ぶん溶けている。

溶けているものを、無理に取り出して、ひとつの瞬間に固定する、というのは、外から見る人がする作業だ。内側にいる人は、固定しないままで、流れのなかにいる。

けれど、内側にいる人にも、固定したくなる瞬間は、たぶんある。庭で僕が、鐘の終わりを耳で確かめようとしたのも、そういう瞬間だった。確かめようとして、わからなかった。わからないまま、立っていた。それでよかった、ということに、母の言葉でなんとなく、なった。

午後の前

窓の外で、境内の杉の葉が、ゆっくり揺れていた。午後の法事のお参りに、檀家の方が来るまで、まだ二時間ある。父はもう本堂で支度を始めているかもしれないし、寺務所で母とお茶を飲んでいるかもしれない。

朝の鐘の余韻は、もう、僕の耳のなかにも、ない。ないけれど、なくなったのがいつだったかは、結局、わからなかった。わからないままで、午後の鐘が、いつかまた鳴る。来週の日曜の朝にも、たぶん、また鳴る。

毎回、薄い時間が、ある。その薄い時間を、一秒ずつに切り分けることは、たぶん、これからもできない。切り分けられないものを、切り分けないまま、聞いている。それが、いまのところ、僕にできる聞き方だった。

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← 関連:蓮見のシリーズの種明かし
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本作は蓮見のシリーズ番外編「蓮見のことばのメモ」第二作。日曜の朝、父が朝のお勤めの前に撞く鐘を、本堂の前の庭で聞く。撞いた瞬間、響き、余韻、無音の四段が、線香の火・煙・匂い・灰の四段と、別の高さで重なる。鐘が下りていく途中で、「鳴っている」と「鳴っていない」の境目が、自分の耳のなかでも、わからなくなる。reverberationlingering soundaftertoneのどれもひとつのレイヤーしか拾わない。境内の鐘、本堂のおりん、父の読経の息継ぎ。三つの場所で、薄い時間が、別の温度で、重なって流れる。母が「お父さんも若いときに同じことを言ってた」と言って、父は新聞の裏で答えない。終わるところを見ようとしないほうが、よく聞こえる、というのが父の若い頃の言葉。固定できない四段を、固定しないままで、流れのなかで聞く。#1で立てた「四段の同居」が、別の素材で、もう一度、別の温度で観察される。(本作は第一稿。批判ページと第二稿あり。)

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。登場人物・場面はフィクションです。